余白をつくる

インターネット

個人ブログなので、たまには日記っぽいことをつらつらと書いてみたいと思う。

最近は日々体力づくりに励んでいるので体調はそれほど問題ない。ただ、すべてのことに全力で取り組むには、気力がなくなってきているのを感じている。

もう33歳だから気力が衰えてきている……わけではないと思うのだが、「ニーバーの祈り」のようなことを考えてしまう。自分の力で変えられること、そうでないことがあり、自分の力で変えられないものに関して、今までのように”hang in there”するのがやや辛くなってきている。

そうなると、

  • 一緒にやっていて互いにやりがいを感じられる人
  • 自分が自分に対して感じている価値を、尊重してくれる人

とだけ、何かをやるのがいいのだろう。

ビジネスとアート?

ちょうどさっき、山口周さんの『世界のエリートはなぜ「美意識」を鍛えるのか? 経営における「アート」と「サイエンス」』をパラパラと読んだ。

この本は非常に興味深いのだが、面白いのは、戦略コンサルティング業界や新興ベンチャー業界について書かれた以下のような記述だ。

前章で事例をとりあげたDeNAの創業メンバーのほとんどが、戦略コンサルティング会社の出身であったことを思い返せば、これらの業界に集まる人たちに共通する「思考の様式」がおわかりいただけるかと思います。その思考様式とはつまり、「社会というシステムの是非を問わず、そのシステムの中で高い得点を取ることだけにしか興味がない」という考え方です。

こう指摘したあと、山口氏は、さまざまな企業の非倫理的な営みに携わっていた人々の「誠実さ」とは、「自分が所属する組織の規範・ルールに従うことであり、社会的な規範あるいは自分の中の規範に従うことではなかった」と評している。

その後に続く、ナチスのユダヤ人虐殺を指揮したアドルフ・アイヒマンに関する分析(いわゆる「ミルグラム実験」に対するもの)も正鵠を射たものだ。

要するに、これから問われていくのは、「システムへの最適化」ではなく、「システムの相対化」ができるかどうか、である。

合理性を極限まで突き詰めると結果的に非合理的な選択へと行き着く。そうならないために鍛えるべきは、「社会」への視線、あるいは自分の内的動機である。

あまりわかりやすく書く気がないのだが、この本で言われているのは「自分の内的な、美的基準を磨くほかない」ということである。必要なのは、見せかけの合理性やわかりやすいマーケティングの結果ではなく、「こうあるべきだ」という美的基準を高めていくことだ。そのためのわかりやすい例として「アート」や「哲学」という、一見サイエンティフィックではないものが必要になるというわけだ。

この本では他にも、オウム真理教の信徒たちと、著者の知人の戦略コンサルティング業界の人々に共通することとして「文学に親しんでいない」ことが例に挙げられている。

自分が取り組むべきことは……

実は、上に書いたようなことはとっくにわかっている。それを踏まえた上で、これから僕個人が取り組むべきことを列挙してみる。

できるかぎり「一緒に仕事をする人」を限定する

これもおこがましいようではあるが、現にいま、ありがたいことに、本業でも他の仕事でも、比較的それが許されるようなところにいる。

実際、人生は短い。いまはひとまず、自分としては、お互いに必要としている人とだけ仕事をするタイミング、ということでいいのではないかと思っている。

自分が自分の価値だと思っている部分を尊重してくれる人がいるのであれば、その人のために仕事をする。そして、その人たちに「こいつと一緒に仕事をしてよかったな」と思ってもらえるような、ポジティブな影響を与えうるような仕事を心がける。ほかはよほど必要ないかぎり、無理には考えない。それでいいのかなと思う。

まあもちろん、今のモードが続くわけではないと思う。もし必要があれば、そのときにはモードを変えればいい、ぐらいでもいいのかなと気楽に考えてみる。

料理をする

とはいえ頭をカラッポにする時間も必要だ。それが、チャットのチェックであったり、SNSを見たり、そういった他人の動向を見るということに使ってしまいがちなのだが、もっと無為なもの、ただ単に作業をするだけの時間に代替してしまったほうがいいという気がする。

これは洗濯や掃除などとも似ているが、その2つは常にやっている一方で、料理だけは面倒くさくてなかなかやっていない。だからプラスアルファしていって習慣化してしまうぐらいがちょうどいい。

運動を(もっと)する

これも要は外界を遮断して、かつインプットをしないでなにかに没頭する時間として確保したほうがいいと思っている。ウェイトトレーニングは週1回は行っているが、それにプラスして、ランメニュー(サーキットトレーニング)と、野球の練習も週イチぐらいで組み込んで習慣化してしまいたい。これらも本当に何の意味も求めず、頭をカラッポにするための時間で、それがたまたま野球であるというだけだ。

したいインプットをする

インプットは日々行っているけれど、それもだいたい仕事に結びつくようなものになってしまっていることが多い。それはそれとして時間を確保しつつ、あまりダイレクトには結びつかないようなものを持っていたほうが、精神的な余裕にはなるのかなと思う。

今のところ、「ファーストデーと14日のTOHOシネマズデイは映画を観る」という目標を立てて、できないときがありつつもおおむね月2本くらいは映画を観ている。

それは精神的に健康だと思いつつ、このあいだ久しぶりに漫画喫茶に行ってみた。(これも若干仕事に結びついてはしまうのだが)10代の頃にあだち充がどうも苦手で、ちゃんと読めていなかったのを、碇本学さんの「ユートピアの終焉 あだち充と戦後日本の青春」という連載を追いつつ、『タッチ』をゼロから読んでみた。

そうしたら、10代のときの感覚とは全く違うかたちで、あだち充の作品の感動を味わえることに気づいた。あまり多くは書かないが、あだち作品は非常に間接的な表現が多い。説明過剰な昨今のコンテンツ群に比べると、表現が間接的であるぶん、「心が動かされる」感覚を味わうことができるのだ。

それと、このあいだ『ライオン・キング』の実写版を観たのだが、やはり気になって手塚治虫の『ジャングル大帝』を読んでみた。幼少期の記憶が非常におぼろげで、あらすじぐらいしか頭になかったのだが、これも読んでみたらたくさんの気づきがあった。

『タッチ』も『ジャングル大帝』も、「そのうちちゃんと読み返したいな」と、頭の片隅にはあったのだが、いざ実際に読んでみると、ツイッターよりも、はてなブックマークよりも、フェイスブックよりもはるかに楽しい時間になる。こういうことにもっと時間を使わなければ、もったいないと思ってしまった。

余白をつくる

SNS中心に生活してしまうと、どうも加速するばかりで減速がない。もちろん加速することも必要だが、おそらく自分は「減速」の時間が少なかったのかなと思う(この表現は石岡良治さんに多分に影響を受けている)。

生活に「余白」をもう少し生み出しつつ、この投稿で書いた以外にも、そして仕事以外でも、やりたいこと、取り組みたいことは山ほどある。習慣化したいことを完全に習慣化してしまえば、さらに「余白」も作ることができるのではないか、というなんとなくの予感がある。まずは「余白」をもっと作っていくこと。

 

 

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