『ラストナイト・イン・ソーホー』ざっくり感想、暴力の爽快感への躊躇

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こないだ『ラストナイト・イン・ソーホー』を観てきた。

映画『ラストナイト・イン・ソーホー』オフィシャルサイト

特に予備知識なく行ったのだが、結論から言うと、わりと重めのホラー映画だった。ちょっと変化球もある、みたいな。ここ数年で観た映画の中では『IT(イット)』が一番近い。ホラーの帝王スティーブン・キングの代表作が映画化されたやつだ。

『ラストナイト・イン・ソーホー』は、誘惑や落とし穴の多い大都会の魔窟感をホラーで表現したというもので、世界観としては、キングギドラの「スタア誕生」みたいな話だった。

僕の60年代イギリスのイメージといえばビートルズ、ローリング・ストーンズ、ザ・フーなのだが、それとは全然違う「夜」の話だった。イメージとして出てくるのはシラ・ブラック、ダスティ・スプリングフィールド。うーむ、そこの参照軸がないのでよくわからない、思ってたのと違うという感じだった。

音楽で唯一あーこれはと思ったのが、劇中で唯一ちょっとハッピーなシーンで出てくる”Heatwave”(ザ・フーのカバー)である。この曲はいい曲だ。

まあ60年代イギリスは明るいイメージしかなかったので、『ラストナイト・イン・ソーホー』のこういう暗さみたいなのはちょっと新鮮といえば新鮮だった。K-DUBがラップしてるように、90年代の渋谷も裏側ではやばい街だったみたいだし。

男性批判的なもの、なんも言えない

この映画は結局のところ、男から搾取されてきた女、というのが主題ではある。

で、この種のものに接するときいつも思うのが、「自分はどこのポジションにいるのか」みたいなことである。

男性なので反省すべきなのか、「でも俺はああいう男とは違うし」と切断処理していいのか、とか、「そうは自分で思っていても男としていろんな女性に対して無意識のうちに辛い思いをさせているんだから『自分は違う』と思ってるやつが一番やばい」とか……。

いろいろグルグル出てくるので、結果なんも言えない、みたいになる。

瞬間的な態度決定

「女性」が総体として「男性」に虐げられてきたという歴史があり、なぜそんなことになったのかの構造の理解はとても大事だと思う。思うのだが……。

似てるなと思うのが、日本人の戦争責任の問題である。戦前日本の軍部とか政府とか、それを支持する世論を形成した市民・メディアがやったことに対して、戦後生まれの人間が、東アジアや東南アジア(個人的には実はここにアメリカやイギリスを加えると非常にイノベーティブな議論に発展すると思うのだがそこは一旦おいておく)に対する加害責任をとるべきかみたいな議論だ。

僕は戦後生まれ世代の戦争責任について小学生の頃から(無駄に)長年考え続けてきたので明確な結論が出ている。

戦後生まれ世代の戦争責任の取り方はひとつで、「知る」ということだと思うのだ。はあ?そんな簡単なことでいいわけないじゃん、と思われるかもしれない。

重要なのは、「日本はこんなに悪いことをしたのだから私も反省せねば」でも、「日本は良いこともした、だから謝る必要はない」と強弁することでもなく、シンプルに「戦争」を「知る」ということだと思う。

『ラストナイト・イン・ソーホー』に関してだと、こういうフェミニズム的な批判的メッセージ、「お前たちが悪かったんだぞ!」と言われる(言われてなくても、そう受け取る)と、瞬間的に「(男としての総体として)申し訳なかった……」と反省するか、「んなこと言われても俺はそういう人間じゃないから一緒にするな!」みたいに「反応」してしまう。まあいわゆる「態度決定」を迫られる感じである。

でも実は「はえ〜」と思うぐらいでいいんじゃないのか、と思うのだ。そして、そんだけである。すごい肩透かしみたいな話だが、でも、「はえ〜」ぐらいにしておくというのは意外と大事なのではないか、という直感がある。

観てその場で瞬間的・即座にどうしようとか考えるのではなく、最初は「はえ〜」でよくて、ちょっとずつ「あんな映画みたな〜」と、ときどき思い出すぐらいが、一番豊かに物事を受け取れる感じがする。

暴力の爽快感への躊躇

まあこの記事はネタバレ上等というか、これから観る人は読まんでくれって感じなので容赦なくネタバレすると、サンディが男たちをメッタ刺しにしていたことが明らかになったとき、「その手があったか〜〜!!!」と思った。

でも、なんか刃物を使っているので陰惨に演出されていて、暴力の気持ちよさが突き抜けてないなとも感じた。結局救われるのはシスターフッドというのも安易に思った。それはわりとよく見るやつだ。

エドガー・ライトの盟友クエンティン・タランティーノは、たとえば『イングロリアス・バスターズ』でヒトラーをマシンガンでハチの巣にしていた。「ちょww おまwwwww」「歴史修正主義wwww」「それやっちゃダメwwww」という感じだったが、まあまあ面白い。なんか可笑しいのだ。

アニメ『クロスアンジュ 天使と竜の輪舞』では、元プリンセスが暴力を爽快に行使していて面白い。

暴力の爽快感というものはある。でもなんだろう、エドガー・ライトは「女性は暴力を爽快に振るっちゃいけません」「暴力するときも陰惨じゃなければダメです」と、サンディとエリーにむしろ枷をはめているように思った。ミラ・ジョヴォヴィッチやアンジェリーナ・ジョリー、古くはシガニー・ウィーバーやリンダ・ハミルトンであればワンパンで終わっているのでは……と思わざるをえない。

エドガー・ライトからはいわゆる文化系ホモソーシャルの匂いを感じたのだが、案外、繊細っぽい文化系男子のほうが抑圧的だったりするなーと(僕がこれまで)感じてきたことを、思い出したりした。日本のTwitterとかはてなブックマークでは今、ある女性研究者に対して集中的にアグレッションが加えられている。僕個人は、やっぱり自分がどのポジションにいるのかに困るので、なんも言えねぇなという感じだが、そいつらは武士道のかけらもねぇ奴らだなとは思う。そのへんが、身体性に鈍感な人が振るう暴力のクソさである。

これ以上書くと沼にはまっていきそうなので、今回はこのへんにしておきます。

(了)

編集者、ライター。1986年生まれ。2010年からカルチャー誌「PLANETS」編集部、2018年からは株式会社LIGで広報・コンテンツ制作を担当、2021年からフリーランス。現在は「Tarzan」(マガジンハウス)をはじめ、雑誌、Webメディア、企業、NPO等で、ライティング・編集・PR企画に携わっています。
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