高森明勅『「女性天皇」の成立』、内館牧子『女はなぜ土俵にあがれないのか』を読んだ

歴史

連載「文化系のための野球入門」で、「伝統」というのものへの向き合い方、その進入角度についてヒントを得たく、高森明勅『「女性天皇」の成立』、内館牧子『女はなぜ土俵にあがれないのか』の2冊をざっと読んでみた。以下、備忘録である。

高森明勅『「女性天皇」の成立』

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眞子さんの結婚の際に、佳子さんが眞子さんとハグをしたシーンは衝撃的だった。あの時に改めて、私たちがいかに皇室の人々を「人間」として尊重してこなかったか、「伝統だから」といって同じ人間を束縛してきた私たち国民とは一体なんなのか、ということを感じさせられた。

「皇室と女性」というのはまさに、伝統と自由のあいだでがんじがらめになっている問題であると思う。

この本を読み進めていくと、その「伝統だから」という言葉の背後には、特に固形的な思想がなかったということがよくわかる。日本は女性の社会進出が遅れていると言われるが、歴史的にみたら、他の国よりもはるかに、女性を一人の人間として尊重する感性が豊かだったようだ。その象徴的なあらわれが、古代天皇における「双系継承」の伝統だろう。男系でも女系でもなく、「双系」。推古天皇や持統天皇、称徳天皇なども、決して中継ぎではなく、リーダーシップをとっていた人々だったようだ。

そもそも皇祖神アマテラスも、卑弥呼も女性である。また人類学的に見ても、古代日本では、皇室にかぎらず地元の有力者レベルでも女性リーダーは4割程度いたようだ。この傾向は、古代の朝鮮や日本では広く見られる。

しかし、中国は男系継承が強く、日本の天皇家も、大化の改新以降の中国化によって、その傾向が強まっていったようだ。

そして日本史レベルでみると、明治維新の際の皇室典範の制定で「皇位は男系男子にかぎる」ということが明文化されたことが今にまで尾を引いている。大化の改新での「中国化」、そして明治維新での「男系継承の固定化」が大きいようである。

上記ツイートでも書いたように、維新以前の武家文化でも、女性の権力者はそれなりにいた。だが結局、皇室典範の制定に象徴的だが、明治維新を契機に「男尊女卑」が固定化したとみるべきだろう。皇室のあり方は、日本の男女のあり方も大きく規定してしまう。

中国では史上唯一の女帝として則天武后(武則天)が知られている。しかし武則天は、「中国三大悪女」の一人として挙げられ、悪女であったというイメージが強いし、歴史の授業でもそれに近いニュアンスで教えられる。僕がざっと武則天のことをリサーチしたところ、近年ではそういった暗君イメージが転換されており、特に門地の別なく優秀な人材を登用し、玄宗皇帝時代の「開元の治」の礎を築いたのではないか、という評価もされているようだ。武則天の場合、のちの世の人々によるネガティブキャンペーンがすごい。私たちの武則天のイメージはネガキャンによって形成されてしまっており、その評価がフェアではない可能性があるなと思った。

現代日本では、皇室の問題を「伝統との向き合い方」として考えたり、もしくは「日本という国と、女性という存在との関係」として考える視点がとても少ないように思う。皇室の女性たちが直面する問題は、日本の女性たちが直面する問題とも地続きであり、ある意味でそういった問題が象徴的に女性天皇や女系天皇、女性宮家のことに現されているとも考えられる。それゆえ、本書はむしろフェミニズムや男女同権に関心を抱く若い人たちにこそ読まれるべきものだろうと感じた。

内館牧子『女はなぜ土俵にあがれないのか』

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こちらは元横綱審議委員会委員ともなった内館牧子の著作だ。タイトルから、保守的な女性による男尊女卑肯定論かと思われるが、必ずしもそういうわけではない。内館は、「何でもかんでも男女共同参画、でいいのか」ということに疑義を呈しているだけだった。そして〈結界〉に関する見解もなるほどと思った。内館は実は、相撲協会に対する疑義も呈している。それは「男性が土俵に平服で上がるのはおかしいのではないか」といったことである。

面白いのは「血穢」に対する見解だ。女性の生理については、近代以前は科学合理的な説明がなされず、「神秘」であった。出血は死をイメージさせるものでもあった。それゆえ男性側から女性の生理はある種、恐怖や神秘の対象であり、そういった畏怖感が反転して「血穢」という捉え方につながったのではないか、というわけである。

これは網野善彦が言う「無縁」の原理ともある種、通底しているものがある。巫女や芸能民などは神秘であり、中世においては天皇家とも結びつきが強かったがゆえに、近世以降にはむしろその畏怖心が反転して差別の対象となった。聖なるものや霊的なものに対する畏怖が、差別へと反転する。こういった構造が日本史にはしばしば見られるし、日本にかぎらず阿部謹也が指摘しているようにヨーロッパでも見られるものである。

以上はかなりざっくりとしたまとめだが、このあたりのインプットは後で「文化系のための野球入門」の記述のちょっとしたところに反映されると思う。

▼近代日本の文化空間と男性カルチャーを「野球」を通じて批評的に問い直すシリーズをPLANETSで連載中です。⇒「文化系のための野球入門

編集者、ライター。1986年生まれ。2010年からカルチャー誌「PLANETS」編集部、2018年からは株式会社LIGで広報・コンテンツ制作を担当、2021年からフリーランス。現在は「Tarzan」(マガジンハウス)をはじめ、雑誌、Webメディア、企業、NPO等で、ライティング・編集・PR企画に携わっています。
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