社会を崩壊させることは、たった1秒でできる――エリアス『スポーツと文明化』を読み解く(2)【一部有料】

カルチャー

前回はノルベルト・エリアス、エリック・ダニング『スポーツと文明化』について取り上げた。今回はその続き。(これまでの『スポーツと文明化』の記事一覧はこちらへ)

「感情の抑制」について

エリアスの「文明化の過程」理論のなかでもうひとつ面白いのが「感情の抑制」というキーワードである。

これは本書第2章の、「自由時間のベクトルにおける余暇」という論文で説明される。

概して大人たちは、少なくとも現代社会では、自分の感情に応じて行動しないことに慣れているので、このような抑制は、彼らにとって人間の正常で、自然な状態のように見える。特に、かれらにとって抑制がほとんど自動的になるにつれてそうなる。かれらは心にしみこんでいる抑制を、たとえゆるめたいと思っていても、緩めることはできない。かれらは、自分がやりたいと思っていることをやめることがかつてどれほど困難であったか、大人たちが眉を吊り上げたり、厳しい言葉や甘い言葉、さらにおそらく言葉よりもっとひどいやり方によって、社会の通例の様式に従って、もはや抑制努力を要しなくなるまで自分たちの行動を抑制したことをほとんど忘れたのである。それは第二の天性になり、人間性の自覚された部分として、人間が生まれつき持っていた何かとして現れたのである。自制のためのこの訓練の度合いと様式は、発展の特別な様式に応じて、社会により異なる。産業が高度に発達した社会に特徴的な社会化のタイプが、結果として個人的自制のより強くて、より安定した内面化を生み出し、さらに、それがあらゆる状況、人生のあらゆる領域において相対的に均一に、かつ比較的穏やかに作用する――しかも多くの狭間もなく――自制の防御物に結果的に結びつく、ということが一般的に言えるのである。

ノルベルト・エリアス、エリック・ダニング「自由時間のスペクトルにおける余暇」『スポーツと文明化』160ページ

このエリアスらの「抑制」のイメージは、フーコーの権力論、とくに生-権力(バイオパワー)を思い起こさせる。だがフーコーとの違いはおそらく、フーコーの権力イメージが、人称的ではないにせよなにかしらの人格的な主体――たとえばビッグ・ブラザーのような人格的な装いを纏った工学的な主体――であるのに対して、エリアスらの「抑制」のイメージは自生的・生起的なもの――バイオ的なもの――であるということだろう。マルクス主義の影響を受けた権力論は、どうしてもビッグ・ブラザー的になってしまうが、エリアスらはもう少し生物的というか、進化論的なものをイメージさせるもののように思う。

このあとも多数出てくる話ではあるが、歴史的に人間は、今よりも過去のほうがもっと、「感情の発露を抑制をしなければいけない」という規制がゆるかった。居酒屋で床に痰を吐いたりするし、誰かと諍いになったら簡単に手が出ていた。しかし、時代を追うにつれて人間はより自制的になっていったわけである。

余暇時間を考えるということ

「感情の抑制」というと具体的なイメージが湧きにくいかもしれない。エリアスらは、以下のような例を挙げている。

子供をひとりで数日間、部屋に置き、そして何が起こるか見てみなさい。どんなにおいしい食べ物を食べても、子供は「しょげる」ことになる。その理由は、われわれが依然として極めて不完全に「衝動」とか「感動」とか呼んでいるすべてのものに備わっているような「両面」交通のこの基本的な必要性、つまり自分自身の感情のメッセージに対する刺激的な感情の反応の欲求が切り離されてしまうからである。他者に対する自分の愛情のベクトルを強固にし、自分をしっかりと支えてくれ、自分の方でもさまざまな感情のより強い反応が得られるような愛情に満ちた反応を引き出してくれるこのほとんど貪欲とも言える欲求が切り離されたり、単に満たされなかったりすれば、小さな子供が被る苦悩や苦痛は実際、非常に大きいのである。要するに、心の拠り所を求めて、他人に向かって発信されるベクトルは、われわれがそれを「衝動」とか「性的衝動」とか呼ぼうが、あるいは「愛情」とか「感動」と呼ぼうが、個人相互の過程、社会的過程の重要な部分である。子供に関する限り、これらの過程がもし中断されたり、単に妨害されたりすれば、子供の全人格の発展はいくぶん重大な害を被るのである。人間が成長する過程において、つまり現代社会の中で個人が経験する「文明化の過程」において、人間は、若者にとって食べ物と同じくらい大切である感情の重要なメッセージを発信した、受信したりして得られるような刺激を求める人間の常に激しく燃え上がる欲求を、非常に厳しく、いくぶん自動的に抑制することを教えられる。現代社会の大人たちは、非余暇の生活のなかで、感情のメッセージを発信することを非常に厳しく抑制しなければならない。大人たちは、かれらの生活のそのような領域である種の波長のメッセージを発信したり、受信したりすることを禁じられる。他方、余暇活動はわれわれが大雑把に感情的と呼ぶあの波長を発信したり、またとりわけ受信するためのある種の余地を与えてくれる。しかし、あらゆる種類の人間社会、特に、秩序が整い、複雑になっている現代社会における抑制の減少は、常に危険をともなうがゆえに、感情の元気回復のための道を切り開いてくれる余暇活動のあの抑制解除の機能は、それ社会的に耐えられるようにするために、そちらの側でも予防の規則で囲まれているのである。

ノルベルト・エリアス、エリック・ダニング「自由時間のスペクトルにおける余暇」『スポーツと文明化』165-166ページ

これもとても長い引用だが、要するに他者とコミュニケーションしたいという意味を含む余暇の欲求は人間にとって根源的なものである、ということだ。むしろコロナ禍を経験した現代の私たちこそ、ここでエリアス/ダニングが述べていることが実感的によくわかるのではないかと思う。

私たちにとっての時間というものは、仕事(職業的労働)、家事育児、睡眠などの必要不可欠な時間だけではなく、勉強や研究、運動、慈善活動、趣味、宗教的活動、読書、社交、遊び、観劇やスポーツ観戦、アウトドアクティビティなど非常に多岐にわたって使われている(参考:139-141ページ)。むしろ起きているあいだの人生の半分ぐらいは、必要不可欠なものだけでなく、余暇に費やされているともいえる。エリアスとダニングは、だからこそ「余暇時間」というものの研究の重要性をいくたびも強調するのである。

社会を崩壊させることは、1秒でできる

だが、人間がそうした社会的な活動をおこなう上で極めて重要なのが、「抑制」である。

われわれが自分の感情を殺してしまう方法はたくさんある――それも非常に正当な理由があって。すべての人が抑制をゆるめ、失ったら、現代社会の全組織は崩壊し、あまり発展していない国と比較すれば、快適、健康、消費や余暇によるさまざまな満足、他の多くの特権――われわれがもはやそのようなものとして味わうことのない特権――などの点で、抑制から引き出される長期的な満足感は失われるであろう。

ノルベルト・エリアス、エリック・ダニング「自由時間のスペクトルにおける余暇」『スポーツと文明化』168ページ

たとえば演劇を見に行ったとき。お腹が空いているからとバリバリと音を立ててものを食べたり、同行している友人とぺちゃくちゃと演劇に関するおしゃべりをはじめたら、演劇場という社会空間は即座に崩壊する。

また、もしクラシックのコンサートを観に行った際に、眠気を感じて、隣の席が空いているからと横になって寝そべったら、やはりその場は崩壊するだろう。

あるいはこんな例はどうだろう。いつも筋トレに励んでいて、特に背筋を重点的に鍛えている人がいるとする。いつも背筋を鍛えることで頭がいっぱいの彼は、懸垂できる場所をいつも探している。「あ、この公園の雲梯は懸垂にちょうどよさそうだな」「このポールはヒューマンフラッグにも使えそうだな」というふうに。

ある日、電車に乗ったときに、ちょうどいい高さのぶら下がれるものを発見した。そう、吊り革である。

以下、またも残り少ないですが一旦有料に切り替えます。有料マガジンの考え方については、こちらの記事(全文無料)に詳しく書きました。基本的には「中野がなんかがんばってるみたいだから激安居酒屋でビール一杯おごってやるか」というイメージで課金していただければ、大変幸いです。ちなみにここから下は奇妙な例えの話をしています。

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