承認欲求から離脱する

甲子園球場の16号門の掲示

本日、大阪にいてさっきまで甲子園の準決勝を観て、そのあと甲子園歴史館に行ったりとインプットに余念がなく、その勢いで原稿に向かったのですが、自分がこれまで書き散らかしてきたことの収集のつかなさに一旦絶望しつつ少し「あ、これならまとめられそう」的なアイデアが浮かんできたのでここらで個人ブログを執筆します。

今回は承認欲求についてです。

スポンサーリンク
レクタングル(大)広告

承認欲求に煩わされない

僕もかつて承認欲求とか自意識の問題にかなりコミットしていた気がするのだが、最近どんどん気にならなくなってきている。というか、「自分の価値を認めてくれない人には何言ってもどんなことしても無駄」という感じになってきている。これはおっさん化なのかもしれない。

「まあいいや〜」みたいになっているのだ。

これは普通に考えてまずい。承認欲求に身を焦がされてそれでも前に進んでいく、そんなアホな人間が好きだ。

なんてことを思いつつ、自分より若い子たちが、承認欲求に振り回されてどんどん潰れていくな〜と思った。

ふと考えてみると、僕が承認欲求にあまり振り回されなくなったのは、とにかく頼まれ仕事をどんどんやったからだと思う。自分の個性なんかまったく売りにならない、編集・ライターとして誰かの話とか対談とか座談会を、自意識を無にしてまとめる(文字起こしとか構成とか)。そこに個性はまったく必要ない。求められていないから。

20代前半の頃は「個性的でありたいのに個性的でない自分」みたいなものに悩んでいたのだが、そういう自意識を無にする仕事をたくさんやったおかげで、承認欲求に振り回されなくなったし、逆になぜか「中野慧という人の個性」を求められることが多くなってきた感がある。ほんのちょっとずつ。

で、もうそれで満足してしまっているし、自分の価値を認めてくれない人はわりとどうでもいい、その人たちに何か自分の価値を訴えようともぜんぜん思わない。

承認欲求とか自意識よりも面白いもの

承認欲求とか自意識よりも面白いものがいっぱいあるよな〜〜〜と思っている。

それは他者である。他人の話とかをきっちりまとめる仕事をしていると、どんどん意識が自己から他者、内から外に向かうようになる。誰かに憑依する経験、そして何か尊敬できる誰かに感染する経験。

そういうことを経験していくと、承認欲求に振り回されなくなったり、逆に自分に「個性らしきもの」が形成されていくということなのかもしれない。

とはいえ

あ〜ムカつくな〜と思うことはよくある。自分の言ってることを理解しない、それで失敗したり、明らかに滅びの道を進んでいたりする人々。

そういうときにじゃあ、「あ、滅びの道進んでるな〜」とウォッチするだけでいいのかどうかというと、直感的にはまずい気がする。ただ、今はそういうよこっことをやるよりも、もっと自分の取り組むべき対象にだけ集中したほうがいいのではないかと思っている。

承認欲求や自意識に振り回されずに、自己への執着から離れて他者=世界へ関心を向けつつ、自分のやるべきことに集中する。禅みたいに心地よい感じをいかにつかむか。

スポンサーリンク
レクタングル(大)広告
レクタングル(大)広告

フォローする