『ゴジラ キング・オブ・モンスターズ』は面白い。だけど……

新宿バルト9前に掲示されている『ゴジラ キング・オブ・モンスターズ』 カルチャー

新宿バルト9前に掲示されている『ゴジラ キング・オブ・モンスターズ』

最近、忙しさを言い訳にほとんど映画を観なくなってしまった。キネパスの履歴を見たら、最後に観たのが昨年初夏の『レディ・プレイヤー・ワン』。前はファーストデーはなるべく映画を観ていて、良いインプットになっていた。観たいときは毎月14日のTOHOシネマズデイにも行ってたので月2回くらいは映画館で観ていたことになる。それをしなくなったのはなぜかというと明確に、土日もすべて仕事をしているせいである(本業もそれ以外も)。もっと余裕を持たないといけない。

さて、そんな感じではあったのだが、今回、レジェンダリー・ピクチャーズの怪獣シリーズ「モンスターバース」の最新作、『ゴジラ キング・オブ・モンスターズ』(以下、『KOM』)を観てきたのでさっくり感想を書いていきます。ネタバレは極力なくしてます。

「破壊」の快楽と、人間ドラマの両立

はい、そこそこ面白いです。MCUと違うのは「自然=怪獣(=生命体としての地球)」が相手であるところ。人間関係、キャラクター同士の話に閉じていかないスケールの大きさがあるし、怪獣プロレスの絵は普通に迫力がある。

あとやっぱりこういうカタストロフものの快楽って、「破壊」を楽しめるってところがある。僕個人は人間はタナトス=死への欲動を持ってると思ってて、だから暴力とか戦争がフィクションの世界では鉄板なのかなと。自分の見知った世界が圧倒的な力で破壊されるのって、視覚的・感情的にも快楽がある。

今回の『KOM』に関しては絵の迫力が、いわゆるギャレゴジ(モンスターバース第1作、ギャレス・エドワーズが監督した2014年の『GODZILLA ゴジラ』)と同等かそれ以上にある。

 

怪獣映画ってやたらスケールの大きい怪獣の戦いと、卑近な人間ドラマをうまく両立させる必要があるわけで、そこがシナリオにおいて一番むずかしいところだと思うのだけど、家族のドラマを入れていくことでハリウッドっぽくありつつも怪獣映画のハードルをちゃんとクリアしていた。

モスラの神々しさが微妙に足りないとか個人的に不満なところはあるけど、よくできた作品だったと思う。

オタクの時代だから「愛さえあればなんでもいい」?

ただ、他の感想や報道を見てて「愛さえあればなんでもいいのか?」と思った。

今回のゴジラには制作者の「ゴジラ愛」みたいなものがやたら強調されている。日米問わずオタクの時代、ということなのだろう。

しかし、これも日本の特撮オタクとして知られるギレルモ・デル・トロ監督の『パシフィック・リム』(2013年)を観たときにも思ったが、誤解を恐れずに言えば「オタクの作るものには批評性がない」。

 

ガンダムの富野由悠季監督はかつて、「アニメオタクのままアニメ業界に入ってしまうと視野が狭くなっていいものが作れなくなるので、大学まではアニメを観る以外のいろんなことをしなさい」という趣旨のことを言っていた。しかし今は映画やアニメ業界にかぎらずクリエイティブの世界では、富野監督が危惧していたことが起こっているのではないか、とちょっと思った。

はっきり言ってしまえば、今の「愛があるからすごい」という「オタク礼賛」の雰囲気にはかなり違和感がある。

コンテンツに必要なのは「愛」よりも、「批評性」であると思うのだ。単なる愛から生まれるものは、ファンフィクションにしかならない。クリエイティブには「愛があってもそれを裏切る」ということがなくてはいけない。「愛=熱量の多さ」だけでは、その愛の対象を超えられない。「愛」とか「熱量」みたいなものに大衆が熱中している今だからこそ、もっとクールな、醒めた視点が大事だと思うのだ。

「批評性がない」とはどういうことか?

たとえば庵野秀明監督の『シン・ゴジラ』(2016年)という作品には、「ゴジラが作りたかった」というよりも、ゴジラという素材を使って『パトレイバー』や岡本喜八を作りたいという掛け算の思考があった。もっといえば、山崎豊子的な「人間」と「政治」のドラマをやりたいという志向が入っていたのだ。

 

しかし、『KOM』や『パシリム』にはそれがない。

あと『KOM』には「戦後日本にとって怪獣映画は戦争映画の代替物だった」という前提が抜け落ちている。さすがに日本にいないとそんな見方があるなんて知る由もないから、仕方ないとは思うのだが……。その前提を入れて、その要素を無視するにせよしないにせよ、意図を持って作るというのが「批評性を入れる」ということだ。

より抽象的にいえば、単なるフィクションの世界だけで完結するのではなく、現実世界のなにかに対する批判的な視座を持ったうえで寓話をつくる、というのが、フィクションの世界における「批評性」というものである。

その意味では日本の評論をちゃんとアメリカや世界に向けて輸出していかないと、ハリウッドのブロックバスター作品も日本のものの影響が強くなっているいま、単純に損失になってしまう。文化の発展のためには単に作品の輸出だけでなく、批評やジャーナリズムもちゃんと輸出したほうが良い。

ちなみに、モンスターバース前作『キングコング 髑髏島の巨神』(2017年)には、「ベトナム戦争以後、まだやる気のあった兵士たちのやり場のなさ」が埋め込まれていたので、批評性があった。詳細なネタバレは避けるが、要は映画の登場人物たちにとってのキングコングは、「アメリカが負けた得体の知れないもの(=新たに彼らの眼前に登場したベトナム)」なのだ。

フィクションが扱う題材として70年代は今わりとエアポケットであるので、そこを突いたのもよかった。

 

ちなみにこの作品は、現時点で出ているモンスターバース3作品のなかでは個人的にはイチオシである。これを観たあとに『地獄の黙示録』や『プラトーン』のようなベトナム戦争を扱った名作に進むのもいいかもしれない。

 

※本記事の公開日時点では、両作品ともにAmazonプライム・ビデオにはなかったのと、Netflixにも置いてませんでした。ハード購入以外の選択肢だと、『地獄の黙示録』はレンタルビデオで借りるのみで、『プラトーン』はHuluでは観れるみたいです。

来年の『Godzilla vs. Kong』は……

来年の作品にはついにキングコングが登場するらしい。モンスターバースにおけるキングコングには「ベトナム戦争以後のアメリカ」という要素が埋め込まれているが、今回の『KOM』のようにゴジラにもともとあった批評性を入れないのであれば、物語的に感心するようなものにはならない気がする。(ちなみに批評性の入れ方という意味では、近年の『ミッション・インポッシブル』シリーズが唯一、ちゃんとしていると思う)

ちなみにここまで書いてみて思ったのは、改めて『シン・ゴジラ』というのは、文化史的には極めて重要な作品になるはずだったということだ。ところが『君の名は。』のヒットによって、そのインパクトが薄れてしまった感がある。現に、『シン・ゴジラ』のインパクトを受け止めた作品はまだ出てきていないように見える。

もちろん『君の名は。』も超重要ではある。新海誠最新作の『天気の子』も予告編を観ることができたが、これはかなり行けそうだと感じた。新海監督は、普通に考えれば『君の名は。』で一皮剥けてるはずなので、めちゃくちゃ期待である。公式サイトにはもう予告が出ている。

映画『天気の子』公式サイト

ちなみに、最近僕が書いた記事も貼っておきます。ここで書いたことの裏側にある問題意識みたいなものが出ていると思うので。

 

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