数日前、こんなツイートがTwitterで流れていた。
政治=politicsという言葉には、策略、駆け引き、政略という意味もある。「政治」は国政や市区町村の政治家だけのものではなくて、社内政治などもあるし、人間関係なども政治である。私たちの生活は、実は「政治」であふれている。
ところが、「政治については日常会話で話さない」という“政治的なものを忌避する政治性”を持って生きている人が圧倒的なマジョリティなのであって、その人たちにとって日常生活で(大文字の)政治ネタをぶっこまれるのは単に不快な経験であるらしい。
引用したツイートに書かれている内容はそのとおりだと思うのだが、自分自身について言うと、友人や家族と国政について日常会話で話すのはごく当たり前。だけど、それはかなりマイノリティでもあるのだと、改めて思う。そこで、“政治的なものを忌避する政治性”について、今までの自分の政治関連の仕事の振り返りなどもしつつ書いてみたいと思う。
「政治について日常生活でよく話す」ということ
僕は一橋大学社会学部の出身なのだが、3・4年生のときに護憲派で著名な渡辺治先生の政治学ゼミに所属していた。同学年のメンバーは10人ちょっといて男女は半々、今でもときどき飲んだり、ゼミOB・OG会を企画したりしている。飲み会がおこなわれるときは、基本的に政治、宗教、野球の話をしている。
……というとヤバい人たちの集団のようだが、みな普通に企業社会に溶け込んで、結婚していたり子どもがいたり、ごく普通に生活している人たちだ。だけど学部ゼミの経験から、政治ネタを日常会話でよくするようになった。先生も「日常生活で政治の話をふつうにできる市民がいることによって、市民社会はより成熟していく」みたいなことを考えていたと思うので、ある意味で狙い通りなのではないかと思う。
たとえば僕はこういうことをツイートする。
こういう話は半分ジョーク、半分は本当にそう思っている。諷刺とかブラックユーモアは日常を豊かにすると思っているから、ネットよりも日常生活で、こういうことはしょっちゅう言っているのである。
ちなみに補足しておくと、「小室圭さんが好き」って過激なのかな? とは思う。だって……女性週刊誌を中心とした「日本的世間」に敢然と立ち向かい、愛するプリンセスを皇室という悪い場所から救い出すために「海外に拠点をつくる」にチャレンジし、何度も司法試験に落ちて日本メディアにいじり倒されても不屈の闘志で合格を勝ち取った男って、めちゃくちゃカッコよくないですか?
ついでに言えば、NBAの日本での試合開催に際してこんなツイートもしている。
この日は、安倍晋三国葬の日のちょっと後である。写真を見るとなんかスポーツのイベントっぽいということだって、すぐわかるはずだ。
ちょうどその時期は「国葬に若者たちの行列ができてたか、できてなかったか」で論争になっていた時期だったので、NBAの試合前にさいたまスーパーアリーナに集まる若者の行列を見て、別の角度から脱臼させられるようなものがあったら面白いな〜と思った次第である。なお、安倍晋三の祖父・岸信介の「国会周辺は騒がしいが、銀座や後楽園球場はいつも通りだ。私には声なき声が聞こえる」という発言(参考:「声なき声」はどんな声?|【西日本新聞me】)へのオマージュでもある。
LIGにいたときは「LIG野球部でアベノマスクを購入しました。」という記事も書いた。これは社員ブログでもあるのだが、アベノマスクが問題になっていたときで、そこに「巨人・阿部慎之助モデルのキャッチャーマスクを買った」という話をかぶせているのである。
こういうものを「笑えない」という人もいるのかもしれないが、それは僕のパーソナリティをよく知らないから、どういうジョークが好きなのかも知らん、というだけだと思う。Twitterはよく知らん人でもフォローできてしまったりツイートが見れてしまったりするから、それはしょうがないのかなと思う。なのでこうやって自己紹介ブログを書くことにしました。
『ナショナリズムの現在』について
編集・ライターとして、政治関係の書籍や記事の制作はこれまでけっこうやっていて、2014年には、小林よしのり氏を迎えたトークイベントの書籍化のライティングをやったこともある。もっともこれは小林氏だけでなく、宇野さん、與那覇潤さん、萱野稔人さん、朴順梨さんも出ているので、保守派オンリーの内容ではない。
僕は子どもの頃から今に至るまで小林よしのりの大ファンであり、だけど自分が大学で習った渡辺治先生は、左派陣営のなかでも特にラディカルな論客として知られている人だ。一応、両翼は見ているつもりである。
多くの左派論客や「文化系」の人々は、小林よしのりを小馬鹿にする。それは左派のあいだでは「小林よしのりは馬鹿にしておくべき」という同調圧力があるからであって、ほとんどの人はきちんと読んでいない。さらに深層心理を言えば、左派論客に多い大学教員というのは折り目正しいエリートなので、大衆の支持を背負っている小林よしのりは潜在的な恐怖の対象なのだろう。だから、きちんと読むことはせずに、「どうせ小林よしのりでしょ」と小馬鹿にする、という方法でやり過ごしている。そこには「漫画家」に対する職業差別的な偏見も含まれている。
ところが渡辺先生は、小林よしのりの本を『戦争論』をはじめ付箋だらけにして真剣に読解していた。多くの左派論客のように、自分たちのサークルの同調圧力に阿(おもね)って「小林よしのりをとりあえず小馬鹿にする」のではなく、正面から向き合って反駁していたのだ。知識人かくあるべしという姿だったと思う。
『現役官僚の滞英日記』について
2016年に出版された、現役の国家公務員である橘宏樹さんの著書『現役官僚の滞英日記』は、PLANETSのメルマガ連載時から編集を担当してきた。この本は公務員というフラットを求められる人なりの視点で、ブレグジット現象を中心に、イギリスの文化・政治・社会を日本と照らし合わせながら考える、という本だった。
この本は読んだ人からは非常に評価の高い本になった。連載時は毎月4時間〜5時間ぐらい打ち合わせしていて、大半の時間は雑談をしていたが、それなりに意味があった時間だったと思う。対話のなかで、橘さんの思考がよりソリッドになるということはあったようだ。
橘さんの官僚としての倫理は、僕なりにいえば「プラットフォームであろうとする」なのだと思う。『ナショナリズムの現在』は左右のイデオロギー対立の話がメインだったが、『現役官僚の滞英日記』のように、プラットフォーム的に政治を考えることだって可能なのだ。
永井陽右さんの『共感という病』について
2021年には、NPO法人アクセプト・インターナショナル代表で、紛争解決活動家の永井陽右さんの著書も企画や構成などのサポートをした。この本はSNSという「共感」ばかりが求められる場所で、思想的な対立(いわゆる左右のイデオロギーにかぎらない、フェミニズムや表現規制の問題なども含む)が激化する状況を前にして、どのようにすれば「紛争調停」が可能なのかを考えた本だ。発売後1年経っても売れているようである。
Amazonのレビューでは、僕が担当した内田樹さん、そして石川優実さんとの対談パートの内容を褒めてもらっていることも多い。内容を濃く、しかし親しみやすいように心がけているので、メインとなる永井さん自身の論考の内容を読む際のガイドにもなるはずだ。
ターザンでの「体育」をめぐる中澤篤史さんへの連続インタビュー企画
このあいだはターザンで、「体育」を問い直す連続インタビュー企画を出した。取材したのは、早稲田大学スポーツ科学学術院の中澤篤史先生。
実はこの企画も、「体育の政治性」について考える、というものだ。学校体育という、おそらく誰もが経験したものであっても、政治性というのは日常に深く染み込んでおり、それによって私たちの「身体」「スポーツ」への向き合い方は強く影響を受けている。
『この世界の片隅に』に見る“政治的なものを忌避する政治性”
2016年にヒットした『この世界の片隅に』というアニメ映画がある。宇野さんも指摘していたように、この作品は反戦映画の様相を纏っていなかがら、政治的なものに「見ないふりをする」を徹底する生活保守主義が、きわめて政治的に=イデオロギー的に描かれている。劇中で主人公のすずは一度だけ、政治に対して激怒するが、それは「見ないふり」を徹底するというイデオロギーに覆い隠されてきた怒りでもあったのだろう。だから、その怒りのシーンは劇中で明らかに「浮いて」いる。
この映画は戦前のことを描いているようで、戦後日本の、政治的なものに「見ないふり」をする、“政治的なものを忌避する政治性”を言祝ぐようなものとして機能している。その意味では、非常に深く政治的欺瞞性が埋め込まれている作品なのだ。
「座りっぱなしの娯楽」の問題
Twitterはかつて「動員の革命」と言われていたが、それが今は政治的なアリーナとなっている。そのことには賛否があるだろうが、「“政治的なものを忌避する政治性”を内面化したままでいること」のどうしようもなさは、もはや前提となってきているように思う。
僕はもともとカルチャー誌の仕事をしてきたが、文学と政治を完全に分離しようとする(大半のカルチャー誌の)方向性には強い違和感を持っていた。文学と政治は実際にはかなり混ざり合っている。避けて通ることは本来はできないものなのだ。
自分個人としてはカルチャーに関心があるということは変わりがないが、政治性をなかったことにする欺瞞性は本当に深刻になってきていると思う。だから日本野球を文化系視点で考える連載「文化系のための野球入門」では、なるべく慎重に、政治的なトピックについて言及するようにはしている。
個人的には、カルチャーやコンテンツを楽しむのもいいが、読書やアニメ鑑賞やドラマ鑑賞にばかり耽溺していると、単純に「座りっぱなし」「寝たきり」になるので、心身が不健康になっていくように思う。ところがメディアは「もっと読書しよう」「もっと映画を見よう」「ドラマを見よう」と煽ってくる。その欺瞞性に、今はより耐えがたさを感じるようになっている。資本主義、消費文化の病を直視しないことの欺瞞性である。
「座りっぱなしの娯楽」。これを奨励するということの害悪性、あるいは政治性というものも、あるのではないか。昨今話題の倍速視聴やファスト教養なども、究極的には「座りっぱなしの娯楽」を奨励しているところに起因しているところがある。むしろそういった「心身の健康を軽視し、消費だけさせようとする」メディアの政治性=イデオロギー性をどうみるのか、そういうものの存在に「見ないふり」をし続けることによる欺瞞性の拡大を、(多少なりとも)抑えておかないといけないのではないか、と思う。
(広義の)政治学の入門本
ちなみに、政治学の入門本というのはいろいろあるが、本屋やAmazonにある「政治学入門」という本は、人間関係の政治やメディアの問題などが視野に入っていないので、より広い意味での政治(politics)を考える上ではあまり適していない。
僕がおすすめしたいのは、『「ニート」って言うな!』という本の第2部、内藤朝雄氏による「「構造」――社会の憎悪のメカニズム」だけでも読むことだ。この本はKindle Unlimitedに入っているので、比較的かんたんに読めると思う。この本は2006年出版と少し古く、1部、3部は時事的な話題が多いので今はそれほど読む必要がないかもしれないが、2部の内容は普遍性がある。
また「教育」というのは多くの人が経験しているもので、そこにいかに政治性が宿るのかという意味では、苅谷剛彦氏の『学校って何だろう―教育の社会学入門』という本が文庫になっていて、手軽に手に取れるのでおすすめである。
もうひとつ、人間関係の政治という意味では、内藤朝雄氏の『いじめの構造-なぜ人が怪物になるのか』も名著である。これは「いじめる側」の問題について迫ったものだ。これも新書なので手に入りやすい。ただ、ボリュームが少ないわりになかなか難しい本ではある。
そしてもうひとつ。すごく重要なのが、『失敗の本質 日本軍の組織論的研究』である。これは軍事的な本というよりも、野中郁次郎先生など一流の組織論研究者が、日本の官僚的組織の典型としての「日本軍」の失敗を解明しようとしたものだ。
いまは文字通りの官庁だけでなく、大小問わず企業体の多くが官僚的組織になっている。そして日本で生まれる官僚的組織は意識していないと否応なく「日本軍」的な組織になっていってしまう。そうならないために、この本は有用な視点を提供してくれる。
基本的には二章の「失敗の本質――戦略・組織における日本軍の失敗の分析」だけを読んでおけばよいと思う。詳しくは下記のLIGブログで解説しているので参照してください。
このあたりを読んでおくと、「日常生活のなかに深く入り込んでいる政治性を捉える」ということが可能になっていくように思う。
(了)
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