斎藤環『戦闘美少女の精神分析』を読む

発想

斎藤環『戦闘美少女の精神分析』は、2000年に刊行された、おたく批評の決定版のひとつとされる作品だ。著者は日本における文化批評の大家の一人である。

僕はこの本は大学生の頃に購入して途中まで読んだものの、今回改めて必要性を感じたので最初から最後まで読んでみた。

「おたく」とは何者か

さて、この本の記述で有名なのは、おたくの定義である。

斎藤環は「アニメのキャラクターで『抜ける』かどうか」とした。要するにオタクというものをセクシュアリティを出発点にして捉えている。

文庫版解説を書いている東浩紀氏は、本書よりも後に出版された『動物化するポストモダン』において、オタクを「データベース消費」という観点で捉えている。

両者の議論を比較するなら、斎藤環氏の立論のほうが直感的に正しく、しかし東氏の立論のほうが明晰であると思う。

本書における斎藤環の批評は、終盤にいくに従って難解になってくる。

戦闘美少女という表現を、「ヒステリーの症状が虚構空間、すなわち視覚的に媒介された空間において鏡像的に反転したもの」としている。この定義は、やはりやや難解と言わざるを得ない。

『動物化するポストモダン』における「データベース消費」のほうがはるかにわかりやすいのだ。

この点において、本書は「戦闘美少女」なるジャンルの成立史やおたくの国際比較という点では興味深くはあるけれども、「戦闘美少女」というジャンルの本質を分析しきったもの、とは、僕にはあまり思えなかった。

とはいえ「戦闘美少女」にまつわる文化史、そしておたく文化を持つ日本の文化空間の分析としてはとてもおもしろいものだった。

特にクロノス時間(物理的時間)とカイロス時間(人間的時間)の指摘は面白い。日本の漫画・アニメはカイロス時間的であるという。

漫画的無時間とは「きわめて高速であるために止まって見える」ような画面効果にほかならない。(同書277ページ)

実際に日本の漫画・アニメ表現というのは、こういった時間のコントロール、演出技法が極めて巧みである。これはおそらく実写などにも応用可能な考え方かもしれない。

「戦闘美少女」という勝ちパターン

本書を読んで明確に言語化されたのだが、正直、「戦闘美少女」というのは作劇における必勝法のようなものな気がした。

実際に僕自身、幼少期は『セーラームーン』に大ハマリしたし、最近でいえば『クロスアンジュ  天使と竜の輪舞』や「スター・ウォーズ」新三部作の主人公レイなどにも惹かれる。

「戦闘美少女」を中心にした作劇は、自動的におもしろいストーリーを生成するものなのだと思う。それがなぜなのかはあまりはっきりとはわからない。

ただ、少し示唆的な記述はある。

たとえば、作劇を面白くするのは

  • セックスとヴァイオレンス
  • ロマンスとアドベンチャー(上とほぼ同じ意味)

であるという点。これは言われてみれば当たり前ではあるが、これを入れ込むことによって、平版な物語を面白くしていくことが可能であると言えるかもしれない。

斎藤氏は、戦闘美少女を「ファリック・ガール(ファルス=ペニスを持つ少女)」と表現する。

僕の当初の予想としては、戦闘美少女というのは、「男らしさ」をストレートに引き受けることのできないオタク男性が、他方で繊細さ・可憐さ・優しさといった「かわいらしさ」を追求しつつ、男性的な役割=「戦闘」も追求したいという欲望の具現化なのではないかと思っていた。

実際に自分が小学校低学年のときは、男としての自信のなさ・弱さと、「かわいいものが好き」という志向が同居していたからこそ『セーラームーン』を好んでいたように思う。

斎藤氏は、どちらかというと「戦闘美少女」という現象を、「欲望の客体」として読み解こうとしていたように思う。しかし、戦闘美少女は、オタク男性の「こうなりたい」という欲望の具現化なのではないか、僕はそんなふうに感じている。

(余談)

ちなみに本書の記述とあまり関係ないのだが、日本のロボットアニメには少年兵がよく出てくることが、海外のフィクションと比べて特殊らしい。これはやはり、戦中の学徒動員の記憶と結びついているからなのではないか、と思う。

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