宇野維正さんと稲田豊史さんの対談を読みました。
コンテンツが多すぎる時代、映画批評にできることとは? – 集英社新書プラス
まずこの記述、
宇野 そういう風潮に異議を唱える上でも、批評家や評論家は「本」を書く必要があるんですよ。「本」になると切り抜きで揚げ足をとられるようなことも途端になくなるし、自分で言うのはカッコ悪いのであまり声高に主張するつもりはないですが、そもそも「本」も一つの作品ですから。
稲田 そうですよね。だから、直近の採算を度外視しても、書き手はなんとしてでも「本」を書いて出版したほうがいい。いやらしい話、単著があるかないかで周囲からの扱いも露骨に変わってきますし。
宇野 そうですね。対談の【前編】で「本は出すだけでは意味がない」みたいなことを言ったばかりですが、撤回します。若い書き手は機会があったら本を出したほうがいい。そしてギャラの交渉もどんどんした方がいい。海の向こうの脚本家ストライキをぼんやりと支持してる場合じゃないです。
今のタイミングの自分にとっては胸に刻むべき言葉なのでメモっときました。そろそろ編集者に連絡してみます。
それはさておき、これを読んでいて自分のなかでの問題意識があって。
それは、「なぜ年長世代はそんなにアメリカのカルチャーに憧れていたのか?」ということです。ここは自分はややわかる部分もあるし、ピンと来ない部分もある。この部分は、もし宇野維正さんに直接聞ける機会があったら聞いてみたいです。田中宗一郎さんにも。
戦前日本の大衆文化を知ると、それは戦後とはかなり様相が違いつつも独特の魅力があります。自分が感じた特徴を一つ言えば「日本人たちが自ら主体的に取捨選択したもの」ということです。それも男性ばかりではなく、事前のイメージと異なって女性もかなり主体的にそれに参加していた。そして憧れの対象はアメリカではなくイギリス、フランス、ドイツ、イタリア、ロシアとかなんですよ。中国、朝鮮(韓国)に対しては西欧的な視線で軽視しようとしつつ江戸までの感覚を引きずって、尊敬の念も捨てきれていないところがある。
ところが、戦後になるとアメリカ一辺倒になる。そこに「大日本帝国の去勢」ともいうべきものを感じます。
連想を働かせれば、ジャニー喜多川の行ってきたこともこういう側面があるかもしれない。正否はともかく「3S政策」、日本のアメリカナイズと、大日本帝国の軍人的男性性の去勢。
ときおり、今私たちが生きている日本はパラレルワールドなんじゃないか、と思うことがあります。フィリップ・K・ディック原作のドラマ『高い城の男』を観た影響なのかもしれないですが、戦後日本は「アメリカ」という因子が大きく入ってくるので、戦前までの日本人たちの自主的な文化の発展とは違う、大きく捻じ曲がった感じがあるのですよね。戦前の日本人たちから見れば、我々戦後日本人のほうがよっぽどフィクショナルな、偽史的想像力を生きているのかも、と。
こんなことを言うと頭のおかしい人のように思われるかもしれませんし、「三島由紀夫の影響ですか?」って感じですが、実は僕は三島由紀夫は高校生のときに『金閣寺』を読んだきり、一冊も読了したことがないです。読んでみようかな。
それでは今回はこのへんで。
Photo: Circe DenyerによるPixabayからの画像
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