『成瀬は天下を取りにいく』が本屋大賞受賞、について

雑記

小説『成瀬は天下を取りにいく』が本屋大賞を受賞したが、そのあとにこんなはてな匿名ダイアリーがバズったらしい。

本屋大賞ホント糞。早く終われ

自分の感覚としては、昔から本屋大賞はそんなもんだった。かつては、そもそも大衆基準だと明らかにピンとこない芥川賞が大衆基準だと思われていた。そこに対して「いや、大衆基準はこうだ」を示したのが本屋大賞だった。そして本屋大賞が影響力を増していくにつれて、むしろ「文芸的な良作をブーストするのが芥川賞だよね」という雰囲気になっていったのが今だと自分は理解している。

知人の菊池良さんがここ数年、芥川賞についていろんな本を書いている。彼によれば芥川賞というものは、セールスにおもねらない文学の磁場をつくりだすものだった。

その性格が、近年の「セールスを追認する」本屋大賞の登場によって、より明確になったともいえる。

「本屋大賞が大衆的でよくない」というのは、そもそも経緯からして当たり前の話である。くだんのはてな匿名ダイアリーは、「1+1=2なのはよくない!」と怒っているように見えて、そもそも怒りのポイントが自分にはよくわからない。

『成瀬は天下を取りにいく』について自分はXでこんなことを書いた。

『成瀬は天下を取りにいく』、ちょうど数日前にさわりだけ読んだのだが、別に泣ける小説でもないのに涙出た。あまりにも素晴らしすぎて、こういう作品だったら文学もいいなと。

今の「文学」といわれるものが、徒に悲観的だったり複雑な感情を描きすぎていて、言葉の中に人間を閉じ込める方向性のものが多すぎるので、読むのも苦痛だった。そうではないものがバーンと打ち出されたことに素朴に感動した。

『成瀬』には、そうか、言葉ってこういうふうにも使えるんだ、という新鮮な驚きがあった(それは文体が斬新、という意味ではない。基本的に文体はきわめてオーソドックスで読みやすい)。言葉が氾濫する今の社会に対してもきわめて批評的だと思う。

『成瀬』は、できつつあった(よくない意味での)本屋大賞的な磁場からは外れた作品である。本屋大賞的なものとはなにかというと、「『本が好きな自分』を肯定してくれる」作品のことだ。文学はいつの間にか「本が好き、なインドアな私が好き」という自意識を肯定するためのツールになりかけていた。

それは本屋大賞も芥川賞も大して変わらない。文体や着想の奇抜さを競ったり、(不必要なほどの)複雑な感情を「凝視」するようなものが多くなった。それらは人を言葉の牢獄に閉じ込めるようなもの、である。

しかし『成瀬』という作品は、そういう文学的自意識に何らの目配りもしていない。だからこそ、「〝本が好き、なインドアな私が好き〟な自意識を肯定する」、「文体や着想の奇抜さを競ったり、(不必要なほどの)複雑な感情を「凝視」する」、「人間を言葉の牢獄に閉じ込める」ものが文学だという見方を持っている人にとっては、自己否定をされるような作品でもあるのだと思う。『成瀬』に文学としての価値を認めると、文学的自意識の存立基盤が崩壊するというのはわかる。

前京都大学総長で人類学者の山極壽一は『共感革命』のなかで、さまざまな霊長類(もちろんホモ・サピエンスも含む)の研究結果を踏まえた上で「言葉が戦争を作り出した」という趣旨のことを述べている。そういうことを踏まえると、(まだ読み途中だが)『成瀬』は言葉の使い方が本当の意味で上手だと僕は感じる。言葉を使いながらも、人間を言葉の牢獄から解放するような手触りを持っているからだ。

※写真は某家の窓から見える桜。

編集者、ライター。1986年生まれ。2010年からカルチャー誌「PLANETS」編集部、2018年からは株式会社LIGで広報・コンテンツ制作を担当、2021年からフリーランス。現在は「Tarzan」(マガジンハウス)をはじめ、雑誌、Webメディア、企業、NPO等で、ライティング・編集・PR企画に携わっています。
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