衆議院選が終わり、コロナもすっかり下火になっている。8月頃は、まさか3か月後にこんなことになっているとは思わなかった。2021年8月は近年稀に見る乱世だったんだなと思う。2011年3月と、2021年8月、乱世は10年おきに来るのだろうか。
さて選挙が終わり、与党の自公の勝利、維新の躍進、国民民主とれいわは健闘、野党共闘を掲げた立憲民主・共産は敗北というかたちになったかと思う。
▼ちなみに僕自身の自民党に対する見解は、下記の記事にふんわり書いといた。
今回の選挙で当初は躍進が予想された立憲民主だったが、終わってみればこの結果となり、「創業者」の枝野幸男は代表を退任し、これから代表選ということで何人かの名前が取り沙汰されている。
そこで名乗りを上げようとしている一人に、小川淳也氏の名前があった。
それで思い出したのだが、そういえば小川氏は、僕が前に働いていたPLANETSのネット放送に来て、宇野さんと対談してくれたことがあった。ネットをさらってみたら、なぜかそのときの文字起こしが落ちていたので貼っておく。
2014年6月16日(金)21:00~放送「週刊 宇野常寛のラジオ惑星開発委員会」の文字起こし
『なぜ君は総理大臣になれないのか』
で、そういえば去年、小川氏が主人公になったドキュメンタリー映画『なぜ君は総理大臣になれないのか』が、ちょっと話題になっていたな〜と思って、それがNetflixにあったので観てみた。
これ、話題になってたときに観ておくべきだったと思うのだが、たしかに面白かった。基本的に2020年までの話なので、当然ながら今回の選挙戦の話はない。
ただ、今回の総選挙と、この映画『なぜ君は総理大臣になれないのか』に関連させた記事がふたつ、朝日新聞と文春オンラインに出ていた。映画と合わせてこの記事を読むと、今回の選挙戦で何が起こっていたかがおおまかにわかる。
映画でも描かれているが、小川氏の選挙区は香川1区であり、ここは保守王国とされていて自民党の平井卓也氏(デジタル担当大臣も務めた)が強く、小川氏はなかなか選挙区で勝てなかった、勝ったのは一度だけ、民主党旋風が吹き荒れた2009年で、他の衆院選ではすべて比例復活当選であった。そして小選挙区で勝てない候補は党内での立場も弱い……そういったリアリティが映画では映し出されている。
「政界再編」と「野党共闘」
ここからはかなりざっくり、自分の思っていることを書いていく。まず2009年の民主党政権誕生は、90年代(いや、80年代からか?)から言われていた「二大政党制」が本格的に日本に根づくきっかけになるかと思われた。
しかしそこから約10年の経緯を見ていて僕は、「果たして日本に二大政党制は必要なのか?」と思ってしまう。二大政党制論というのは基本的に山口二郎などがイデオローグとなり、ゼロ年代の民主党ブーム、そして2011年の東日本大震災以降の民主党政権の崩壊、そしてその後は小池百合子などが主導した「希望の党」のムーブメントなどがあった。このぐらいの時期までは、おそらくは政治家サイドでは江田憲司などが旗振りとなって、維新も巻き込んでの「政界再編」ということがしばしば言われていた。
しかし「希望の党」事件以降、めっきり「政界再編」という言葉が聞かれなくなった。希望の党がポシャって以降は、枝野幸男が「創業」した立憲民主に、旧民主党がどんどん合流し、「政界再編」の代わりに「野党共闘」という言葉が使われるようになった。
そして2021年の衆院選での立憲民主・共産の敗北を受けて、「野党共闘」の是非が野党サイド、リベラルサイドでは議論されるようになってきている。結局、共産党と共闘したことで自民批判票が維新や国民民主などに流れたのではないか、というふうに言われているわけである。
あらかじめ書いておくと、僕は特定の支持政党はない。有権者としては自民党が完全NGなわけでもなく、逆に共産党が完全NGとも思わない。一般に宗教政党であるとイメージされがちな公明党にも、良い政策はたくさんあると思う。
ただ、ここ20年ほどを見ていて、なぜ「政界再編」という言葉が廃れ、それが「野党共闘」という言い方に置き換わったのかの検証は、きっちりしてほしいと思う。そこにはおそらく、山口二郎的な二大政党制論と日本社会とのマッチングがあまりよくなかった、ということがあるはずだ。それをみながなんとなく把握していながら、あまりよくわからないから流している。それゆえ、「政界再編」から「野党共闘」へと、使う言葉が何のエクスキューズもないままにスライドされているように思う。
「二大政党制はなぜうまくいかなかったのか?」「そもそも英米=アングロサクソンの論理である二大政党制を、非アングロサクソンの日本社会に実装する必要性はあったのか?」ということがきちんと総括されなければならないのではないか……それが、今回の選挙戦と『なぜ君』を観て思ったことだった。
このあたりの話は、むしろ戦後ではなく戦前の二大政党制の失敗にきちんと学ぶべきかもしれない。まだ読んでいないが……調べてみたら、こんな本も出ていた。そのうち読むかもしれない。
政治に求められる「誠実さ」の中身についてもうちょっと突っ込んで考える
ところで『なぜ君』を観て、小川淳也氏のセールスポイントでありウィークポイントともされる「誠実さ」というのは、実は2021年現在においては当たり前のようでいて、実は思ったよりも重要なポイントではないかと思った。
政治家には、「清濁併せ呑む」ことが必要だとよく言われる。昔ながらの偉大な政治家には必ずそういうところがあった。清廉潔白だけではやっていけない――小川氏には、清濁併せ呑むことができないとされる。
▼ちなみに前に勤めていた会社で、このあたりの話題のものすごく入門的な話を、アメリカ大統領選を扱った名作映画『オール・ザ・キングスメン』に絡めて書いたことがある。宣伝要素がごちゃごちゃあるのはすみません。基本的に宣伝目的であるオウンドメディアでこういうことを書くのには極めて多数のテクニカルな調整が必要だったので……。
ところが、今回のコロナ禍で一番問題となっていたのは、これまでの「清濁併せ呑む」というやり方が、政治コミュニケーションとしてもはや適切ではないのではないか?ということだったと思う。
たとえば〈感染症の専門家集団〉とされる人々は、「このままだと42万人が死亡する」「飲食店が悪い」「気の緩みが問題」などなどと、国民を脅し続けた。これは前にも書いたが、いわゆる本来的な意味での「テロリズム(恐怖政治)」である。「恐怖によって人をコントロールする」という政治手法こそが、本来的な意味でのテロリズムなのだ。そして〈感染症の専門家〉は、科学的に色々なことを積み上げて検証を行い、国民に丁寧に説明するということを怠ってきた。秋からのコロナの検査陽性数の急激な減少がなぜ起きたのかを、誰も説得的に説明できていない。
それはなぜかというと、エリートたる〈感染症の専門家〉たちは、国民の理解力を信頼していないからだと思う。丁寧に言葉を使い、科学的実証を繰り返し、それも国民に説明する。それをしてこなかったのは、「国民に説明してもどうせ理解できないだろう」という侮りがあったからではないか。(そもそも急激な減少を科学的、説得的に説明できない時点で、専門家としての力量に大きな疑問符がつけられるべきだが、それは一旦措いておきたい)
これも前に書いたことだが、また違う種類のエリートであるテレビや新聞などのマスコミも、国民に対して感染症の基礎知識を繰り返し説明する、ということをしてこなかった。象徴的な例が、正確には「検査陽性者」という言葉を使うべきなのに、いまだに「感染者」という言葉を使って報道し続けている点である。「その違いを説明しても視聴者はわからないだろうから説明しなくていいや」「感染者っていうわかりやすい言葉を使ったほうが、煽れるし注目を集めやすいだろう」というのが理由だと思う。こういう「視聴者はバカだからバカに合わせる」というのは、いかにも80年代フジテレビ的な感性のよくない点である。
そして菅前首相である。そもそも政治は、結果(outcome)で評価されるべきものである。今秋のコロナの検査陽性者数、重症者数、死亡者数の急速な減少、ワクチン接種率の急速な向上を見たとき、「菅政権はベストを尽くした」というのが、普通に考えて正当な評価であるはずだ。しかしマスコミや国民は、菅氏を批判し続け、それに対し菅氏はきちんと説明することをしなかった。今となってみれば「菅政権は(実は)よくやっていた」「タイミングが悪く辞任してしまった」という評価になりつつある。ただ、「説明を果たしていなかった」という批判は今も有効だろう。
では「説明しない」菅前首相の裏に何があるかというと、僕の推測では、菅氏のなかに「国民は愚かだからどうせ説明してもわからないだろう」というマインドがあったのではないかと思う(聞くところによると「小池のようなパフォーマンス先行のポピュリストだとは絶対に思われたくない」という気持ちがあった、という話もあるが)。
感染症専門家やマスコミに比べたら結果が伴っているので菅氏のほうがいくぶんかマシであるが、「国民はバカだから説明してもわからない」という侮りだけは共通していたように思うのだ。
こういうふうに整理してみると、感染症専門家、テレビマスコミ、菅前首相の三者はともに、「国民はバカ」が前提になっている点が共通していることがわかる。
つまり、2021年時点での政治不信や社会の混乱の超根本的なところに「国民はバカ」論があるのではないか、と思うのだ。
ところが『なぜ君』を見てみると、小川淳也にはむしろ「国民はバカ」的な感性が徹底的に欠落していることがわかる。実は、政治に求められると言われる「清濁併せ呑む」というのは「国民はバカ論を内面化する」ということが、かなりの程度含まれているのではないかと思う。
僕個人は、小川淳也の支持者ではないし、立憲民主党の支持者でもない。だが、これだけ政治コミュニケーションに対する不信が広がっているなかで、「国民はバカ」的な感性の徹底的な欠落は実は強みにもなりうると思った。むしろ国民に対して信頼ベースのコミュニケーションを行うこと、丁寧な説明を辛抱強く試みるということが、実は潜在的にはかなり求められているのではないか。そして約100年に及ぶ日本の議会政治の歴史の積み重ねで、今の日本社会は実はそういうレベルにもう行ってもいいのではないか。
もっと言えば、ここで言っている話は何も「誠実さが大事だよね」という道徳的なお話ではなく、「EBPM(Evidence Based Policy Making)」という考え方へと、政治と政治コミュニケーションを切り換えていくべきだという、近年の(先進的な政治学の)論調とも合致しているように思う。そんなことを『なぜ君』を観て思った。
(了)
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