受験秀才は何が得意で、何がダメなのか。ストリート・スマートと大学での「学問」の価値

新木場駅前の様子 社会科学・人文科学

 

新木場駅前の様子

最近、改めて「学歴がある」ということの価値を考えることがあった。

以前、勝間和代氏がこういう分類をしていた。

  • 受験秀才=アカデミック・スマート
  • 起業家タイプ=ストリート・スマート

その定義に即してちょっと整理して書いておこうと思う。

受験秀才とはなにか

しばしば言われるのが、「学歴が高い」=事務処理能力が高いということとほぼイコールであるということだ。

そう、受験秀才=アカデミック・スマートは、「正解のある問題」を解くのが得意なのだ。

逆に言うと、「何でも正解があると思ってしまいがち」で、その「正解のある問題を解くこと」に価値を置き、かつ自分の存在意義をそこに見出してしまう。

しかし当然ながら、世の中のさまざまな問題には「わかりやすい正解」などないことがほとんどだ。

起業家=ストリート・スマートとは

一方、起業家タイプ=ストリート・スマートは、正解のない、難易度の高い問題に取り組むことを厭わないというところに特徴がある。

「課題発見解決型能力」というものである。

ストリート・スマートと「アカデミック」な能力との関係

今振り返ると、勝間氏の言葉の使い方には少し問題があったと思う。

「アカデミック」と「ストリート」が対置され、「アカデミック」よりも「ストリート」が称揚されている。ここに大きな誤解を招く要素があったように思う。

受験秀才というのは、

  • 目の前の
  • 正解のある
  • 難易度の低い問題を
  • 高速で処理できる

というのが強みであり、それは要するに受験勉強で試される能力なのだ。

しかしそれは要するに「高校生までの話」であり、「大学でのこと」の話ではない。

本来、大学=アカデミズムで身につけられる能力は、むしろストリート・スマート的な「自ら課題を設定し、その問題を解く能力」なのだ。

本来の「アカデミック・スマート」

それは要するに

  • 自分なりの問題意識を持って課題を設定し
  • 「正解」ではない、暫定的な結論を出せるようチャレンジすること

である。

しかし現状の大学という「場」に対して何らの批判的視座も持たないまま学生生活を送ってしまうと、単なるディズニーランド的な空間でダラダラとサークルで過ごし、アルバイトで世間知を身に着けるだけのことしかせず、卒業して働きはじめてしまう。

受験秀才はここで必ず壁にぶつかる。当然、世の中では、情報処理能力が高いだけの人よりも、課題発見解決型能力のある人のほうが評価される。それはなぜかというと、課題発見解決型能力のある人のほうが難易度の高い問題に取り組んでいるからである。

そう、一般的な受験秀才のほとんどは大学で「学問」をしていない。そういう受験秀才には、自分に課題発見解決型能力がないということの自覚が生まれないのだ。

自分の場合

かつて2000年代前半、黎明期の2ちゃんねるでは、「学歴板」というものが活況を呈していた。

僕自身、大学に入りたての頃はそこをよく見ていて、ときにはレスバトルなどにも参加していた。いま考えるとなかなかに無駄な時間の使い方なのだが、そこで結論として思ったのは「学歴はあっても損ではないが、そこにアイデンティティを賭けたり、学歴でフィルターをかけて世の中を見ると、大いに間違う」ということだった。

だからこそ、僕は大学に入って3〜4年目くらいに「このままではやばい」と思って「学問=課題発見解決型能力をつけること」をやり始めた。何個ものゼミに参加し、少人数型の演習型授業に数多く参加し、そこで「こいつすげぇな」というやつにどんどん声をかけて友だちになった。さらには大学の外に出て仕事をしたり、ネットを活用して、外側にどんどん自分の生活領域を拡張していった。それは部活やサークルなどの大学内の趣味の共同体では得られないもので、今でもかけがえのない財産になっていると思う。

「行動力」が正義なのか

そういう生活を送るようになってもう10年ほどが経ち、今はその延長線上で生きていると思う。

いわゆる「意識の高い」人の生き方に近似している。

ただ、今度はそういう意識高い系界隈にも違和感を持った。「ただ単に行動力のあるだけの人」も評価されてしまうという点に、である。そこには、「あらゆることから学ぶ」という知性や、蓄積されてきたもの=歴史に対するリスペクトが決定的に欠けていると感じることも多い。

結局、受験秀才には「自ら課題を設定し、それを解くチャレンジをする」というやり方が足りていないし、逆にストリートスマート系の人=行動力「だけ」ある人のあいだでは「学び続ける」ということの意識が足りない。

もちろんストリートスマートのなかでも、世の中で何かしらの結果を出している人たちのほとんどは「学び続けている」が、そのことには、行動力「だけ」ある人のほとんどは気づいていない。

まとめ

ここで言いたかったのは、「アカデミック」と「ストリート」が対置されてしまうのはちょっと違うと思う、ということだ。本当の意味での「アカデミック・スマート」は、「ストリート・スマート」的なものとほとんど同じなのだ。

むしろ大学での「学問」は、受験秀才タイプ=勉強ができるだけの「凡人」が、「ストリート・スマート」を身につけるためにこそあるのではないかと思う。

(了)

 

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