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鹿児島の地で「野球と戦後民主主義教育」について考えた | にどね研究所

鹿児島の地で「野球と戦後民主主義教育」について考えた

紀行文

鹿児島に来ている。写真は、鹿児島の繁華街「天文館」のアーケード商店街。鹿児島中心部は非常に栄えている(前回、「次回は映画『あの花が咲く丘で、君とまた出会えたら。』について書く」と予告したが、それはまた後日)。

一橋大学の野球部の友達が鹿児島に住んでおり、「おいどんカップ」という2023年から鹿児島で行われているプロアマ交流戦を観に行くというのが目的のひとつ。3月2日(土)には、鹿児島市中心部から少し西に行った日置市の伊集院総合運動公園で行われたJR九州vs立教大学、日本製鉄九州大分vs東京ガスを観戦した。

おいどんカップは、福岡ソフトバンクホークスの3軍、鹿児島県内で春季キャンプをやっている大学や社会人チームが2〜3月にかけて交流戦をやるというもの。九州にはプロ野球がホークスしかないが、九州自体は野球熱が非常に高い。特に鹿児島は野球でもサッカーでも名選手を多く輩出している。今でこそサッカーでは鹿児島ユナイテッドFCがJ2まで上がってきていて、近いうちにJ1に上がりそうだが、プロ野球チームができるにはまだまだかかりそうである。

神村学園吹奏楽部&チアリーダーのジャンボリミッキー

さて、そんなわけでおいどんカップを2試合観たのだが、地元のダンスチームや、高校の吹奏楽部が応援パフォーマンスに来ていたのが面白かった。

この日の伊集院球場での試合はピックアップゲームに設定されており、2試合目では甲子園での応援でも注目される神村学園の吹奏楽部&チアリーダーが来ていた。神村学園は野球も吹奏楽部も強豪校として知られている。

ちなみに筆者はジャンボリミッキーが大好きである。この曲を聞くとついカラダが動き出してしまう。

神村学園の吹奏楽部&チアリーダーは総勢100名くらい来ていて、まさに「強豪校の音」という感じだった。

駐車場では吹奏楽部の楽器を運ぶ専用トラックを発見……さすが強豪校である。

野球と戦後民主主義教育と地方部

Xでもメモったことだが、ここで少し思ったことを整理して書いておきたい。

今回は高校野球ではなく大学や社会人野球の交流戦を、地元の高校生たちが盛り上げるために来ているという構図だが、こういうものはとかく都会のインテリからの評判が悪い。

たとえばよくある批判として、高校野球の応援というかたちで吹奏楽部などの文化部が駆り出され、さらに全校応援ということでそれ以外の生徒も、学校を挙げたイベントとして駆り出される。これらは「校威発揚」という時代遅れの目的を持っており、集団主義的であるので、リベラルでない。このような学校教育は間違っている……というような批判である。こういう話がしばしば学者や評論家など、「文化系」な識者から発されるので、「インテリ」「文化系」「リベラル」を自称したい人々は多くがそういうふうに思ってしまう。かつて自分もそのように捉えていた。

しかしこういった批判は因果関係がごちゃごちゃになっているのと、批判者のルサンチマンが多分に入り込んだものであり、物事を曇りなき眼(まなこ)で見る批評眼になっていない、何だか都会のエリートの言い分だよなと僕は捉えるようになった。

どういうことか。まず、こういう批判をするインテリの経歴を調べてみると、地方から都会に出てきたインテリであることが非常に多い。要するに彼ら彼女らは、高校時代までは室内で熱心に勉強している「陰キャ」であったたため、野球部やチアリーダーのような「陽キャ」にルサンチマンを抱いていて、吹奏楽部は「文化系」なのに陽キャに従属させられていると捉えている。しかしインテリたちは、勉強を活かして都会の大学に進学し、研究者や評論家になっていく。彼ら彼女らの背景にあるのは、自らの原風景である「田舎」への否定的意識である。こんな退屈な場所にいたくない、ここから抜け出したい……その気持ちが勉強の原動力になる。そうして都会に出て功成り名を遂げた後に、かつて自らが受けた地方部の教育を「押し付けがましい」と悪しざまに言うようになるのである。

さらに厄介なのが、自分のような者も含めた都会出身のインテリ――自分は横浜市青葉区出身だが、ここが田舎だというのは無しだ。僕は日本全国さまざまな場所に行っているが、青葉区は(別に良い意味でも悪い意味でもなく)日本ではトップクラスの「都会」である。経済的にも文化的にも。住所が「東京都」でないから都会でないという人は、日本という国のことを身体感覚的に知らないだけだと思う――も、そういう学者や評論家などの見方に同調してしまうことである。

そうして言説空間では「都会」と「地方」が断絶していき、「地方の野球」における吹奏楽やチアリーダー、ダンス部の活動が「保守」に勝手に分類される……どうやらそういう構造があるらしい。

ここで問題になるのは、教育社会学者の竹内洋が言うところの「飛翔感」である。地方部の少年少女期や、自分の出身地方そのものの「田舎」という出自に憎しみを持ちながら室内で勉強して、都会のインテリとなって功成り名を遂げたら、屋外で活動し楽しむ人たちを小馬鹿にし始める。

だが、教育関係者や地域の関係者の話を聞くとまったく見方が変わる。たとえば、野球のプロアマ交流イベントで吹奏楽部やチアリーダー、ダンスなどで地元の子たちが出てくるのは、こういう場を彼ら彼女らの活動の発表の場にしようという教師や地元の大人たちの意図があるからである。それは都会のインテリにとっては「押し付けがましい」パターナリズムであるだろうが、「娯楽の少ない地方部で少しでも発表や表現の楽しみを感じてほしい」という大人たちの「教育的意図」は、そこまで悪しざまに言われるものでもないだろう。押し付けがましいことはたしかだが、そこから子どもたちは何かしらの充実感や、これからの人生の目標を考える良い機会にだってなり得るだろう。

「野球のために文化部の活動が従属させられている!」というのも一方的な見方である。たしかに、そういう構造が顕著に見えるのであればそれはよくないことだろう。たとえば野球部員が学校内で偉そうにしていて文化部員をいじめていたりする、などがあるなら、教師や他の野球部員がその者を注意しなければならない。

だが、いろんな活動に「お墨付き」を与える役割を、野球が良くも悪くも現実に担ってしまっていることは否定できない。「野球」の場合だと、屋外で大音量で吹奏楽をやっても、チアリーディングをやってもいいし、ダンスパフォーマンスをしてもいいわけだ。そこでは「人前でやれて楽しかったね」「普段の成果が発表できたね」という体験ができる機会が得られてしまう。

こういうイベントごとは、勝手に学校生活(というよりも勉強)に前向きに取り組んでくれる優等生には不要である。戦後民主主義教育は疑似社会主義的な性格を持っており、「勉強を勝手にやってくれる生徒」よりも「普通に授業だけしているだけでは学校生活に前向きに取り組んでくれない生徒」を主な支援対象とする。だから教師たちは、そういう生徒に部活などの課外活動を通じて学校生活に前向きになってもらったうえで、学びにつなげたいと考える。結果的に「勝手に勉強する」優等生はやや放置される。

「都会」の「進学校」には、こうした教育的配慮は基本的に不要である。勝手に勉強するし、「学校単位でひとつにまとまる」高校野球の全校応援的なイベントがなくても、それぞれの課題を持って学校生活を前向きに送ることが比較的容易であり、またそれ以外にも都会には娯楽や情報が溢れている。

伊集院総合運動公園には、硬式野球場の他に、綺麗なトラックのある陸上競技場、大きな体育館、テニスコート、広場などがある。広場では地元の高校生たちがソフトテニスの練習をしていた。都市部では、コート外でテニスをする光景はあまり見られない。ここはある意味ではだいぶ自由な場所である。

伊集院総合運動公園のある日置市は鹿児島市内から少し離れており、周囲は森であり、のどかではあるが都市的なものはほとんどない。こういった場所で生活するには自分で楽しみをつくりだす努力がどうしても必要である。

詳しくは別の場所で書きたいが、ここには戦後日本の土台の下にある「アメリカの影」と、擬似社会主義的な国土均等開発、戦後民主主義教育の発想がある。それらは地方→都会に立身出世した飛翔感のあるインテリには悪しきものとして映るのである。

野々村直通氏の「強育」論

さて、神村学園は東京ガスの攻撃時に応援をし、逆サイドでは他の高校の吹奏楽部が日本製鉄九州大分の攻撃時に応援をするわけだが、神村学園の生徒たちは自分たちの番でなくても、相手方の吹奏楽部が演奏しているときに少し控えめに一緒に歌を歌ったりしていた。僕がそれを見て「神村学園の子たち、いいねー」と感想を漏らしたら、鹿児島在住の友達が「多分、(先生から)やれ、って言われてるんだと思う」と言っていた。なるほど、それはわかる気がする。

教育には、どうしても「強制してやらせるもの」という側面がある。ところが現代では「教育には自主性が重要」というお題目がますます存在感を高めている。それは理想としてはたしかにそうなのだが、現実から遊離してしまう部分がある。

島根県の開星高校野球部監督・野々村直通氏もまさにそういうことを言っていて、彼は「強育」が必要であるという。高校野球の監督としては異色の美術教師である野々村氏は、地方の中堅〜下位校での教育は綺麗事ではできないとする。「やっていいこと/いけないこと」の判断がつかない子どももごく普通におり、そういう子にはある種の強制を持ってしてでも指導に当たらなければいけないのだ、と。野々村氏は、現在は体罰を用いていないが、過去には用いており、その効果は明らかにあったとする。ただし日常的に行っていたわけではなく、「やってはいけないことをやった者に対し、理屈で説明してもわからないので、最終手段として体罰を用いる」ということである。

僕の場合、しょせんは都会のインテリであり、子どもの頃から分別はついたほうなので、教師から体罰を受けたことは記憶によれば一度しかない。そのときは「やってはいけないこと」をしたときであった。

体罰はあくまでも極端な「強制」の例だが、たとえば神村学園の教師が、子どもたちに「相手方の吹奏楽部が演奏しているときは、控えめに歌ったり調子をあわせたりして、応援してあげよう」と「強制」していたとして、それはたしかに押し付けがましい教育的配慮ではあるが、悪いことだとも言い切れない。

スポーツという場では、「相手を称える度量を持とう」ということは(あまりきちんと実践されている場は多くはないが)重要なことである。吹奏楽部やチアリーダーの子たちがスポーツにかかわったことをきっかけに、「ああ、こういう感じで他の場でも人に接しようかな」というふうに感じられたのなら、それは重要な学びである。こういうふうに理屈で説明するよりも「そうしなさい」と言われてやらされ、でもやってみて実感して、そうして学びとして腑に落ちるということもあるだろう。

こういう感覚は、「都会のインテリ」以外の教育の場では、たしかにごく普通に用いられていることかもしれない。そんなことを思った体験だった。(了)

編集者、ライター。1986年生まれ。2010年からカルチャー誌「PLANETS」編集部、2018年からは株式会社LIGで広報・コンテンツ制作を担当、2021年からフリーランス。現在は「Tarzan」(マガジンハウス)をはじめ、雑誌、Webメディア、企業、NPO等で、ライティング・編集・PR企画に携わっています。
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