寡作であるか、多作であるか

発想

最近、ブログの更新を増やしてみた。

Twitterはいくら更新してもなぜか徒労感があるのだが、ブログは書けば書くほどいいんじゃないか、そんな気が今している。

昔からある議論として、大なり小なり作家としてやっていく人間は、多作か寡作か、どちらかに分けられる、というものがある。

たとえば手塚治虫は1億枚もの原稿を書いたというし、明らかに多作の部類である。

一方、宮崎駿や庵野秀明は寡作といえるかもしれない。

……いやいや、そんな大作家と比べても仕方ないかもしれない。なので家族と比べてみようと思う……!

僕は5人家族だが、自分も含め全員が「作家」的な活動をしている。ライター的なことをやっているのは僕だけで、他は全員、アートとかデザインとかそっち系だけれど。

父や母はかなりがんばってきたと思うが、多作とはいえない。兄と姉は、勤め人だが、作家的な仕事もしており、この人たちも多作というわけではない。

自分はどうかというと、以前よりもかなり寡作になってしまった気がする。まあいろんな要因があったとは思う。

なぜ寡作になってしまうか

自分がなぜ寡作になってしまうかというと、けっこう人の目を気にしているというのがある。

たとえば「会社の仕事をきっちりやっているか」。もしできていなければ、周囲から「なんであいつちゃんとオンスケで仕事してないのに他のことやってんだ」と言われてしまうだろう。

それともうひとつ。ブログのような手軽なアウトプットもたくさんしたいのだが、会社の仕事とは別に、とあるライフタイムプロジェクト的な仕事があり、そっちが進んでいないのにブログを書いているのを担当の人に見られたら、これまた申し訳ないことになってしまう。あちら様の「あいつどうせ原稿書かねぇな」という諦めの気持ちをさらに加速させてしまうことになる……。

まあそんなこんなで、ブログもTwitterも、他の表現手段も含めて、この数年、すっかりやらなくなってしまっていた。いや、やっていた時期があるのか?と問われると微妙だけど、少なくとも今よりアウトプットは多かったと思う。

やっぱり多作になろうと思った

そんなこんなで、いろんなプロジェクトがなかなか前に進まない。

そこで最近考えたのが、こういうブログみたいなインスタントなものも含めて、アウトプットを増やしたほうがいいのではないか? ということだ。

はっきり言って多作か寡作かと、才能とか実績はあまり関係ないと思う。

多作な手塚治虫と比べても、寡作な宮崎駿や庵野秀明と比べても、自分には全く才能もスキルもない。であれば、とりあえず自分がすぐにできるのは「多作になる」ということではないか、と思ったのだ。

もちろん、以前書いたように、今の、猫も杓子もやたらアウトプットしまくっている状況には正直、違和感がある。

情報発信なんて、恥ずかしくてできない

上記の記事で書いたのは、「みんなアウトプット至上主義になりすぎて、世の中にゴミを増やしているだけではないのか」というようなことだった。

自分はゴミを増やす側になりたくない。だから、できるだけいいものだけを出そう。

――そんなことを考えてしまうのも、寡作になる原因だと思う。

そしてこれに関しては、「自分はたぶんゴミを増やしてない!いいものを増やしてる!」と思い込むしかあるまい。

で、多作になったほうがいい。とにかくどんどん作ってどんどん出す。

そして、人の目を気にして何もしないのではなく、「人の目を気にするからこそやらなければいけないことをさっさと終わらせて、余った時間を横っ事に使う」

これである。これを目指すべきだ。

ただ、ひとつだけ。

経過時間は気にする。

どれぐらい短い時間で作業できて、公開まで持っていけたか、それを意識するのがいいと思った。だから、なるべくGoogleカレンダーに何にどれぐらいかかったか記録をつける。

でまあ、そんなことをやっていると、不思議とインプットも増えるし、ライフタイムプロジェクト的な原稿のほうもちょこちょこと手を付けることができてきている。

この調子で、しばらくは「どんどん作る」期間にしたいと思う。

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