最近、Webメディアで「こういうウザい人はこうやって撃退しましょう」というようなノウハウ記事をよく見かけるようになった。
以前はそれほど、そういうタイプの記事が多くなかった気がするのだが、今はそれぐらい、みんなが人間関係に悩みを抱えているということなのだろうか。
個人的に、そういう「人間関係ノウハウ」系の記事を読んでも「そうか! こういうウザい人にはこう対応すればいいんだ!」みたいなことは全然思わない(というか、そういう人間関係ノウハウものは基本、信じていない)ので、そういった記事が氾濫している今の状況じたいに何だかイヤな気持ちを抱いてしまう。そのことについて書いてみたい。
「合わない人とは距離を取りましょう」
そういう人間関係ノウハウ系記事に、決まって書かれているのが「合わない人とは距離を取りましょう」ということである。
ざっくりと記憶を頼りに社会学的な整理を参照すると、こんな感じである。
以前は家族・学校・地域・職場などのコミュニティに所属するさいには選択可能性が少なく、合わない場所にいたら逃げ場がなかった。しかし現代に向かうにつれてそういった地縁血縁に縛られずに済むようになり、個人が自由にコミュニティを選べるようになった。
選択可能性が増大したことは個人に自由をもたらしたが、その選択そのものに責任が伴ってくる。自分に合わないコミュニティを選んでしまったら、その「間違った選択」をしたことに対して砂粒となった個人が責任をとらなければならず、人々は結果的に孤独を抱えるようになっている。
こういう議論を展開していた社会学者は、たぶんリースマンとかベックあたりだと思う。ベックの言う「Individualization(個人化)」というやつである。
まあ難しい理論はさておき、「合わない人とは距離を取りましょう」というのはなんとなく正しいアドバイスな気がするので、多くの人にそれが支持されているのだと思う。
共同性と目的性
以前、社会学者の大澤真幸が(また社会学かという感じだが)、古市憲寿さんの処女作でピースボートに乗り込む若者たちの生態を描いた『希望難民ご一行様』(光文社新書)に寄せた書評で、こんなことを言っていた。
ちなみに元の記事は残っていないので、僕が記憶を頼りにめちゃくちゃ乱暴に要約していることをあらかじめ断っておく。
古市くんは、「ピースボートに乗船する人たちは、船に乗っているあいだは平和だ憲法9条だと言っているけど、下船したら単に仲間同士で集まってリア充していて、当初の目的が冷却されている」と言っているけど、そうではなくて「平和」「憲法9条」とかそういう大義、お題目が大事なのだ。
古市くんは「共同性が目的性を冷却させる」と言っているけれど、それは逆だ。大半の人間は結局、目的なんて求めてなくて、単にリア充したいだけ。でも「みんな仲良し」みたいな共同性をまっすぐに追求してしまうと、結局その共同性も弱いものになってしまう。
そうではなく、大義=目的性を(それが実効性をもたないとしても)追求しておくほうが、結果的に共同性が最大化されるんだ。
これを僕は学生のときに読んだのだが、
「そうか、そうだったのか〜〜〜〜〜!!!!!」
とめちゃくちゃ膝を打った。
目的性の最大化された集団
というのも、僕がそれまでやってきた「野球部」というコミュニティがまさにそうだったのだ。
僕は高校生のとき、同学年のエース君と、帰る方向が一緒だったので、部活が終わったら毎日いっしょに帰っていた。でも、お互いにあんまり好きではなかった。いわゆる「合わない人」だったのだ。
高校を卒業しても、ほとんど連絡は取らないし飲んだりもしなかった。たまに後輩たちの試合を観に行くときに出くわすことはあったが。
それがちょっと前に、同学年の他のヤツが「うちの学年だけ全然同窓会を開かないのはイヤだ! 飲もうよ!」と言い出し、卒業して10数年経ってはじめて同期会が開かれた。
……で、そのときはすごく盛り上がったし、数年ぶりにエース君と会って、お互い同じWeb業界で仕事をしているということもあって、とても楽しい飲み会であった。
何となく感じていたことではある。今あいつと会ったらけっこう盛り上がるだろうな、と。お互い大人になったわけだし、当時は許せなかったことでもニヤニヤしながら「ぶっちゃけ、あのときこうだったよな」みたいな話ができる。
それもこれも、「高校野球部」という、まさに勝利至上主義、目的性が最大であった集団で時間をともにしていたからなのだと思う。
家族・友人と、仕事・会社
まあ要は、「合わない人とは距離を取りましょう」というのは、すごく浅い人間観がベースになったTipsだなと思うわけである。
高校野球なんかは完全にそうだが、おそらく仕事も一緒なのではないかと思う。仕事や会社は、親睦を深めてリア充することが主ではない。売上を、利益を上げるということを強烈な目的性として掲げている集団である。
そういう場所では、「この人とは合わないな」と思う人とも、目的をともにして一緒に、いい仕事ができたりするときがある。
「合わない人とは距離を取りましょう」は、家族や友人などのヨコのつながりの場では正論だと思う。しかし、仕事や会社のようなタテの目的性を主眼にした場所では、そういったつながりとは違うかたちで、人とつながりを作っていける。それが、仕事や会社というものの醍醐味なのではないかと思うのだ。
「自分が選別する側である」?
もう一点、「合わない人とは距離を取りましょう」という言い方に感じる違和感がある。
そこには「自分の方が選択権を持って人を選別している」とでも言いたげなニュアンスが含まれている。
LINEをブロックするかのように、人間関係を切る。もちろんそれも、現代ならではの便利さではある。でも、「合わない」と思った人とも、どこかで、何かのきっかけで、もしくは何年かあとにいい関係が築けたりすることもあると思うのだ。
そういった可能性を積極的に切っていく――「他人は簡単にブロックできる」みたいな感覚が社会全体に広まってしまっているのであれば、それはなかなか共同体としては不幸な状態なのではないかと思う。
僕個人は、「この人とは合わない」みたいなことは言わないし思わないようにしよう、ということを思っている(もちろんプライベートな人間関係は別だ)。
「自分は他人を選別できる」みたいなことをいちいち考えているのは傲慢なように思えるし、長期的に自分に得をもたらさないと思うからである。
まとめ的な何か
投げっぱなしにしてしまうが、みなさんはどう思いますか。ということを問うてみたくて、さっとこの記事を書きました。所要時間30分。けっこうかかった。さて、毎日の執筆に戻れるのだろうか。
何かしらコンテンツに触れてないと心が現実で濁っていくなと思った。虚構(=エンターテイメントとか宗教とか、何かしら人間の感性に触れるもの)って、あってもなくてもいいものだ、だから素晴らしいんだと思ってたけど、実は人間にとってなくてはならないものなのかもしれない。
— 中野 慧 (ケイ) (@yutorination) July 5, 2019
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