3.11の記憶:東日本大震災当日にしていたこと、その後に感じたこと

雑記

去年の3月11日で東日本大震災から10年だったので、当時の記憶を振り返ってブログを書こうと思ったが流れていってしまった。この3月11日で11年になるので、改めて書いておきたい。

阪神大震災、9.11――節目の日の記憶

そもそも何かの節目の日の記憶というのは、文字に残しておくことは結構大事だと思う。半藤一利さんの『十二月八日と八月一五日』という作品は、太平洋戦争開戦と終戦の日に人々がどんな生活をし、何を思っていたのかの記録として残っている。

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自分の記憶として残っている事件の日で言うと、阪神大震災のときは小学校三年生だった。詳細な記憶はないが、ぼんやりと覚えていることでいうと、同じ年の3月20日に地下鉄サリン事件があって、オウム真理教の事件もニュースではめちゃくちゃやっていた。97年には神戸連続児童殺傷事件が起きていて、今の自分の語彙でいえば「日本が液状化している」みたいなイメージが、ノストラダムスの大予言とかと合わせてけっこう印象に残っている。

小学校高学年頃から、メタルヒーローや戦隊もの鑑賞の延長線上で、毎週日曜朝にやっていた池上彰の「週刊こどもニュース」を観るようになった。そこから時事問題や雑学にはまって、毎日隅から隅まで新聞を読み、6年生の頃には卒業アルバムで将来の夢を「新聞記者」と書くような社会派小学生(?)になっていた。そういう流れで1998年、中学1年生の夏休みに『新ゴーマニズム宣言Special 戦争論』に遭遇し、いろいろ納得して読んでしまった。

2001年9月11日のアメリカ同時多発テロ事件のときは高校1年生で、その日の夜は大学生の兄とその友達がうちに来ていて、三人でいろいろ話しながら、飛行機が突っ込んでしばらくしてワールドトレードセンターが崩れ落ちるテレビ中継を見ていた記憶がある。兄と兄の友達も『ゴーマニズム宣言』は読んでいた。

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3.11の当日

2011年の3月11日は、大学生活をダラダラしたあげくに、一橋の社会学部をようやく卒業して、修士課程に進むタイミングだった。その日の14時46分は、大学の西キャンパス本館のキャリア支援室にいた。その日はなにかの手続きのために大学に行ったのだと思う。

当時は国立(一応書いておくと読みは「くにたち」で、一橋大学の最寄りの中央線の駅名でもある)の学生寮を引き払って横浜北部(青葉区)の実家に戻っており、実家の車を借りて大学に行った。当時の一橋大学は、学内の駐車場を守衛の詰所で簡単に手続きすれば、予約なしで無料で利用することができた。このことは学生の間ではあまり知られておらず、だけど野球部の面々は知っていたので、実家で車使える勢は友達と遊びに出かけるときに車をけっこう使って、多摩川でバーベキューしたりとか山梨のほうに出かけたりしていた。多摩は田舎だが、車を活用するとイニシャルD的な青春が過ごせる。入学した当初は「国立はクソ田舎、せいぜい立川とかしかないからつまらん」と思って、都心の大学に通う友達を羨ましく思っていたが、車の活用を思いついてからは学生生活がかなり楽しくなった。

おかげで僕は、多摩地域の道は相当詳しくなった。実家から大学までは電車で行くと一時間半かかるが、車だとだいたい50分しかかからないのでかなり近い。もっとも最近は、学生のキャンパス内駐車場利用に関しては縛りが厳しくなっているらしい。前は、一橋が大学としてユルユルだったゆえの楽しさみたいなものがあった。

3月11日14時46分は、大学院での指導教官の林大樹先生がキャリア支援室長だったので、雑談でもしに行ったのではなかったかと思う。一橋大学は教授がそんなに権威的でない風潮があるので、カジュアルに雑談しにいったりできた。

そんな感じでキャリア支援室にいたときに、突然大きな揺れが起きた。キャリア支援室は別に本棚が倒れたりとかはしなかったが、机の下に一応隠れたりとかしたと思う。揺れがおさまったあと、林先生がパソコンで状況を調べていた。それで東北で起こったことがわかり、林先生が「あぁ、これは東北は壊滅的かもしれませんねぇ」と事も無げに言ったのが、妙に印象に残っている。僕はその時点ではあんなことになっているとはビジュアルに想像できていなかったので、「そうなのかなぁ?」と思ってしまった。でも、林先生の冷静な予測は当たっていた。

揺れがおさまってしばらくして、ちょっと大学でのんびりして、車で帰った。帰りはだいたい甲州街道→鎌倉街道というルートなのだが、甲州街道が渋滞していた。Twitterを見たら友達が「大地震があっても日本人は冷静で優しい行動ができている」的なツイートをRTしていて、でも僕が甲州街道で見たドライバーの人たちはけっこう殺気立っていたので、なんか違うなと思った。

車のなかではちょっと暇だったので、安否の確認をしようと彼女に電話した。彼女はすぐに電話に出て、特に変わりがなさそうだった。

家に帰ってみたら

家に帰ってからは、誰もいなかった。いるはずのおばあちゃんと猫のロジがいなかった。特にロジがいないのはありえないので家の中を探したが、見つからなかった。おばあちゃんの姿が見えないのも気にかかったが、横浜の中心部に出かけていて、足止めをくらい、結局公民館で夜を過ごしたそうだ。

母も都内に出かけていて、電車が止まっているので車で迎えに来てほしいと言われて車で246(国道246号線:田園都市線沿線と平行して走っている幹線道路)に出てみたら、もう246が地平線の先まで車で埋まって、身動きができない状態だった。田園都市沿線の一戸建てに住んでいる人は車を持っている人が多いのだが、普段そんな渋滞は起こらない。その普段使われていない車がぜんぶ道に出てきたらこうなるんだな、と思った。結局、都心の方には出られないだろうことを母に連絡し、母は世田谷にある姉の家まで徒歩で行って、そこで泊まることになった。

家に帰ったら、ロジが出てきていた。地震で恐怖を感じ、家のどこか見つからないところに隠れていたらしい。猫が恐怖を感じたときのかくれんぼ力はけっこうすごい。

3.11の後

うちの家族は結局、足止めを食らったり徒歩帰宅をしたりしたが、特に他に何か影響があったというわけではなかった。もっともその後、市中で買い占めが起こったりはした。特にうちは車をよく使うのでガソリンが切れるのは困ると思い、ガソリンスタンドの長蛇の列に並んだ記憶がある。

そして4月から大学院が始まるはずだったが、被災した学生もいたので、大学の授業開始は夏まで延期された。

ちょうど震災の直後、就活(一応形ばかり就活をしてみたのだが全然ダメで早々に諦めた)で、ある出版社のグループ面接のときに知り合った人たちと、新宿で飲んだ。震災直後はいつもの新宿もさすがに人がとても少なく、ちょっとしたミラーワールドのようになっていて、その飲み会は非日常感があったのでなかなか楽しかった。

あまりにもやることのない春だったので、ボランティアに行く

春からは暇を持て余していたので、ちょうど会計士試験受験のため新卒無職となっている商学部の友達2人と、被災地にボランティアに行こうということになった。

そこでネットで迷惑にならない範囲での参加の仕方を調べて、石巻に行くことにした。交通手段はまたしても車だった。うちの車は四駆で小回りも効くのと、被災地に車で行くこと自体は、ちゃんと開通している道であればよいとの情報を得ていた。

行きの高速の東北道では、東北に向かう自衛隊の車なども見かけて、非日常感を感じた。途中、宮城の多賀城のあたりの海岸を走ってみたが、たくさんの車がペシャンコになっていて、津波の力の巨大さを目の当たりにした。

石巻での片付けボランティア

石巻に着いたら、ほとんどテレビで見たことのある空襲の焼け跡とか、戦場みたいなことになっているなと思った。

地元の学校が災害ボランティアの拠点になっているということで、そこに車で行き、ボランティアの手続きをした。その学校では、ダンボールを敷いて雑魚寝するというスタイルだった。当然、災害ユートピア的な光景も広がっていて、若者たちの運動コミュニティ的なものがあり、少し気味の悪い印象を受けた。

ボランティア活動は基本的には、住居や道路に入ってしまった土砂を掻き出すというものだった。数日間、完全な肉体労働をした。印象的だったのが、家の中にあったものが外に流出しているわけだけど、官能小説・雑誌の切れ端をよく見つけたこと。一見平和に見える田舎町の家の中には、こういう性欲が蠢いているってことなのかな、と思った。別にそれ自体悪いことだとも全く思わないが、リアルなものを見てしまった気はした。

震災の年の、震災にまつわる記憶はだいたいそんな感じだ。今まであった日常が、僕にとってはあまり劇的ではないかたちで、でも不可逆に変化してしまった感触があった。もちろんそれ以前にリーマンショックとかもあったけど、日常がそこまで激変するというものでもなかった。2011年は、震災以前の平和な感じがまだ残っていた。僕は学生だったので楽しい記憶はあるけれど、自分から見える世の中全体のトーンはかなり変わっていった気がする。

それと、石巻で見た災害ユートピア的なものと、その直後に大学院で目にした、院生自治会の人たちの運動的コミュニティが、とても似たものに見えた。世間の資本主義社会・競争社会を忌避してユートピア共同体的な場所に内閉していく、という感じ。

いま振り返ると、自分にとってそれは非常に近い感覚であり、そこに流れるのはまずいので、その後はむしろ「あえて資本主義に身を投じる」みたいなモードになっていったように思う。それが良かったのかどうかはよくわからない。ただ、資本主義・競争社会忌避とその裏返りのようなモードは、自分のなかでまだちょっと未消化な気はする。

(了)

※アイキャッチは、うちの飼い猫ではなく、2011年夏に友達と京都に旅行したときにそのへんにいた猫です。

編集者、ライター。1986年生まれ。2010年からカルチャー誌「PLANETS」編集部、2018年からは株式会社LIGで広報・コンテンツ制作を担当、2021年からフリーランス。現在は「Tarzan」(マガジンハウス)をはじめ、雑誌、Webメディア、企業、NPO等で、ライティング・編集・PR企画に携わっています。
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