大学でちゃんと勉強してない人

大久保通りの夕日 社会科学・人文科学

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上野千鶴子の東大入学式での祝辞がバズっている。

平成31年度東京大学学部入学式 祝辞 | 東京大学

社会学や女性学の蓄積を踏まえた、社会に向けたメッセージ性の強いものになっている。メディアの報道では、好意的なものが多い。

僕はここで、ジェンダー/フェミニズムについて取り上げたいわけではない。

ちょうど今読んでいる本のなかでこんな記述が出てきた。

「女性は、差別される者として男性と非対称的な関係を結びながら、この「男社会」の構造に男性とともに関与し、それを生産・再生産してきたもう一方のまさに当事者なのである」

(吉澤夏子『女であることの希望』より)

「女性はつねに被差別者である」という見方を、ジェンダー論では「抑圧史観」というらしい。

現代はポリコレや#Metooがかなり広範に浸透したので、まさに「世間」として抑圧史観の時代に突入したといえる。

上野千鶴子の話は、問題提起としては至極真っ当なのだが、これがバズっているというのはまさに「抑圧史観の時代」ゆえなのではないか。

しかし、まさにその固定的な性別役割を強化してきたのは、果たして男性だけだったのだろうか、という捉え返しもまた必要とされていくと思う。

このイシューに関してもっともわかりやすい例は「徴兵」だ。戦前の日本に生きていたとして、徴兵された男性のなかに「男に生まれなきゃよかった」と思った人、戦場に送られずに銃後の守りを任されて「女に生まれてよかった」と思った人は、たくさんいるのではないだろうか。

この話は慎重を期して書こうと思えば何万字も書けてしまうのだが、このあたりにしておきます。今回書いておきたかったのはそんなことじゃない。

「高学歴だけど大学でろくに勉強しなかったことを自慢げに言う人」

 

上野千鶴子の祝辞のなかで、ジェンダーに関するものではない、以下のような発言が、一部からの反発を招いているようだ。

あなたたちはがんばれば報われる、と思ってここまで来たはずです。ですが、冒頭で不正入試に触れたとおり、がんばってもそれが公正に報われない社会があなたたちを待っています。そしてがんばったら報われるとあなたがたが思えることそのものが、あなたがたの努力の成果ではなく、環境のおかげだったこと忘れないようにしてください。

(中略)

あなたたちのがんばりを、どうぞ自分が勝ち抜くためだけに使わないでください。恵まれた環境と恵まれた能力とを、恵まれないひとびとを貶めるためにではなく、そういうひとびとを助けるために使ってください。

ここで言われていることは、「普通」の知識と教養がある人にとって、ある種当たり前のことだ。これに感情的な反発をする人が多数いるという状況がかなりヤバいと、直感的に感じた。

以下のツイートが1万以上リツイートされている。

これはまったくそのとおりなのだが、恐るべきは、大学教育でその程度のことすら学ばずに卒業していく人が相当多いことだ。

5〜6年ほど「社会」(これもイヤな言葉だが)で働いてみて思ったのが、「国立早慶卒です」みたいな人にも、そんなことすらわからない人が圧倒的に多いということだ。

もちろん例外はいる。大学の授業やゼミでちゃんと学んでいなくても、自分でどんどん本を読んで勉強した人。編集者や文筆家にはそういう人がけっこう多いが、社会的にはかなりマイノリティだと思う。

僕は昔は、「大学でちゃんと勉強してないことをヘラヘラ自慢げに言う」という人があまりにも多いので、「そういう人もいてもいいのかな?」とふわっと思っていた。しかし何年か働いていろんな人と接してみて思ったのが、「高学歴だけど大学でろくに勉強しなかったことを自慢げに言う人」は、やっぱり信用するのはよろしくない。

何より、「高い学費を払って何も勉強せずに学歴だけ買って世間を泳いでます」という、クソダサいことを自慢げに言っていることの滑稽さがすごい。親に学費を払ってもらっているのだとしたら、せめて大学なのだから何かアカデミックな「学び」を身に着けなくてもいいのか? と僕が思ってしまうのは、貧乏性だからなのだろうか?

もちろん、「いや〜、大学ではちゃんと勉強してなくて、やっとけばよかったな〜と思うんですよ」とかそういう「後ろめたさ」を感じているのだったら全然いいと思う。でも開き直るのはカッコ悪い、つまらんやつだなと思ってしまう。後続世代や社会に与える悪影響がすごいから、お願いだから黙っててくれと思う。

「大学で◯◯学科を卒業したんで◯◯学はわかります」と言う人がたまにいる。大抵の場合、そういう人は「そもそも学部レベルで本来必要な見識を身に着けていない」かつ「卒業後も勉強し続けていない」。たかだか4年勉強しただけで、「◯◯学はわかります」と言ってしまうのは、学問や知識・教養をさすがに軽く見すぎではないか。

ちなみに個人的に今の会社に入ってちょっと嬉しかったのが、高卒で仕事がめちゃめちゃできる社員が何人もいるのだが、そういう人たちにかぎって「いま、本読んでめちゃめちゃ勉強してるんですよ」といって、僕にいろいろ聞いて吸収しようとしてくれること。知的好奇心がすごく強いのだ。変に大学に行ってテニサーだ飲み会だみたいなどうでもいい文化に触れずに済んでいるから、なのかもしれない。

あと、とある経営者と話していたときにその人がこんなことを言っていた。

みんな大学入るまではちゃんと勉強するだろ。でも、なんで入ってからも同じように勉強し続けないんだろうな? 俺はずっと勉強し続けたんだけど、みんなもおんなじように、ずっと学び続ければもっと面白い世の中になるのにな。

これも至極真っ当な話だと思う。

自分の学歴を自分が獲得したものだと思い込み、それを世の中や他者のために使おうとせず、自らが「勝ち抜く」ためだけに使う。それはまさに「大学で勉強していない」ことによるのだと思うが、結局そういう人たちは、学歴を「勝ち抜き」のためにだけ使うので、一生そのことに気づくことがない。

知的好奇心がなく、ノブレス・オブリージュがなく、勝ち抜くことだけにしか興味がない人が、知識集約型産業の上層のマジョリティであるというのは、まさに社会が滅びていく遠因になるのではないか、と思うと絶望的な気持ちになる。そういう人たちは「変わる」スイッチも持っていない。「人を変える」「啓蒙する」エネルギーなんてない。少なくとも「変化が起こることを待ち構えている」人でないと、こちらから働きかけなんでできない。

だから自分自身としては、そういう人たちとなるべく関わらず、できるかぎり知的好奇心やノブレス・オブリージュのある人たちとだけ関わって生きていきたい、と思ってしまう。

 

追記

感想ありがとうございます。はてなブックマークのコメントとか、ツイッターでのコメントをピックアップしてレスしていきます。

勉強してない自慢を額面通りに受け取る人っていたんだ…/実際はこんな感じでは https://bunshun.jp/articles/-/1890

えっと、そういう意味じゃないです。僕は文系にいたので文系の話を念頭に置いてるのですが、大学で単位を取ることなんて大したことじゃないので、「勉強してないアピール」とかそういうレベルの話をしてません。

そうじゃなくて、ただ単に大教室の講義を受けてテストで答えのある問題ばかり解くんじゃなくて、自分で課題を設定してそれを解く、課題発見解決型能力というのが本来大学で身につけるべきことだと思います。それはゼミなどの演習型授業に能動的に参加し、論文を書くということでクリアできます。そういうことにきちんと真剣に挑んだかどうかが「大学でちゃんと勉強したかそうでないか」の分水嶺だと思います。

前にこの話題については「受験秀才は何が得意で、何がダメなのか。ストリート・スマートと大学での「学問」の価値」という記事で書いているので、もっとツッコミたい場合はそちらをご参照ください。

大学でちゃんと勉強してないことをヘラヘラ自慢げに言う」という人があまりにも多い」実際にはめちゃめちゃ勉強してたに決まってるだろ・・・

それも上記の意味での「勉強しているか」という意味では勉強していないと思います。ただ単に単位を取るだけなら、国立とか早慶でも文系であれば簡単にできます。単位取ってれば勉強してるとは思いません。僕の言っている意味での大学で勉強してた人かどうかは、何かのトピックに関して抽象度を上げた対話ができる、固有名が出てくるとかで判別できます。

ちなみにこのへんの話は、けっこう前のやつですがかねどーさんの「これから大学に入学する新入生のために – かねどーのブログ」でも詳細に語られているので、そちらをご参照ください。

大学で勉強ちゃんとしたことがアピールになる人を企業が求めていたとは思わないな。

そうですね。それが問題だと思います。だからみんな「大学では適当に単位だけ取ってサークルとかバイトだけやって世間知だけ身につければいいや」ってなるんだと思います。でも知識集約型産業が高付加価値を生んで経済成長につながるとすれば、いまだに「大学では勉強してなくてサークルの副代表やってました」みたいな人ばっかりを大企業が好んで採ってるってのはまずくない? という話です。

さらに追記

「自分は真実を見抜いている、大衆は間違ってばかり」みたいなスタンスは前時代的な啓蒙思想を感じるのですが、そこはアップデートしていかなくて大丈夫なんですかね

すみません! たまには本音も書きたいんす! ふだんはもっと丁寧にやっていこうと思っております……。すまんな……という気持ちです。

試験の日に全然勉強しなかったーって言いながら点数取るやつやつ、周りにいなかったん?

お〜い、そういう話じゃないって書いてるじゃん……! 追記も読んで! 時間もったいないと思うだろうけど……!

で、学問より運動に重きを置く活動家の言葉を鵜呑みにしないだけの学問は修められましたか?

上野千鶴子の本はわりと読んでるので、どういう人かはだいたいわかってるし、鵜呑みにはしてないよ。1.03のくだりは「ん?」と思ったしね。でもそこはジェンダーの話の部分で、この記事では大学の(文系的な)知性、たとえば上野さんの専門である社会学とか、そういう学問をあまりに軽視しすぎてない? という話をしているんです。上野千鶴子の本とかを大して読んでもいないのに、脊髄反射的に嫌うのは違うのでは。もし「敵」だと思うのであれば、敵をちゃんと研究することは一般論としても大事なことだと思うのであります。

上野千鶴子が批判したのは、あなたみたいに「努力した(勉強した)」ことを誇らしげに言う人だと思うが。大学に入って「勉強しよう」と思えること自体が環境要因という話。

うん、全然違いますね。僕はふだんはそんなこと全然言わないですよ。でも「勉強してないと言いたい勢」はふだんからそういうことを触れ回って「でも大企業に入れたオレ」みたいなことを言い続けるから、それはクソなんじゃね? という話。あと、「大学に入って勉強しよう」なんて僕も最初は思ってませんでしたが、入ってからサークルとか飲み会でグダグダやっていることのやばさを感じて、「ちゃんと学問しよう」と思ったんで家庭環境の話ではないですね。上野さんにご自身の意見をぶつけてみてはどうだろうか。

「東大ではボート部で戸田にしかいませんでした」って言ってる友人は航空宇宙の院に入り、数社を経て40で日本を代表する企業の中国統括してる。「勉強してる」の意識と効率が一般人と違うんだと思ってる。

なかにはそういう人もいるでしょうね。それはさっきの池上彰さんの「勉強してないと言いたい勢」。別にそういう人はいいんじゃないですか。ここで問題にしてるのは、勉強してないと言ってて実際に大学の学問にちゃんと取り組んでなくて、大企業とか入ってドヤ顔し、世間とか後輩とかに「大学なんて勉強しなくていいよ〜」と悪影響を与えるタイプの、マジョリティの人のことです。

しかし金だけ払って大学施設を使わない養分役の人のおかげで(俺みたいな)勉強したい人が快適に学問をできるという現実もあるんよ。まあ中年の勉強しなかった自慢がくそダサイのは同意するが。

おまおれ。でも、もったいなくないですか? せっかくいいものが身近にあるのにバカにして使わないのって……。

コメント

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