『夜明けのすべて』を観てきたのでメモ

映画

『夜明けのすべて』を観た(映画『夜明けのすべて』公式サイト)。日常のありふれた光景をさまざまなカットを駆使して映し出すことで、観客も自分たちの生がそれほど思ったよりつまらなくないことにも気づく、そういうコンセプトはいいと思う。自分はこういう映画を観るとき、ロケーションはどこなんだろうということを考えてしまう。今回は、大田区の馬込のあたりだろうということの見当はついた。東京でありながら、都心とも中央沿線とも、東側の下町とも違う「南側の下町」である――下町というと江戸期からあることが想定されてしまうが、大田区のあたりは近代化以降の下町という感じだ。池上線沿線の東急っぽい宅地開発のなかにある、何気ないトンネルや公園のロケーションは非常にいい。

主人公2人のうち上白石萌音はPMS、松村北斗はパニック障害を患わっている。それを受け入れつつも回復していくという筋書きなのだが……なんというか全体的にパワープレーが足りないと思った。

上白石萌音は運動もするがヨガのような穏やかな運動である。当たり前だが、必死に自分を追い込むロッキーのようなエネルギーがない。また、『ターミネーター2』のサラ・コナーは自分を信じてくれない世界を乗りこなすために体を鍛え、銃器の扱いに習熟し、来たるべきカタストロフ後の世界を生きる人類の救世主にすべく息子に帝王学を叩き込む。これは「脳筋」ともいわれ現代では忌避されるパワープレーである。

メンタル面の悩みはパワープレーでわりと解決するということは、現代医科学でほぼ証明されてきている。そういった科学的知識の蓄積がないまま人間を描いている時点でどうしても古さを感じてしまう。上白石萌音も松村北斗も、パワーや筋力の果てに身につけられる暴力を背景に、充実した生を送ることも可能なのではないか?人間の細やかさを描くのはいい。しかし人間の悩みはパワープレーでわりと解決する。そのことを完全に、かつ意図的に無視した文学的表現に対して、自分は最近どうしても違和感を持ってしまう。パワープレーによる解決も視野に入れた文学的な表現が出てきてもいいのでないか。これは人間中心主義を脱して、「人間も動物の一部である」と認めることから始まる。人間=細やかな生き物という自己肯定、要は西欧近代的な人間観から脱することは、映画表現では難しいのだろうか? パワープレーの存在を認めるということは、ユーモアを持つことである。「そんなんで解決する?」というくだらないことをちょっとやってみる、それこそがメンタルを上向きにする何よりの特効薬である。

ところで、この作品の監督である三宅唱さんは一橋の社会学部卒らしい。先輩である。この大学・学部は、在学時は「なんだ、つまんねーとこだな」と思うこともあった。しかし、写真家の大竹英洋さんのように、ぶっ飛んだ人を輩出しているらしいことが最近わかってきた。いきものがかりの水野良樹さん、NHKディレクターで『風よ あらしよ』を監督した柳川強さん、自分がインタビューしたこともあるT部長こと土屋敏男さんもそうである(記事→視聴者・出演者すべてを裏切った漢。『電波少年』土屋敏男Pに、コンテンツ制作の極意を聞いてみた | 株式会社LIG(リグ))。三宅監督の前作はボクシングの話らしいので見てみたい。

一橋のオウンドメディアである「HQ」に三宅監督のインタビューが載っていた(視覚の中に情報が見えてくる、非言語的な映画を撮り続ける | 魅力ある卒業生 | 一橋大学 HQウェブマガジン)。なるほど、こんな学生生活を送っていた人がいたんだ、ということは面白かった。大学が国立なのに渋谷の映画館でアルバイトしていたというのは非常にわかる。自分も、アルバイトではないが頻繁に渋谷・原宿に行って服屋めぐりをしていた。オシャレでなく田舎っぽい一橋がちょっと嫌で、自分は違う場所に触れていたいという気持ちがあった。当時よくスカウトされたのだが、暇そうな大学生に見えたのかもしれない。なかには「怪しいと思うかもしれないけどうちの事務所はけっこうちゃんとしたところだから、ホームページ見てみて」と言われたこともあった。結局ホームページを見もしなかったが、今となっては乗ってみてもよかったなと思ったりもする。大学時代はいろいろ外の世界と触れ合う機会が転がっていたが、あまり活かしきれていなかったところもあるなと思う。

三宅監督の話のなかで自分が共感したのは、一橋の図書館の話である。「渋谷でアルバイトしたりしていると、つい遊びたくなりますよね。でも図書館に行くと、ほかの学生が資格の勉強をしている姿を目にするわけです。すると『自分も好きな勉強をしよう』と考え直すきっかけをもらえます。ですから私はとても図書館が好きでしたね。なんというか、自分をリセットさせてくれたのです」。一橋の図書館はたしかに良いところで、僕は資格の勉強などせずに雑誌棟といわれる開けた場所にいることが多かった。ここは白書などが置いてある。本館はたしかに資格勉強勢が多いのだが、雑誌棟はもうちょっと自主的に自分のテーマを勉強しようという人や、単にダラけたい人が多く、その感じが好きだった。僕は図書館の雑誌棟とすぐそばにある食堂(西生協)の往復をする生活をけっこう長い期間送っており、その合間に暇そうな友達と出くわしたりして生協でご飯を食べたり、日当たりのいい生協前広場の喫煙所でダラダラ話したりする時間が好きだった。

もうひとつ、最近フィルムアート社の「かみのたね」というウェブマガジンが面白いことを発見した。ここには、『ドライブ・マイ・カー』の濱口竜介監督、映画評論家の三浦哲哉さん、三宅唱監督の3人の鼎談記事がいくつか置いてある。これらの記事がとにかく長い!のである。あまり加工されていない、しかし読みやすくは編集されていて、とにかく「おしゃべり」の記録をしている記事である。『夜明けのすべて』に関する鼎談もある(特別鼎談 三宅唱×濱口竜介×三浦哲哉偶然を構築して、偶然を待つ──『夜明けのすべて』の演出をめぐって | かみのたね)。ここで映画制作の労働環境と、『夜明けのすべて』の栗田科学の職場環境をリンクさせるような言及がある。この「かみのたね」の作り方もそうだし、『夜明けのすべて』のさまざまな演出もそうだが、編集が入っていないように感じさせる「冗長性」が豊かなものを生むという発想、それが面白い。自分も最近は取材や対談記事などを作る際には、パキッと構成しきるのではなく冗長性を意図的に担保する作り方を試している。ウェブの空間でこれはやりやすい。逆に雑誌記事の場合は限られた誌面に入れ込む調整をしっかりやる。雑誌的な作りのほうが大変なようで慣れれば時間はかからないし、文字数単位での稼ぎはしっかりしている。冗長性を担保するやり方はむしろセンスが問われると感じている。現場のライブ感、おしゃべり感を損なわずに、だけれども読みやすい、長文を読めてしまうつくり。そのほうが豊かなものが出やすい部分もある。連想してしまうのはやはり、『ドライブ・マイ・カー』や『夜明けのすべて』のような作品である。ああいう作品のようなイメージの記事をつくっていくのも面白いかもしれない。

ところで、今回この記事はWordPress上ではなく、iPhone/Macのメモ帳に一気に書いてみた。WP上だといろいろ見出しをつけたりとかやりたくなってしまうが、メモ帳はもっと気軽にバーっと書ける。「かみのたね」では映画制作でもそういう「やり方」の部分、プリプロの部分が大事だったりするという話が展開されていると思う。そういう部分でも「やり方」「プリプロ」は考えてみるのはいいかもしれない。(了)

編集者、ライター。1986年生まれ。2010年からカルチャー誌「PLANETS」編集部、2018年からは株式会社LIGで広報・コンテンツ制作を担当、2021年からフリーランス。現在は「Tarzan」(マガジンハウス)をはじめ、雑誌、Webメディア、企業、NPO等で、ライティング・編集・PR企画に携わっています。
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