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高度資本主義・縮退ニッポンに適合した『すずめの戸締まり』、そしてスタジオジブリの匂わせ投稿について | にどね研究所

高度資本主義・縮退ニッポンに適合した『すずめの戸締まり』、そしてスタジオジブリの匂わせ投稿について

アニメ

人の心がないと言われようが、この作品は面白くない。

正直、脚本も演出もものすごいよくできている。おそらくはハリウッドのストーリーボード方式のようなやり方を用いて、なるべく破綻のないように作られているのだろう。以下、『すずめの戸締まり』を観て思ったこと、考えたことについて書いていきます。

『君の名は。ver2.0』でしかない

観終わってから、「とにかく私たち、社会意識高いんです!」ということを見せつけられる作品だったな〜、と感じた。

要するに製作側がやりたかったのは『君の名は。』でやり残したことをやろう、ということである。『君の名は。』は震災の描写があまりもふわっとしすぎていて、真面目にやる気があるのか、というものだった。批評側からは、「震災を忘却したいという集合的欲望に合わせた作品で非常に欺瞞的である」という批判が多くあったわけである。そこに対して『すずめの戸締まり』は真面目にアンサーしようとしていた。

そのことを「素晴らしい」と評価する向きもあるのだろう。だが、批評をクリエイターが受け止めるというのは、それではダメなのだ。たしかに『君の名は。』には欺瞞があった。しかしだからといって、「震災の扱い方」をもっとアップデートしたものを作ろうというのは真面目すぎる。『すずめの戸締まり』は、ほとんど『君の名は。ver2.0』みたいなものになってしまっている。

そうではなく、批評をメタメッセージとして受け止めた上で、過去作の焼き直しではないテーマで新しい作品を作るべきだ。この点でも、製作陣に批評の読解力がないことが明らかになってしまった。

「我々は国民的」という驕りは、ジブリにあったのだろうか?

もう一つ、今作で感じたのはチーム新海誠が「国民的であろう」とする姿勢が明確になったことだ。これはまさに宮崎駿、スタジオジブリの次を担おうという意志を彼らが持っていることを意味するわけだが、僕などは「国民的であるってそんなに必要なことなのか?」と思ってしまう。

チーム新海誠は、『君の名は。』以降、どうも状況対応的すぎるように感じる。『君の名は。』で震災をやり、『天気の子』で気候変動をやり、『すずめの戸締まり』では『君の名は。』の震災モチーフが微妙にふわっとしすぎていたのでパッチを当てて焼き直すというものでしかなかった。

個人的には『君の名は。』『天気の子』までの社会的モチーフの取り入れ方はそんなにダメではなかったと思うのだが、『すずめの戸締まり』では自意識過剰になりすぎて、「国民的であろう」とするという、ジブリさえおそらく持っていなかったであろう驕りまで出てしまっている。

宮崎駿やスタジオジブリが「国民的であろう」と考えていたかどうかはかなり怪しい。基本的には、自分たちの作りたいものを作っていたのではないか?

スタジオジブリの各作品は、宮崎駿の企画書が『出発点』『折り返し点』といった書籍に収録されていて、読むことができる。企画書を読んで感じるのは、宮崎駿が謎の問題意識の高さを持ってさまざまな作品に取り組んできたということだ。たとえば『魔女の宅急便』には宮崎自身の大好きな少女漫画というモチーフがあるし、『耳をすませば』には青春時代の恋愛経験の少なさに対するルサンチマンが書かれている。めちゃくちゃ個人的な動機を、社会にむりやり接続させるような企画書を執筆していたわけだ。だからジブリの作品にはバラエティがある。

ところが『すずめの戸締まり』には「公」しかない。「私」の徹底的な欠如。我々は国民的であるのだから「公」でなくてはいけないという、メディア業界でいえばヤフージャパンのような驕りが見え隠れする。作品って、クリエイティブってそういうものでいいんだっけ? それで面白いんだっけ? という思いが拭えない。

地方創生、アニマルウェルフェア、神道を扱う手付きが疑問

たしかに限界集落とか人口減少の問題はあるしそのとおりなのだが、「あーそうね」としか思えない。まあ、地方創生要素はあっていいと思うのだ。たとえばほとんどの日本人は海といえば、太平洋と日本海、瀬戸内海ぐらいしか思い浮かばない。そんななかで、せっかく豊後水道というあまり注目を集めないが夢のある海の道――陸の道ではないし、もちろん空の道でもない――のおもしろさを表現できるフィールドを設定したのに、そこのワクワク感はゼロでほとんどすっ飛ばしていた。愛媛の大洲はすごくいい場所だという話を聞くが、そこも流す程度でしかなかった。

もうひとつ気になったのはダイジンのアニマルウェルフェア問題である。すずめに振られて「すずめ、好きじゃなかった」とさみしそうに言って、最終的には人間男女の恋愛を成就させるための捨て石にさせるというのは、動物の権利、アニマルウェルフェアを何だと思っているのか? と、怒りを禁じえない。これは人間にしか興味がないから生まれてしまう描写である。

「自然を人間がコントロールする」という思想も危うい。震災や気候変動、そしてコロナで露呈したのは、人間が自然をいくらコントロールしようと思ってもやりきれない、そのことと向き合いながら、自然を「統治」するのではなく、人間と自然が「調和」していくような思想や社会のOSが必要だ、ということではなかったか。もちろんこういう議論には賛否があるだろうが、『すずめの戸締まり』は「統治」の思想をあまりにも無批判に作品に内面化させてしまっている。

申し訳程度の神道要素もどうかと思う。『君の名は。』での口噛み酒や神社描写程度であればまあフェティシズムとして良かったのではないかと思うが、『すずめの戸締まり』ではすずめが宮崎から出発するということや、「岩戸すずめ」というように神道っぽい雰囲気を単に醸し出しているだけで、たとえば天皇制へのクリティカルな目線はほぼない。天皇制はもちろんいいことばかりではなく、負の要素もたくさんあるわけで、そのひとつは(天皇制支持者の)男系固執だろう。『すずめの戸締まり』には女帝的な要素への言及(すずめ=アマテラス的である)は見られるが、天皇制問題への批評的な視線を孕んだものではまったくない。

ちなみにここまで「チーム新海誠」という言葉を用いてきたが、「新海誠は〜」と記述しない理由は、やはり『君の名は。』以降にプロデューサーとして川村元気が付いてから上記のような問題が出てきていると思うからである。

川村元気は、インタビューなどを読むと自己愛のかたまりのように思えてしまう。ちなみに『百花』は見ていないが面白そうだ。自己愛がいい方向に振れる場合もあるのかもしれない。だが、果たして鈴木敏夫は若い頃に、今で言うNewsPicksのようなビジネスメディアに嬉々として出てきて企画術とかビジネスをキリッと語っていたのだろうか? もしかしたらそういうところもあったのかもしれないが……僕にはあまりそのイメージがない。

高度資本主義と縮退ニッポンに適合した主体

『すずめの戸締まり』を観て感じたのは、「圧倒的な意志と努力」であった。ちなみにこれは全然いいものだとは感じない。非常にNewsPicks的な、21世紀の根性論2.0で作られている作品で、本当にスタッフ陣の努力の結晶である。だが、非常に息苦しさもある。

絶対に外さない、絶対に当ててやるという意志と努力。「失敗してもいいじゃん」というのがなく、打率10割を狙ってちょこんと当てていく感じである。しかしホームラン狙いをしてときどきホームランを打ったり、大抵の場合は空振り三振で終わるような世界のほうが生きやすくないだろうか? 「国民的」な予算を使って盛大に空振りしてみせることのほうが「失敗を恐れて起業とかしない国民」をはるかにエンパワーメントできるのではないか?

『すずめの戸締まり』全体に、勝利至上主義というか、常に成功や結果を求められる息苦しさを内面化したまま作っているような雰囲気が流れている。「仕事しすぎ」「ワーカホリック」の感性を「国民的」とドヤってしまうことのつまらなさだ。

成功しなければいけない、成功してNewsPicksとかでドヤらなければいけないという強迫観念、21世紀型ど根性物語で高度資本主義と結託していくぜ!という姿勢に、全然オルタナティブ性を感じなかった。社会批判的でないというか、カウンターカルチャー的でないのである。もともとの新海誠は、猫にまで縮退してしまうほどの男性性の弱々しさがカウンターカルチャー的で面白かった。しかし新海誠は、川村元気の影響で完全に強化人間になってしまっており、高度資本主義に適応した主体に作り変えられてしまっている。端的に、川村元気は新海誠を解放すべきなのではないか。逆に言えば、本来は猫であるはずの新海誠は、川村元気というビジネス強化人間に甘えすぎていたのではないか?

それと僕が一番強く感じたのは、「日本という国で生きていく」ということを決め切ることのつまらなさである。新海誠の大成建設のCMなどは、「アジアとヨーロッパをつなげる」「日本から出てこの発展途上国を支えるぜ!」とか、そういう謎の壮大なビジョンがあり面白いのだが、『すずめの戸締まり』はこの縮退する日本で「国民的である」という認知を得て経済的な安定を自分たちだけは確保したいという卑小な保身意識すら感じてしまう。

やっぱりオルタナティブでありたい

ところで、『すずめの戸締まり』に合わせてなのか、スタジオジブリが匂わせ投稿をしたことが話題になっている。

「くだらねぇwww」と思うのだが、なんかやりたいことやってんなという感じというか、いろんな意味でオルタナティブである。しかもわざわざ『すずめの戸締まり』公開日に合わせてくるところに、宮崎駿・スタジオジブリの「若者を潰す!」というしょうもない意識が垣間見える(しかも別に潰せてないところがいい)。

ビジネス強化人間になって高度資本主義に適合した身体になり日本に縮退するよりは、こういうふうにありたいと個人的には思う。

以下、残り少ないですが一旦有料に切り替えます。無料部分では批判的なことばかり書いていて、有料部分では「いいな」と思った点を挙げます。なお、有料マガジンの考え方については、こちらの記事に詳しく書きました。今回に関しては「『すずめの戸締まり』を公開日に観に行って翌日午前中に感想ブログを上げるのは偉いな!」と思われた方は、課金していただければ幸いです。これまでに公開した有料マガジン一覧はこちら。主に読書ブログを上げてます。

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