専門家志向と総合知

発想

20代前半ぐらいのとき、ライター志望の同年代の友人から「自分を◯◯評論家、みたいにキャラ付けをしたほうがいい」ということをよく言われていた。たとえば「スーパー銭湯評論家」とかそういうニッチな分野を見つけて発信し、人に覚えてもらうのがよいということである(ちなみに、これの嚆矢は「女子アナ評論家」じゃないかなと思う)。

で、実際、いま10年経って、世の中は完全にその方向になっている。ライターではなくても、YouTuberとかは何かしらの分野に特化して発信し、それで認知を得るのだ。「あ〜◯◯の人ね」ということで覚えてもらいやすい。

ちなみに僕は前述の友人のアドバイスはなるほどなと思いつつ、率直に言って低俗だと感じた。当時の自分はそもそもテレビもお笑いも大して好きではなかったし、週刊誌文化なども、読みはするけれども心の底から好きになれるものではなかった。そういう自分の好きでない文化の支配下に入りたいとは思えなかった。

「テレビ的な大衆に媚びるべき」というのは、ある種の日本社会の道徳と化している。こういうことを言う人はとても多く、その全体的な構造自体に強制性・同調圧力を感じるし、社会や他人から押し付けられた美学なき道徳には従いたくない、と思ってしまう。

いまはその「テレビ道徳」ともいうべきもののプレッシャーが、YouTubeやGoogleなどの「専門特化」を良しとするアルゴリズムと結びついてさらに加速しており、結果として人々のあいだでも「何らかの専門家にならなければ」という専門家志向が高まり、「信仰」ともいうべきものになってきている。

少し政治的な内容になるが、「8割おじさん」と呼ばれた西浦博は、2020年4月の段階で「新型コロナで42万人死ぬ」という予測を立てて多くの人が恐怖したが、その予測は大幅に外れた。

ところが、この予測は「国民を脅かす効果があったからよかった」というふうに正当化された。西浦自身も、1年後、2021年の朝日新聞のインタビューで下記のように語っている。

いま見直しても、死者42万人という被害想定は、科学的妥当性では大きな問題はないと思っています。しかし、そうした『恐れに通じるコミュニケーション』はもっと慎重にやるべきだと、先輩の先生から怒られもしました。

政治家、覚悟のかけらもなかった 「8割削減」西浦教授 [新型コロナウイルス]:朝日新聞デジタル より)

これは、西浦が社会科学の知識を有していなかったことを意味している。

テロリズムの語源は「ラ・テロル(恐怖政治)」である。これは「恐怖」によって民衆を動かす手法であり、手段としては暴力だけでなく心理的威嚇も含まれる。フランス革命時に革命を主導したジャコバン・クラブ、モンターニュ派のロベスピエールが、自身に反対する者たちを次々に処刑し、それによって作り出された恐怖によってフランスを統治しようとしたことに由来する。

そして、こうしたフランス革命のなかでの有名なエピソードから、「民主主義国家において、恐怖を政治に用いてはならない」というのは、多少なりとも社会科学の教養をもつ人間からすれば、当たり前に理解されていることだ(逆に、西浦にアドバイスした「先輩の先生」は、そのことを理解していたのだろう)。

要するにこれは、専門知の弊害である。西浦がロベスピエールのことを知っていたら、「恐怖」を用いるコミュニケーションには慎重になったのではないか。専門に突っ走るのはいいが、国家の政策などマクロなものに関わる人間には、他の分野についても多少の知識を持っていなければならない。特に政治は総合知で行われるものであり、専門家の意見を過剰に政策に反映することにも問題があるだろう。上述の西浦のように、社会科学の基礎教養がないままに「専門特化しているから」という理由で政策に関する発信力を持ってしまうのは危険なことである。

専門家への過剰な信仰はどこかで問題が起きる。たとえば昭和戦前期に日本を戦争へと導いていった青年将校たちは「軍事」の専門家であった。彼らは第一次大戦の視察などを通じて「総力戦体制」の必要性を感じ、軍事の見地から日本の安全保障に危機感を持ち、「満州を征服しなければならない」と「専門家として真摯に」考え、独断専行やテロリズムなどの手法を用いて自分たちの思考を現実化させていった。そして民衆やマスコミも彼らの行動を熱狂的に支持した。やがて「軍事の専門家」たる青年将校たちは、「世の中は軍事だけで動いてはいない」と考える「総合知」を持つ政治家たち、犬養毅、高橋是清、斎藤実らのリーダーを殺害し、後に終戦工作で大きな役割を果たす鈴木貫太郎に重傷を負わせ、恐怖を用いて国家を「専門性」に従属させていった。

「専門知」には多分野からの相対化や検証が必要であるし、「専門的な見地」から発信された予測などの情報は、事後に「それがどれぐらい正しかったか」が精査されなければならない。外れたときに、「なぜ予測が外れたのか」「このメッセージはどのような影響を社会に及ぼしたのか」を問題にせず、ウヤムヤにしてしまうことこそが問題である。

では、専門知に対置される「総合知」はどんなものかというと、とてもミクロに言えば「これって◯◯みたいだよね」という発想ができることであると思う。複数の分野を多少なりとも深く知っていれば連想ゲームができる。アイデアを生み出すには「これって◯◯みたいだよね」という連想ゲームが大事だ。

ただ、そのためには、いくつかの分野を「多少」深く知っている必要がある。一つの分野への「専門特化」が必ずしも悪いわけではないとは思う。その特化した分野について深く知りつつ、他の分野について浅く関心を持って、そのなかで新たに深めたいテーマが見つかればそれを深めていけばいい(こういうのをT字型と言ったりする)。

逆に、特に「特化」したい分野がなければ、たくさんの分野について「そこそこ深く」知っていれば連想ゲームができるようになる。誰もが「専門特化」をしなければいけないわけではないと思う。むしろ「特化型人材」が他分野に不勉強であったとき、その相対化のためにこそ「多くの分野をそこそこ知っている」人が増えるほうがよい、とも考えられると思う。

中野 慧 (Kei Nakano)

1986年生、ライター・編集者・ディレクター。PLANETSにてWebマガジン編集、株式会社LIGで広報/メディア事業を経験したのち現在フリーランス。過去に構成・編集を担当した書籍に『「絶望の時代」の希望の恋愛学』(宮台真司編著、KADOKAWA/中経出版)、『ナショナリズムの現在』(小林よしのり他著、朝日新書)、『現役官僚の滞英日記』(橘宏樹著、PLANETS)、『若い読者のためのサブカルチャー論講義録』(宇野常寛著、朝日新聞出版)など。現在は、PLANETSにて月イチで「文化系のための野球入門」を連載中。
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