古代ギリシアの「ルッキズム」「文武両道」とは?エリアス『スポーツと文明化』を読み解く(3)

カルチャー

さて、これまでノルベルト・エリアス、エリック・ダニング『スポーツと文明化』について取り上げてきた。今回は3回目です。(これまでの『スポーツと文明化』の記事一覧はこちらへ)

理想化される古代ギリシア

さてエリアスは他のところで、古代ギリシアでのオリンピア大会と、近代オリンピックの違いを強調して論じている。

競技者たちの気質、かれらが評価された基準、競技のルール、競技の実施それ自体は、多くの点で近代スポーツの諸特徴とは明らかに異なっていた。今日のそれに関連する多くの著書は、違いを極小化し、類似点を極大化する強い傾向を示している。その結果、ギリシア社会だけでなく、現代社会の状況も、さらにそれらの関係も歪曲されているのである。その問題は、古代の競技大会を現代スポーツの理想的な具現として扱う傾向ばかりでなく、古代の著作の中にこのような仮説の確認をしようとする同様の期待感、つじつまの合わない証拠を無視し、あるいはそれを自動的に例外への言及として片付けようとする傾向によって混乱をきたしている。

ノルベルト・エリアス「社会学的問題としてのスポーツの発生」『スポーツと文明化』190ページ

ここで照準されているのはおそらく、近代オリンピックの創始者ピエール・ド・クーベルタンのオリンピズムという思想である。実は僕も、クーベルタンは古代オリンピア大会をどうも神聖視しすぎているきらいがあると感じるようになった。クーベルタンたちが理想とする古代オリンピックのイメージは、実際にはかなりズレていて、現代の感覚からすればかなり暴力的なものであったらしい。

エリアスは、現代の感覚で過去の暴力のレベルを評価することの不当性を、以下のように述べる。

産業の発達した民族国家内部での対立と緊張が――通常は――それほど暴力的なものではなくなり、いくぶん処理しやすくなってきたのは、長期にわたる無計画の発展の結果である。確かに、それは現代の人々の功績ではない。ところが、現代の人々はそれを自分の功績のように思いがちである。かれらは、良心の形成が未発達で、さらに、たとえば、支配を行うエリート層と支配される人々の関係において、肉体的暴力に対する嫌悪感のレベルが低かった過去の人々を批判し、かれら自身のより高い嫌悪感のレベルが、あたかも彼ら自身の個人的な業績でもあるかのごとく一方的に判断を下すのである。

(略)

われわれの直接的で、ほとんど自動的な感情の反応によって、われわれはしばしば、暴力規制と暴力に対する嫌悪の異なった基準をもつ社会を、まるでその社会の成員たちがかれらの基準・規範とわれわれの基準規範のなかから好き勝手に選択し、このような選択をしたあげく、誤った決断をしたかのごとく、判断したくなるのである。われわれは、かれらに対して、現代社会の個々の違反者について、その行動を「不作法」とか「野蛮」と呼ぶときにしばしば経験されるのと同じような「よりすぐれている」という感情、つまり道徳的優越感を味わい、このようなやり方でわれわれの道徳的優越感を表明するのである。

ノルベルト・エリアス「社会学的問題としてのスポーツの発生」『スポーツと文明化』193-194ページ

この部分は非常にわかりやすい。クーベルタンのオリンピズムは恣意的に近代的価値観を古代ギリシアに投影してしまっているが、それと同じようなやり方で、現代の人々は古代の人々の「悪業」を断罪してしまう。だが、もし現代に生きる私たちが「道徳的」であるとするなら、それは過去の人々の営為によって成り立っているものである。

たとえば、アイザック・ニュートンの言葉にこんなものがある。

私がかなたを見渡せたのだとしたら、それは巨人の肩の上に乗っていたからです。(If I have seen further it is by standing on yᵉ sholders of Giants.

この言葉は科学者のあいだではよく知られているものだが、科学技術だけでなく人間の文化(習慣や慣習)や、良心の形成に関しても、同じことが言えるだろう。

「ルッキズム」の男女差を考えてみる

さて、古代ギリシアと現代で大きく違うのは、「美」という観点についてである。

ギリシャの彫刻がその古代の型から新種として発生したこと、および古典時代の彫刻のあの理想主義的リアリズムは、個人の肉体的外見が、ギリシャの都市国家の支配的エリートの間でその人が受けている社会的敬意の決定要因として果たした役割を理解しなければ、相変わらず不可解である。ギリシャ社会では体が弱く、肉体的に欠陥のあるひとが大きな社会的、政治的権力を有する地位についたり、あるいはそれを維持することはほぼ不可能であった。肉体的力、肉体的美しさ、均整、忍耐力はギリシャ社会では男性の社会的地位の決定要因として、現代社会におけるよりもはるかに大きな役割を果たした。肉体的にハンディのある人が指導的立場、あるいは大きな社会的力や高い地位を獲得した、維持したりすることができるようになったのは、社会的発展における比較的、最近の現象であるということをわれわれは常に認識しているとは限らない。

ノルベルト・エリアス「社会学的問題としてのスポーツの発生」『スポーツと文明化』204ページ

この話は、ギリシア(・ローマ)彫刻をイメージすればわかりやすくなる。有名なのは、ラオコーン像だろう。

Photo by Marie-Lan Nguyen (2009)

この彫刻は1506年にローマ皇帝ネロの大宮殿ドムス・アウレアの近くから出土し、発掘に立ち会っていたのがルネサンス期を代表する芸術家、ミケランジェロだった。

ミケランジェロはこの彫刻の肉体美に強く惹かれ、有名なダビデ像を制作した。

Photo by Livioandronico2013CC BY 4.0

これらの肉体美は、現代アメリカのアーノルド・シュワルツェネッガーやシルヴェスター・スタローンのようなムキムキマッチョではなく、どちらかといえば均整の取れた美というべきもので、これがギリシア彫刻における男性の身体の理想型であった。エリアスが指摘しているのは、古代ギリシアにおいて男性はこうした美を備えていなければ、社会で指導的地位に立つことはできなかった、ということである。

しかし、現代はかなり様相が異なっている。

現代社会では、肉体的外見は個人の社会的なイメージの決定要因として、女性に関する限りでは、非常に大きな役割を果たしているが、男性についていうなら、肉体的外見、特に肉体的力と美しさは、テレビがその問題にいくらか影響を及ぼしているようではあるが、個人の公的敬意においてはそれほど大きな役割を果たしてはいない、という事実を指摘することによって、その違いがおそらく伝えられるであろう。現代の最も強力な国家のひとつが選挙によって、半身不随の人間を最も地位の高い職務に就任させたという事実はこの点で典型的である。

ノルベルト・エリアス「社会学的問題としてのスポーツの発生」『スポーツと文明化』204-205ページ

「現代の最も強力な国家の一つが選挙によって、半身不随の人間を最も地位の高い職務に就任させた」というのは、第32代アメリカ合衆国大統領、フランクリン・ルーズヴェルトのことである。ルーズヴェルトは1920年代以降は両足が不自由になり、車椅子生活をしていた。もっともそのことは、あまりアメリカ国民に知らされてはいなかったようなのだが、少なくともマスコミは知っていて、あえてそのことを「欠陥である」として積極的に報道をすることもしなかった。アメリカのマスコミも、半身不随であることと政治的指導力のあいだには関係がない、と判断していたのだろう。たしかに男性において美の問題は、カネや権力というものと現代ではあまり結びついていない。

一方で、「女性に関する限りでは、非常に大きな役割を果たしている」という記述も見逃せないと思う。

先日、「たかやん考:ネットラッパーの揺曳する身体と「病み」の美学、そして「エンパワメント」 – ハイパー春菊サラダボウル」という記事を読んだ。特に目を引いたのが、「昨今流行の地雷系女子はあえて病弱さ、不健康を志向している」という指摘である。

ともあれ、健康的な身体の”否定”を美意識に転換しているのが地雷系なのだといえよう。美を死に照射し、その影を生として受け入れる──このようなロジックはゴシック・カルチャーにも見られるが*13、地雷系がパンデミック以降に流行したことを鑑みても、ある種、比較的カジュアルに、不安に覆われた社会をそのまま環境因子としてビルドインしたスタイルなのだと考えられる。

また、こと若年層のリアリティに即してピンポイントに指摘するならば、現代の過剰なルッキズムに対する忌避反応として、身体への不信が現れているのではないかと筆者は考えている。

(中略)

退廃的な現実認識による生への違和感、あるいはルッキズムに拘束された身体への不信──それが地雷系という「病み」を埋め込んだファッションスタイルに結実している。身体への諦念を反転的に美意識へと向かわせるような力場が、ここに見られるのである。

たかやん考:ネットラッパーの揺曳する身体と「病み」の美学、そして「エンパワメント」 – ハイパー春菊サラダボウル

エリアスの言うように、身体的な美が「女性に関する限りでは、非常に大きな役割を果たしている」のだとすれば、ルッキズムの果たす機能にはジェンダー差が非常に大きい。男性は「美」の圧迫から解放されている一方で、女性は常にその圧迫にさらされている。

現代日本では「男性があまりに美を気にしなさすぎているので、もう少し着飾ろう」という論調が出てきている(たとえば、『僕はメイクしてみることにした』など)。たしかに成人男性が着飾るというとき、単に経済力の誇示のようになってしまっていて、シンプルな美の基準からはむしろ遠ざかってしまっていた。より素朴なかたちで美を捉えなおそうということにはまったく異論はない。

一方で女性の問題は複雑であり、古代ギリシアの美の基準に近いがゆえに、それが非常なプレッシャーになっているなかで、たとえば「カラダを鍛えよう」というメッセージは危うさを孕むものになる。これはなんとなく感じていたことではあったのだが、ネットラッパーたかやんのメタバース的な感性を経由したアプローチのことを考えると、案外メタバースというものは軽んじてはいけないものだなと思う。メタバースというのはまさに地雷系の感性と非常に親和性が高い。身体の圧迫、それをいかにして取り除きつつ、「健康的」ということに到れるのだろうか。

このあたりの話はファシズムの歴史とも絡んでくるが、僕はまだ詳しくないので、後ほど研究しておきたい。

ギリシア哲学における「徳」と文武両道

ギリシア哲学では「美徳(アレテー)」ということがしばしば主題になる。

古代ギリシャ社会でギリシャ人の理想の表現のひとつとして使われた言葉、つまりareteという言葉は、しばし「美徳」と訳されている。ところが、実際、それは「美徳」という言葉が指しているような道徳的特性などにはまったく触れていなかった。それは、とりわけ身体のイメージ、強くて武芸に長じた戦士としての特質が重要な役割を果たしていた戦士や紳士の身分に到達することを指していた。かれらの彫刻や競技大会に表されていたのはまさにこの理想であった。オリンピア競技で優勝した人々のほとんどがかれらの彫像を、オリンピアに、また時々かれらの故郷の町にも建ててもらったのである。

ノルベルト・エリアス「社会学的問題としてのスポーツの発生」『スポーツと文明化』205ページ

おいおい、という感じである。アレテーは、身体のイメージだという。どういうことなのか。

もしわれわれが、今日とりわけその知的業績で名をあげられている人々が、当時、戦士や運動選手の技能に関連して、しばしば名前をあげられていたということに気づけば、われわれは同じような人間像を逆のかたちで見ることになるのである。アイスキュロス、ソクラテス、デモステネスは重装歩兵の戦闘の厳しい訓練を経てきたのである。プラトンは、感心にもいくつかの運動競技の祭典で勝利を収めたのである。かくしてギリシャ彫刻における戦士の理想化、貴族的な戦士の理想的な肉体的外見に従って表現される神々の姿、競技大会の選手の気風などが実際、ただ調和しているだけではなく、同じ社会集団の密接に関連した表示にもなっているのである。

ノルベルト・エリアス「社会学的問題としてのスポーツの発生」『スポーツと文明化』206ページ

かつて司馬遼太郎は『竜馬がゆく』で、桂小五郎、武市半平太、坂本龍馬といった有名な維新志士が、それぞれ江戸の剣術道場で塾頭を務めたということを「奇妙な偶然」と書いた。しかし哲学者の内田樹は以下のように指摘している。

 まさか、これが偶然であるはずがない。

 司馬は、のちに「維新の立役者」になる人々が若年のときにたまたま剣技においても優れた才能を発揮していた、と考えている。

 私はそうは思わない。まさに彼らは剣技の修行を通じて、のちに「維新の立役者」として立つことになる総合的な能力(とりわけ、「どうふるまってよいかわからないときに、どうふるまっていいかわかる」能力)を涵養したのだと私は考えている。

内田樹『修業論』光文社新書、2013年、214ページ

「どうふるまってよいかわからないときに、どうふるまっていいかわかる」能力、というのは、内田樹によれば武道修業の目的であるという。危険察知能力の高さが強さであり、たとえば道端でゴロツキに会ったときにその危険を遠くから感じられるかとか、あるいは近づいたとしてもにこやかに挨拶して瞬時にコミュニケーションを成立させ、ゴロツキの暴力を未然に防ぐとか、そういうことである。

孫子は「戦わずして勝つ」と言い、武道では「逆らわずして勝つ」ということがしばしば言われるが、これは武器を持たない状態でも強くあるという意味である。単純に戦闘を行って勝つということを武道は奨励しているわけではない。「無刀の刀」ともいうべき「生き延びる力」を身に着けるのが武道修業の目的であると内田は言う。

以下、残り少ないですが一旦有料に切り替えます。有料マガジンの考え方については、こちらの記事(全文無料)に詳しく書きました。基本的には「中野がなんかがんばってるみたいだから激安居酒屋でビール一杯おごってやるか」というイメージで課金していただければ、大変幸いです。ちなみにここから下は奇妙な例えの話をしています。

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