大人が教育問題になんとなく注意や関心を払っておくことの意義とか。

雑記

ここ数年、「部活」の問題がメジャーなメディア上でもクローズアップされていた。今はメディアの人のあいだでもこの種の知識が共有されつつあるので、これは正直、言論がかなりいい方向に機能していると思う。一応僕も仕事として関わっていたので、少しでも貢献できたんじゃないか…?と思う。

たとえば、このあいだ朝日新聞デジタルにこんな記事が出ていた。(※有料)

部活、何のために あり方をめぐる議論が見落としているものは:朝日新聞デジタル

ここで登場する作家の額賀澪さんの意見はかなりラディカルである。

一度、「部活は何のため?」という問いをやめた方がいい。意義という物差しを捨て、もっと安心して「何かのため」ではなく過ごせる時間を、10代に与えて欲しいと思います。すぐに意義を求めてしまう大人自身にも、そういう時間が必要なのではないでしょうか。

まあ、学校で教育活動として(予算や場所をつけて)やるには、ある程度の正当化のロジックがどうしても必要ではある。「意義」を見出すのを全くやめてしまうのは、言論戦としても重要かもしれないが、それをやったときに零れ落ちてしまうことにも想像力が働いていたほうがいいと思う。

ちなみに「文化系のための野球入門」の「スポーツを経験するとスポーツマンシップが低下する? 指導者・安部磯雄の野球への“関わり方”」の回は、このあたりの議論を意識して書いているので、僕が何を言っているのかを詳しく知りたい方がもしいたら、そちらを参照してほしい。

しかし、いつも思うのが、僕は部活とか学校の問題ってとても大切だし、学卒後の成人ももっと議論に参加したらいいと思うのだけど、ほとんどの人はそう考えない(関心がない)、というのがどうかなーと思っている。

教育の問題について知り、考えるというのは、自分という大人がどういう要素の積み重ねで成り立っているかを知ることでもある。「自分はこれとこれとこれの要素で成り立っていて…」ということがわかると、思想的にゼロベースに戻ることができて自由になれる、と思う。

自分の考え方や受け取り方は社会的に構成されているもので、その構成要素は、無自覚に内面化されてるからこそ囚われてしまうものだ。だから自分の構成要素をブロックに分けて、そのブロックのかたちを知ると、自分の無意識の(良くない)傾向性にブレーキかけたり、あるいは使われてない(が、ポテンシャルのある)傾向性にアクセルを踏めたりする。

ちょっと前にTwitterで、「共学には男子と女子がいるが女子校には人間しかいない」などと言われていたが、それはちょっと違う。別学教育の研究はけっこう蓄積があり、それを多少参照すればそんな単純な物言いはとてもできないのだが……。

とはいえ、研究の蓄積があってもあまり社会に紹介されていない、ということも課題としてある。

今度、ターザンでそういう課題を踏まえて「教育」にまつわるミニ連載シリーズを企画した。もうすぐ公開されるはず。多くの人にとって、「教育」を自分ごとに考えられるような工夫をした。Web上で無料で読めるので、ぜひ多くの人に読んでほしいと思います。

さてさて今日は食材の買い物もしたし、もろもろ溜まっている雑務を消化できた。

あとは、新しい企画書×2を書くためのインプットを進めつつ、今週ぐらいからさすがに「文化系のための野球入門」の必要な巨大インプットと、執筆を再開していかないと。

(了)

編集者、ライター。1986年生まれ。2010年からカルチャー誌「PLANETS」編集部、2018年からは株式会社LIGで広報・コンテンツ制作を担当、2021年からフリーランス。現在は「Tarzan」(マガジンハウス)をはじめ、雑誌、Webメディア、企業、NPO等で、ライティング・編集・PR企画に携わっています。
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