スマホからSNS・はてブのアプリを消してみて考えたこと

インターネット

LIGブログのこの記事の最後の方に書いたのだけど、スマホからSNSその他、気が散る元となるアプリを消した。Twitter、Facebook、Instagram、そしてはてなブックマークだ。もちろんたまに見ているが、あくまでもブラウザから、にしている。

炎上の発火源から離れてみて感じたこと

特に良かったのが、はてなブックマークアプリを消したこと。これを見なくなることで、最新の「ネット炎上」案件に気づくことがなくなり、気分的にも健やかで、自分が本来やるべきことに少しだが時間を割けるようになってきている感覚がある。

そうすると、最新のネット炎上案件については友達伝手で聞くようになった。

で、距離感をとって聞いてみると、いわゆる「ネット炎上」は「社会彫刻」として、アートとしてはけっこう面白いということに改めて気づいた。

今までそういうものに対して心がざわついていたのは、自分が「観衆としての当事者」だったからだと思う。今、自分は非当事者になったので、心を乱されることはない。

なぜTwitterやはてなブックマークを見ていたかというと、まあ昔からのクセもあるが、メディアの仕事をしていく上で最新の動向を知っておくことは役に立つと考えていたからだ。でも実際に見なくなって、確かにトレンドへのアンテナは低くなったかもしれないが、それ以上にプラスが大きいなと感じている。

いわゆる「ネットの炎上騒ぎ」も「リアリティ番組の炎上」も、構造は全く同じだと思う。要は、観衆の側もそれらをエンタメとして消費しているのだ。古代ローマのコロッセオ(闘技場)で、剣闘士とライオンが戦っているのを見るのと同じ。中世ヨーロッパでは広場での処刑が、日本でも獄門(晒し首)が市民たちのエンタメだった。それが、いま再びSNSを舞台に展開されているだけだ。

コロッセオも処刑も獄門も、エンタメとしてはどうしても優秀だ。それは認めざるを得ない。しかし、それらの観衆は「趣味がいいですよね」とはならない。今後の数年でゆっくり時間をかけて、SNS炎上やリアリティ番組での炎上を消費している「観衆たち」は、「趣味の悪いエンタメを消費している人たち」というふうに認知されていくと思う。

過去に経験した「ネット炎上」について

プロデュースや当事者として、ネット炎上とかバズとかは過去に何回も経験している。いわゆる「良いバズ」とされるのもけっこうある(ただ、バズや炎上に良いも悪いも正直ないと思っている)が、賛否両論があったのが「愛のキャラバンプロジェクト」と「ドラハラ」の二つだと思う。

「愛のキャラバンプロジェクト」は、まああまり説明に字数を使いたくないのだが、要は当時のTwitterでの「ナンパクラスタ」の盛り上がりを背景に、非モテ男性たちの足掻きをそのままドキュメントして、コンテンツにしたものだった。

YouTubeで公開した動画でのドキュメンタリーと、新宿ロフトプラスワンでのリアルイベントのとんでもない盛り上がり、そして電子書籍化、SNS運用、ニコ生放送、さらにはKADOKAWAからの単行本化、各種メディア掲載を通じたキャンペーン、ニコニコ超会議への出展、等々、やれることは思いつく限り何でもやり、トライの数が多いから時に失敗もしたがトータルでは大成功、関係者のほぼ全てが幸せになったと思う。

しかしその後、「愛のキャラバン」の試みは、やがて主体を変えて「恋愛工学」の方向へと回収されていった。

「ドラハラ」は、これもあまり説明に字数を使いたくないが、こちらの余波は規模としてはとんでもないものになった。テレビにすら取り上げられたぐらいである。

この2つの企画をプロデュースをした当時の僕には、「こういうメッセージを届けたい」という明確な意思と、「実際にこれをやったらどうなるんだろう」という実験精神が確かにあった。

「社会彫刻」という考え方

少し具体的に言うなら、「愛のキャラバン」は恋愛に消極的にならざるを得ない現代の男女の関係をどうしていくべきか、そして「ドラハラ」には世代間対立と教養主義の問題を、社会全体で考えたいという意識があった。

でも「こういう問題を社会全体で考えたいんです!」などと、ただストレートに叫んだとしても、誰にも届くはずがない。だからこういうことを実現するには、「現象」でなくてはいけないのだ。

「社会彫刻」という言葉がある。詳しくはググってほしいが、何も石を彫ったり粘土で造形物を作ることだけが「彫刻」ではない。何らかの社会的な「現象」を作り、その「現象」にメッセージさせるということも「彫刻」なのだ、という考え方である。

僕は上記の2つを企画しとき、まだ「社会彫刻」という言葉は知らなかったが、「自分にできるアートをやる」という意識は薄ぼんやりとはあった。

ただ、上の2つの主体は、自分ではなく他の人だ。「お前は裏で糸引いて面白がっているだけだろう」という批判もあった。だから「自分でも炎上しなければ」ということは考えていた。

そこで、自分自身で体を張ってみたものとしては、たとえばこのブログ内での記事でいうと、ドチャクソ炎上したこの記事(大学でちゃんと勉強してない人)は、明確に「こういうことに怒りを伝えたい」という意図があった。こういう話は、人の感情を逆撫でしなければ問題提起にはならない。だから正直、「炎上するだろうな」と予想していた。でも間違ったことは言っていない確信があるから絶対に引かない。ここでもし「伝え方の工夫」などしたら、全くの無風に終わっていたことだろう。実際に世の中が変わったかどうかはわからないが、そのメッセージに数万単位の人が反応したことは確かだ。「批判に逐一レスポンスし反論する」という形式を取ったので精神的に多少疲弊はしたが、トータルでは当初計画していた通りになった。

ただ、今の僕はすっかりそういう「アートをやる」という気持ちを失ってしまっていた。会社組織にいるといろいろなパワーバランスがある。昔のような「失うものは何もない」などという意識からはどうしても離れてしまう。まして会社員の身分を持って「社会彫刻をやります」「アートをやります」とは普通はなかなかならないのだろう。

一方で「アート(社会彫刻)はビジネスにならない」と普通は思うのだろうが、その思い込みが間違っていることは、「愛のキャラバン」プロジェクトが商業的に成功していることからも、すでにハッキリしている。

ただ、自分でも厄介だと思うのだが、一度、心がフリーズさせられてしまうと、もうその氷はなかなか溶けなくなってしまう。今はまだまだカチコチである。

「何か面白いことをやりたい」ということを最近いろんな人の口から聞く。それが「エンタメ」なのか「ビジネス」なのか「アート」なのかというと、実はほぼ「アート」のことを指しているのだと思う。

僕は、ただ単に受け手を「共感」させ「癒す」ものが「エンタメ」で、ただ単にお金儲けにつながるだけのものが「ビジネス」だと思う。だが「アート」には、「刺激」と「問題提起」が必ず混ざっている。それが「エンタメ」にも「ビジネス」にもなったりする。

そして最近の自分には「アートをやる」という意識がほぼなくなっていた。そしてそれは、すぐには戻らないと思う。しかし今は正直行き詰まっているので、少しずつでも「アートをやる」という意識を取り戻さなければならない。

・・・と、そんなことを、超久しぶりにPerfumeの「パーフェクトスター・パーフェクトスタイル」を聴いて思った。この曲は当時大好きだったのに最近ぜんぜん聴いていなかった。あの当時はやる気に満ち溢れていた。昔と同じようにはいかないだろうから、今なりのやり方で「やる気」を上げていきたい。

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