文化系マウンティングへの対策

今月の「サイゾー」の更科修一郎さんの連載コラム「批評なんてやめときな?」がちょっと面白かったので紹介と、それで考えたことを少し書いてみようと思う。しかしDマガジンって便利ですね。

「サンデー的なるもの」と旧制高校的教養主義の相似

マンガ編集者だった更科さんはこう語っている。

 マンガ家との打ち合わせのマクラは常に「ジャンプ」の話題だった。なのに「ジャンプ」好きの編集者に出会うことはなく、高橋留美子やゆうきまさみを神格化するマニアな先輩たちがマウンティングしてきた。
80年代の「週刊少年サンデー」は物語のダイナミズムよりも、マニアックなフェティシズムを美少女キャラクターの可愛さでコーティングした微温的な日常描写に強さを発揮したが、反面、いかにも大学漫研ノリというか、サークルの内輪向け的な自閉性も鼻についていた。そして、00年代以降はその系統のマンガの裾野が四コマやラノベ方面まで広がったことで先発優位性が失われ、長い低迷が続いている。

(「サイゾー」2017年2月号より)

ここで更科さんは80年代以降、「サンデー的」な感性をもつ編集者や批評家が増えたということを指摘している。面白いのは、そういった空間を「大学漫研ノリや高偏差値男子校的なノリ」と表現しているところだ。なるほど、そう表現すればいいのか!と膝を打った。

僕自身はそういった文化系業界にもう数年いるような気がするが、それまでまったく無縁な場所にいたので、ここに「大学漫研ノリ」「高偏差値男子校的なノリ」があることを知らなかった。で、たしかにこういう雰囲気はある。それは入っていってみて初めてわかったことだ。

思い出すのは、教育学者・竹内洋の著書『教養主義の没落』での指摘だ。

竹内洋は、戦前の旧制高校〜帝国大学つまりエリート男子校的なコミュニティのなかで知識マウンティングのようなこと(『善の研究』も読んでないのかキミは、西田幾多郎も知らないなんて教養がないんだな、みたいな。こういうのを大正教養主義という)が行われていたことを挙げ、それを「象徴的暴力」と呼んでいた。いわゆる現代のオタク業界で行われていることとまったく同じ構造が戦前にあったわけで、オタク業界や文化系業界を理解する上でこの歴史的事実はなかなか興味深いと思う。


竹内洋『教養主義の没落―変わりゆくエリート学生文化』中公新書、2003年

で、さらに、帝国大学のなかでも文化的な意味で象徴としての地位が高い「教養主義の奥の院」は文学部だったと指摘している。

これは当たり前のようだがなかなか面白い。というのも、帝国大学のホモソーシャルなコミュニティのなかで力を持つのは当然、将来官僚や政治家や財界の有力者になるような人たちで、彼らは基本的に法学部や経済学部にいる。文学部はどちらかというと「文弱」で、将来にわたって社会的権威も持ち得ない人たちである。しかし、であるがゆえに彼らは(経済や社会的権威からは遊離した)文化の空間において象徴的な力を持つというのだ。

パワーがないがゆえに文化空間ではパワーを持ち、マッチョになれる。もしかしたら、文化系男子というものの多くは「自分には力がないからこそ繊細で他人に優しくありたい」と思って文化系になるのではなく、「自分は力がないけど、力を持ちたいので、物理的・社会的パワーがなくても力を持てそうな場所に来た」というだけかもしれない。みながそうではないと思うが、少なくとも「マウンティングしてくるマニアな先輩たち」は、自分たちがそうなのではないかという疑いは持っていないのでは。

「大学漫研ノリ」「高偏差値男子校的なノリ」=サンデー的なるもの、はその淵源が戦前の旧制高校の教養主義文化にあるというのは、なかなか証明はできないが僕はそうだろうと思っている。

で、さらに、強引な比定であるのを承知でいえば、かつての「ジャンプ」は法学部・経済学部で、「サンデー」は文学部に当たるものだったのだと思う。

もちろん文学部的感性≒サンデー的感性が存在することそのものは、肯定されていいと思う。しかしそれはあくまでもマイノリティゆえに力を発揮するのであって、マジョリティになる=つまり力を持ってしまったとき、どこかに歪みが生まれるのではないか、と思ったりする。

カジュアルオタクと「形式」へのフェティッシュ

文化史的には95年以降『エヴァ』の登場でアニメ産業が息を吹き返し、さらにインターネットの登場によってかつて虐げられていたオタクたちは力を得た。

しかし、昔からいるオタクたちが力を得たことによって、後続の若い世代がそれにある種の象徴的力を見ているように思う。具体的に言えば、80年代後半生まれ以降の世代には、オタク的なあり方の、「形式そのもの」への憧れが生まれているのではないかということをいつも思っている。

で、僕が違和感をもつのは、「大学漫研ノリ」「高偏差値男子校的なノリ」そのものが存在しているのはよくても、そうった「形式」へのフェティッシュを持つということが正しいオタクの在り方だ、みたいな風潮が、現代のオタク/文化系界隈に広く見られるということ。それは文化全体にとってあまりいいことではないのでは?と思う。

何に問題を感じているかというと要は暴力性の有無である。

たとえば「文化系界隈にいるのに毎週ジャンプを読んでないの?」みたいな言い方があり、僕は毎週ジャンプを読んでなんかいないので、そういう言い方を見かけるたびに「なんだかなぁ」と思ってしまう。文化に接するときの「形式」を強要する暴力性に無頓着だからだ。(これは「今期のアニメ何見てる?」という問いかけとも似ている。僕はアニメに関しては大変ライトなので、自分がコンテンツ関連産業に従事しているとはいえ、リアルタイムの作品を無理に観ようとは思わないし、声優も野沢雅子しか知らない。……というのは言いすぎだが、まあ似たようなもん)

僕も2000年頃まではジャンプを愛読していたし、最近でもいくつか面白いと思うものは読んだりもする。しかし、もはや「ジャンプ」そのものには興味がない。なぜかというと、今のジャンプ作品の多くは「形式」、たとえばバトル漫画やスポーツ漫画などの定型的な描写を守るものばかりで、商業としては成立していても「文化的であること」「創造的であること」をあまり全体としては重視していないように思えるからだ。

こうした「ジャンプ」の「形式性」へのフェティッシュが強くなった時期と、今の若い世代のマジョリティ(カジュアルオタク、と言われる)の「形式性」へのフェティッシュは発生した時期は2000年代前半で、とてもよく似ていて、どちらも抑圧的でこそあれ、創造的なものにはとても思えないので、少し敬遠気味ではある。

……いや、そうでもないかもしれない。僕が知らないだけで「ジャンプ」には素晴らしい作品がまだまだたくさんある……のかもしれないが、とはいえある時期そこに、「サンデー好きなマウンティングしてくるパイセン」的な、弱さを盾にした「力」への意志との連続性を感じてしまうのだ。

文化というのは自由を表現し実現することに価値があって、そこに何らかの「形式」を強要するというのは、なかなか耐え難いものがある。文化への接し方は自由だし「こうあらねばならない」という義務のようなかたちで形式を重んじるというのは、文化というものが持つ精神と相反するのでは、という気がする。

なので、何が言いたいかというと、「毎週ジャンプ読んでないの?」とマウンティング気味に言われたときは、このページのURLをその人に送って読んでもらおうと思う。

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