初日の出暴走とクリエイティビティ

雑記

正月3が日の今日、こんなニュースを見かけた。

正月のバイク集団走行 一斉取り締まり 茨城・大洗町(テレビ朝日系(ANN)) – Yahoo!ニュース

20年くらい前には「初日の出暴走」と言われたやつで、いまは茨城の大洗のあたりがメッカになっているらしい。メディア上でもヤフコメでも批判的な論調が多い。

ただ、少し思考実験的に、別の角度からの見方を提示してみたい。

まず、茨城・大洗という場所でこれが行われる意味だが、東京のように消費社会化されていない場所で人間はクリエイティブになれる、自分たちで楽しいことを作り出す、ということではないか。娯楽が簡単に手に入らない、だから自分たちで工夫して盛り上がる、それは創造性の発露であると捉えることもできる。

地方や消費社会化されていない場所では、商業化された選択肢が少ないため、人々は自分たちで楽しみや活動を「作り出す」必要がある。この過程が、結果として独自の文化やクリエイティブなアイデアを生む土壌になっているかもしれない。初日の出暴走は、地方の持つポテンシャルや、そこから生まれる新しい形のクリエイティブな活動という視点でも捉えられるべきである。

考えてみると奇妙なのが、同じように周辺住民から騒音への苦情が寄せられるスケートボードなどは、行政がパークを作ってそちらの利用を促す施策がとられているのである。

「初日の出暴走」という現象は、ある意味で暴走好きの者たちが持つエネルギーの発露であり、文化的な一面もある。ただし、これが騒音や安全面の問題を引き起こし、周囲の人々に迷惑をかけることは無視できない。

そこでスケートボードと同様に、行政が「初日の出暴走可能エリア」を指定するという施策も考えられる。指定されたエリアで行うことで、交通事故や危険行為を減らすことが可能となり、周辺住民が迷惑を被らないよう、適切に場所を選定することで、両者の調和を図ることができる。

初日の出暴走をパフォーマンス大会にすることも考えられる。宇梶剛士、綾小路翔、YOSHIKIなどが審査員となる。ルールはひとつ、「死なないこと」。この単純なルールをもとに、暴走する者たちの自治が生まれていく可能性もある。

無理に禁止するのではなく、文化的活動として「初日の出暴走」を尊重することで、新たな創造性や地域の活気が生まれる可能性もある。都市化や規制の中で失われがちな創造性や文化の育成を図りつつ、調和的な社会を目指す姿勢も必要なのではないだろうか。

しかしまあ、こういうしょーもないこと(しょーもないこと?)を書くのをすっかりやめてしまったなと思う。

自慢ではないが昔、このブログはけっこうアクセスがあった。万バズも何回か起きた。しかも、ある程度狙っていたものだった。だけど、別にブログは儲かるわけでもないし、何か楽しいことが起きるわけでもない。外に向けて頑張って書いても誤解されることは多いし、特に経済的メリットがないのであればやる意味がない。

むしろ今思うのは、「誰かに理解されたい」と思うよりも、より内面的なつぶやきのようなものでも良いのかもしれない。

ブログの書き方というのはある時期から変わった。「こんにちは! ⚪︎⚪︎です。」という挨拶からはじまって、「いかがでしたか?」で締める。この形式は誰でも書きやすい反面、「誰かに伝えなきゃ」という使命感が生まれて書きにくくなるのだ。

また、内面的なつぶやきを書いていると、理解してくれる人もいる一方で、読解力のない人は「この人、友達いないんだな」などと読むのである。これはおそらく、ネットという公開の場=「盛る」もの、というInstagram的理解からそうなるのだと思う。自分の感覚からすれば、仮に自分が人間関係に恵まれていたりしてハッピーだったとしてもわざわざそこを発信する必要がない。幸せであることは素晴らしいことだが、そのかたちはパターン化されていてそこまで面白みがないと感じる。

また、ブログはまとめないといけないという縛りも感じるようになった。でもまとめなくていいのだ。ということで、この投稿はここで唐突に終わります。

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