アイデンティティなどなにもない

雑記

先週まで久しぶりに久しぶりにちゃんとした編集・ライターっぽいことをしており(いわゆる校了期間というやつだ)、反動でそれが終わってから今週までかなりダラけていた。そうなるとどんどん注意が散漫になり、余計にSNSなどを見てしまって時間がむだになっていく。これ以上むだにしないためにも、ちょっと日記がてら思ったことを書いておきたい。

ここ最近の文化系SNS空間では、『セクシー田中さん』作者の自死と、「新海誠好きの元彼同人誌」の発売中止が話題のようである。どちらも俺は大して言いたいこともなければ言うべきこともないのだが(新海誠うんぬんについては一個前のブログにざっくりと書いておいた)、気になったのは「コンテンツとアイデンティティ」ということだった。

どうも、このへんの騒動を見ていると、コンテンツに自分のアイデンティティを置いている人がかなり多いらしい。消費者はもちろん、作者もである。

思い出したのはmixiの「コミュニティ」というやつだ。自分が大学生だった2000年代半ば〜後半にかけて、Twitterが登場する前の主流SNSはmixiだった。そこで自分もやっていたのが、さまざまなコミュニティに入ってそれをバッジのようにして表示するという行為だった。「自分はこれが好き」ということを、コミュニティに入っておけば他の人に見せることができる。Perfumeが好きならPerfumeのコミュニティに入っておけばそれが他人へのアピールになる。そういうふうにmixiコミュニティが使われていた。

これは「自分を他人に向けてどう見せるか」というファッションとアイデンティティの絡み合った行為だった。当時の俺もそれをけっこう気にしていたが、しだいにどうでもよくなった。「◯◯が好き」ということ、その組み合わせで自分の個性を演出しようとする行為がとてもダサく見えるようになってしまった。

そもそもPerfumeが好きといっても、Perfumeは前に出る3人と、中田ヤスタカと、MIKIKO先生と、そしてそれらの固有名を支える多くのスタッフで成り立っていて、頑張っているのはその人たちであって、自分は単なる消費者・応援者でしかなく、「これがアイデンティティです」などと他人に提示するほど何か自分が頑張っているわけでもない。なのに「Perfumeが好き」を他人に対してアピールして何になるのか? 消費程度の気楽な行為で、それが何か自分を支えるアイデンティティになどなるはずがない。

じゃあ逆に、気楽でない生産者の方に回ればアイデンティティになるのか? というとそれも違う。俺はPLANETSという媒体を今のように成り立たせたことにはそれなりに自信を持ってはいるけれど、好きなこと/やりたいことを職業にしたところで何か自分を支えてくれるようなアイデンティティになるわけではない。

編集・ライターの仕事を始める前になんとなく思っていたのは、自分が尊敬する人と仕事をするということが何かの達成になるのではないか、ということだった。それで、これは自分で行動して引き寄せたものでもあるのだが、宇野常寛、宮台真司、小林よしのり、國分功一郎……20代のうちに自分が尊敬する人たちと仕事をする機会があったが、思ったのは「普通にやっていけばそういう機会はある」ということだった。達成感なども特になかった。それから今にかけて何となく思っているのは、アイデンティティなどいらない、ということだ。

消費はアイデンティティにならないし、生産もアイデンティティにはならない。そもそもアイデンティティの問題をあれこれ探し求めたり考えたりするのが時間の無駄だ、ということだ。

宮台真司と仕事をしていたときに、かなり根を詰めてというか、思い詰めてやっていて、そんなときに「何か自分の生きた証を残したいんです」という話をポロッとしてしまった。そうしたら宮台真司にこう言われた。「中野くんさぁ、生きた証とかどうでもいいんだよ。生きる意味なんてそもそもないんだよ」と。

それはそうだ。宮台真司は「意味から強度へ」ということをそもそも言っている。宮台真司の本の内容をきちんと読めておらず、本人に教えてもらうまでちゃんと理解できていなかった。言われて非常に恥ずかしい気がした。

國分功一郎もこれと似た話をしていた。読者から「先生はご自身の仕事を人生のなかでどう位置づけているんですか?」というようなことを問われ、その答えが拍子抜けするようなものだった。「食うため」だと。それに加えて、「僕は大学のときに教員免許を取っています。研究者になれなくても食べていけるように」という趣旨のことも言っていた。非常に実利的である。

おそらく宮台真司も國分功一郎も、アイデンティティだとか自己実現だとかの問題云々ということを考えていない。目の前のこと、自分ができることに取り組んでいるだけのようだ。

俺は昔から仏教の発想が好きだが、「空(くう)」という観念が面白いと思う。一切皆空。すべてのものは空である。だが、「人生に意味がないなら何もしなくていい」というペシミズムやニヒリズムではない。空の状態は苦しみから解放されているわけだが、そのためには修練が必要というのが、かなり大雑把ではあるが仏教の考えである。

仏教のもとをたどるとウパニシャッド哲学があるわけだが、ウパニシャッド哲学ではアートマン(自我)が不変のものとされ、アートマンを世界(ブラフマン)に合一させること(=梵我一如)が、幸せに至る道であるという。

ところがブッダはアートマンーー現代的に言えばアイデンティティーーはない、たださまざまな事物との関わりの綾のようなもの(=縁起)が折り重なっているという理解が重要だと説いた。そこには不変の確固たる核のようなものがない。さまざまな事物との関わりの折り重なりだけがある。

それなりに楽しく、あまり苦しみに苛まれずに生きていくには「空」であること。アイデンティティだとか自己実現だとかを考えないで済むならそれに越したことはない。自分の中に核のようなものはない。さまざまな事物との関わりの折り重なりの、その面白みを感じながら生きていければいいのかなと思う(ただし、「食うため」の仕事はそれなりにしながら)。

今回は試しに一人称を「俺」にして書いてみた。ただの実験。

写真はこないだ行った横浜の三渓園。素晴らしかった。

次は、このあいだ観た映画『あの花が咲く丘で、君とまた出会えたら。』についてざっくりと書いてみたい。予告しておかないとやらないので。

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