自己否定の声が聞こえてくるときがある。
たとえば、難易度がそれほど高くないであろうAというタスクと、明らかにそれよりも難易度が高いであろうBという課題があるとする。
そこでAがうまく遂行できなかったときに、自分の内から「お前はAができないのに、Bなんてできるはずないだろう」という声が聞こえてくるのである。
どうしてこうなるのかというと、普段自分が、そのように意地悪く他人を見がちだからなのかもしれない。いや、正確には、他人に対してそのような意地の悪い見方をしたところでポジティブなことは何ひとつないということは経験的に学んでいるから、意識して他者にはそのように接さず、「Aができないときもあるけれど、それでもBができることだってあるよ」「Aができないからといって、必ずBができないなんて、そんな因果関係はないよ」と、勇気づけるコミュニケーションを行っていると思う。
過去の余りに多くの失敗から、どのように声をかけたら、その人が前向きに物事に取り組んでいけるかが、ざっくりとではあるがつかめてきている気はする。僕の場合は、相手の特性を、自分が持っているさまざまな情報を総合してみきわめ、その上で自分にできる適切な行動を取ろうというふうに心がけている。
ところが自分に対してはそういうコーチングがなかなかできていないし、自分の普段接する人のなかで、そういった適切なコーチングを自分に対してしてくれるメンター的な人もほとんどいない。自分自身が求めていないからなのだろうと思う。
今までの時間のどこかでそういう決断をしたような気がする。親の影響も大きい。うちの親は必ずしもコーチとして優れているわけではない。個人主義者であり、ベースとして技術者・アーティストとして優れた人たちだが、コーチングを実地ではそこまで修練していない。それゆえ、しばしば頓珍漢な声がけをしてくるときがあり、そういうときは全力スルーするようにしている。親も、聖人ではなく自分と同じ不完全な人間である。部分的なアイデアを人に求めることはあったが、OS的な部分では結局セルフコーチングしかないのかなと思う。
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前に勤めていた会社で、社長とかなりコミュニケーションをとっていた時期がある。尊敬できない部分もあれば、尊敬できる部分もある人だった。自分のなかで参考にしているのは、彼が言っていた「何か問題が起こったときは、まず自分が悪いと考える」ということだった。資本主義社会に適合した、すごく自己責任主義的な考え方で、それはつらいのではと思ったものだが、意外とこれは必要なことだとも感じた。「他人を変えようと努力するよりも、まず自分が変わる。そっちのほうが自分でできる部分が大きいから」ということも言っていた。この考え方も、きつくはあるが、ある側面から見れば健康的な考え方だとも思う。
「他人にこういうふうに変わってほしい」と思って、ややダイレクトな行動に出、それで他人が変わったときは、何か気持ち悪いなと感じる。自分は変わらずに相手を変えることができているというのは、順番として少し変だ。まず自分が変わる。それで相手に少し変化があることもある「かもしれない」。そういうときには、自分の関与を重く受け止めるのではなく、「ありがたいことだ」と相手に心の中で感謝をする。心の中で感謝をするというのは、宗教的なニュアンスのように感じられてしまうが、案外重要だ。
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コーチングは自他の関係だから少し話が別だが、おそらく今の僕に必要なのは、「お前はAができないのに、Bなんてできるはずないだろう」という自己否定の内なる声を変えていくことだろうと思う。自分の実体人格からやや遊離した自分のなかの客観的な声=内なる声を、少し変えていく、というような。「きわめて思慮深いけれども、全体的にはポジティブ」みたいなコーチを、自分専用のものとして、自分のなかで育てていく営みが必要なのかなと思う。
アイキャッチは本文とまったく関係ありませんが、こないだ行った、家から車で15分ぐらいで行ける川崎・栗平の温泉で、「野天湯元 くりひら 湯快爽快」というところです。黒湯で露天もかなり広く、横浜・川崎北西部〜多摩南部エリアの温泉のなかでは、わりといい場所だと思います。
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