『GODZILLA 怪獣惑星』に悪しきイキリオタク的なものを見てしまった件

カルチャー

現在公開中のアニメ映画『GODZILLA 怪獣惑星(略称アニゴジ)』を観てきた。

この『アニゴジ』は、『魔法少女まどか☆マギカ』や『Fate/Zero』などで著名な虚淵玄の脚本によるもので、Netflix等のバックアップを受けて世界展開も見据えているらしい。去年の『シン・ゴジラ』のヒットの後押しもあって、話題性の高い作品になっている(ただし『アニゴジ』は『シン・ゴジラ』とリンクしているわけではない)。

アニメーション映画『GODZILLA 怪獣惑星』OFFICIAL SITE

で、結論からいえばそこそこ面白いと思った。しかし、この人のブログ(GODZILLA 怪獣惑星』に対する正直な感想ジゴワットレポート)でも書かれているように、何か揺さぶられるものがないのも確かだ。

以下はネタバレあり感想を書いていきます。

『進撃の巨人』要素に感じるヤバさ

まずプロットは『宇宙戦艦ヤマト』と『進撃の巨人』の要素を強く感じさせるものだった。ゴジラをはじめとした怪獣の大量出現により甚大な被害を受けた人類は、同時期に現れたヒトタイプの異星人たちとともに移民船に乗り込み地球から離脱する。しかし、移住先の惑星がなかなか見つからずに時間ばかりが経過してしまったため、船内時間で20年ぶり(地球時間で2万年が経過している)に地球に帰還することを決断。ゴジラたちの楽園となった地球を取り戻すために、大気圏内に降り立ち、対ゴジラ復讐戦を開始する――これは本当に『宇宙戦艦ヤマト』と『進撃の巨人』という感じである。

ちなみに『ヤマト』『進撃』の両者に共通しているのは、言ってしまえば右翼要素である。『ヤマト』は言うまでもなく第二次大戦時に日本海軍が誇った「戦艦大和」を復活させ、そして主人公たちを連合国側に置いてナチス・ドイツ的な枢軸国と対決させるという「日本がこうだったらよかったのにな」という戦後日本の人々の願望に対応した作品だった。

で、問題は『進撃』がなんで右翼的作品なの?ということになると思うのだが、ハッキリ言えば敵を交渉不可能な本質的な悪として捉え、「奪われた民族の誇りを取り戻す戦い」というようなイデオロギー闘争の側面を強く打ち出しているからだ。言うまでもなく戦争というのは「民族の誇り」なんてものを動機に始められるものではなく、基本的には経済的動機に裏打ちされて始められるものだし、またそういった経済的な利害調整は「いきなり戦闘」ではなく基本的には外交によって行われる。戦闘行為は最後の手段である。崇高な大義ないしイデオロギーがあったとしても、それは経済的動機によって動く支配者たちによって、民衆から兵力を動員するために作り出されたものであるというのは近代史を見れば明らかなことである。

で、『進撃』は非常に面白い作品ではあるが、そういった意味での「戦い」というもののリアリズムが皆無に近い。「戦い」というものを非常にバーチャルというかイマジナリーなものとして捉えてしまっているという点で危うさを孕んでいる作品だと思う。だからこそ面白い、とは言えるかもしれないが。

要は、ここでいう右翼要素というのは、経済的な利害に裏打ちされたものではなく、ある種の純粋なイデオロギーに殉じること自体を「美しいもの」として捉える態度のことを指している。「大義のためには暗殺も辞さない」「(世界情勢の現実的認識はまったく頭になく、外国人を交渉不可能な悪魔として捉えて)外人は追い出すべき」という、思想だけが先行している維新志士みたいなものだ(念のため付け加えておくと、維新志士だって別にそんなやつばかりではないが、多数派は頭の固い思想先行型だったのではないかと思う)。

で、今回の『アニゴジ』を見ていて思ったのが、そういった『進撃』的なイマジナリーかつ危うい感覚ばかりが先鋭化され、『シン・ゴジラ』で描かれたリアルポリティクス的な側面が後退しているということだった。

現代日本のポップカルチャーの作劇で言うと、以前はたとえば『るろうに剣心』の剣心であったり、『銀魂』の銀さんであったり、『ジョジョ』の東方仗助やジョルノ・ジョバァーナのような、〈死〉ではなく〈生〉の価値を守ろうとする「甘い」主人公が好まれていたが、2010年代前後になってから『進撃』のように、憎しみを内面化し躊躇なく戦闘行為に及ぶ「維新志士」的な主人公が好まれるという流れもあり、その意味では『アニゴジ』の主人公ハルオもきわめて現代的な人物造形であると感じた。

イキリオタク的なるものの是非

また、『アニゴジ』は世界市場を見据えて、たとえば『シン・ゴジラ』のように日本社会に対するリテラシーがないとなかなか感情移入が難しいような作劇を避け、日本的要素を排そうとする意識が非常に感じられた。

象徴的なのはキャラクターの描き方だ。『シン・ゴジラ』は主人公の矢口蘭堂よりも、尾頭ヒロミ(市川実日子)やカヨコ・アン・パタースン(石原さとみ)などの周囲のキャラクターの濃さと有能さが非常に際立っていたが、『アニゴジ』はそこがかなり薄い。特に主要女性キャラが、ユウコ・タニ(CV花澤香菜)のみであり、主人公をパイセンとして尊敬する後輩という位置付けで主体性が感じられないので、まったく印象に残らない。はっきり言えば萌え要素が皆無であった。

また、すでに書いたが主人公のキャラクター要素もかなりつらい。要するに「鬼畜米英」を掲げる旧日本軍的メンタリティのイキリオタクになってしまっている。ただし、僕はイキリオタクだからといって悪いとは思わない。たとえば『ソードアート・オンライン(SAO)』のキリトも「イキリオタク」的なキャラクターだと思うが、キリトのイキリに対しては「あーハイハイw」とツッコミを入れながら観つつも、うっかり「イキリト、かっけーじゃねーか……」と思ってしまう、その往復運動自体に、作品の快楽の本質的な部分があったりする。

しかし『アニゴジ』の主人公ハルオには「あーハイハイw」というようなツッコミを許さない切実さが生まれてしまっている。象徴的なのがハルオが司令官に就任して演説するシーンで、空気的にツッコミは許されない感じになっている。

要は『アニゴジ』がキャラクター描写を捨てているのは、世界展開のためだと思うのだが、『SAO』のように日本的キャラクター描写をふんだんに使いながらも世界中で視聴されている作品もあるのだから、この判断が良かったのかどうかいまいちよくわからない。

基本的にダメ出しばかりだが、いいところも挙げてみたい。

まず、設定のセットアップが速い。なかなか複雑な設定で詰め込みすぎのようにも感じたが、ここをダラダラやらずにサクっと進めてしまうというのは、昨今の説明過剰なものと比べて好印象だった。また、ホバーバイク隊の空中飛行描写は、CGアニメのなせる技なのか、『ダンケルク』の戦闘機パートなどと比べても映像的快楽はかなり高いように感じた。

あと、続編でメカゴジラが出てくるようで、次作のタイトルも「決戦機動増殖都市」と決まっており、そのあたりの期待度はまだある。

それと、エンディングテーマのXAI「WHITE OUT」はブンブンサテライツ中野雅之の手によるもので、こういったビッグ・ビート的な音楽はSF映画にはよく合うと思う。ここは世界展開という意味では外国の視聴者を狙っていてちゃんとハマっているように思われる。

今年公開の『キングコング 髑髏島の巨神』もオススメです

で、最後にまとめると、『アニゴジ』はキャラ描写がおざなりすぎてつらい。花澤香菜キャラはしょうがないとして、最後に出てきた小澤亜李キャラも果たして大丈夫なのか。好きなキャラが今んとこ一人もいないのが本当につらい。続編はそこそこ楽しみではあるが、「好きなキャラがいない」というのは劇場に足を運ぶモチベーションにかなり影響してしまう。

基本的に今回の『アニゴジ』は現時点では、設定に独自性が全然なく、ワクワクしない。惑星移住ものだったら『プロメテウス』『エイリアン:コヴェナント』の2作のほうが100倍くらい面白いからこっちの方を見て欲しい(これについては以前書いたからリンクを貼っておきます)。

『プロメテウス』『エイリアン:コヴェナント』リドリー・スコット監督の新エイリアンシリーズが意外と面白い件 | にどね研究所 

あと、怪獣映画なら今年公開してた『キングコング 髑髏島の巨神』は本当にオススメ。僕は別に洋モノであればなんでもいいとはまったく思わないが、一つの映画として観たときに残念ながら出来が全然違う。「今さらキングコングとか……w」と言われそうだが、騙されたと思って観るとあらゆる意味で裏切られるはず。『シン・ゴジラ』と同様、今後の怪獣映画リブートの基準作になると思う。

で、この『キングコング 髑髏島の巨神』は、褒めレビューでも「単純でわかりやすい」とかそういうものが散見されるが、ちゃんと「アメリカの正義」に対しての批評的観点もある。わかりやすさとテーマ性がバランスよく噛み合っている作品だと思う。

キングコング:髑髏島の巨神(吹替版)

という感じで、最後に『キングコング 髑髏島の巨神』を推しておいて、今回は以上です。(了)

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