朝ドラ『おかえりモネ』は、基本的には楽しく観られるドラマではあるが、よく見ると作品のテーマがけっこう批評的だと思う。
宮城・気仙沼にある「亀島」に住む主人公のモネ(演・清原果耶)は、もともと父親(演・内野聖陽)の影響でトランペットをやっていた。中学時代のモネは吹奏楽部を立ち上げ、そこに父も絡んできて、さながら『スウィングガールズ』のような、2000年代の青春日常系ドラマが展開されていたことが回想シーンで少しだけ描かれる。
しかし、モネは2011年の東日本大震災で知人の死を経験する。震災にもめげずに立ち上がる人たちもいるけれど、失われた人は戻ってこない。震災以前と変わらない日常が戻ってきたとしても、何かが狂ってしまっている。モネはそこで、「音楽なんて何の役にも立たなかった」というようなことを言うのである。
連想で思い出したのが、90年代の「終わりなき日常」という感性は、2001年の同時多発テロ以降、少し変調を来しながらも、2000年代には生き残っていたということだった。それが『ウォーターボーイズ』『スウィングガールズ』のような「今ここ」の輝きを最大限に引き出そうとする日常系の想像力だった。
だが『おかえりモネ』本編は、その幸福な日常が震災という巨大な出来事によって揺り動かされたあとの人々の姿を描いている。
考えてみると2001年には同時多発テロ、2011年には東日本大震災、そして2020-2021年にはコロナ禍があった。だいたい10年おきに、「終わりなき日常」が少しずつ狂っているように思う。気候変動もあるし。
それで思い出したのが、2019年公開の新海誠の『天気の子』だ。この作品が面白いのは、まずひとつは「気候変動」をテーマにしていること。もうひとつは、『オデュッセウス』から『スター・ウォーズ』まで、多くの冒険物語が「行きて帰りし物語」であるのに対し、「狂ってしまった世界」を描いていることだ。基本的に「行きて帰りし物語」は、日常→非日常→日常への帰還、というかたちをとる。それは神話の基本構造でもあり、こうした物語は私たちを安心させてくれる。多くのフィクションも、こうした構造に則っている。
しかし『天気の子』は、世界が変調を来たしたまま終わるのである。「狂ってしまった世界」で、それでも生きていく……。
『おかえりモネ』と『天気の子』は、「気候変動」という2020年代的なテーマを基調としつつ、「狂ってしまった世界」のAfterを描いている点で共通していて、これが2020年代的な想像力なのかなと感じたのだった。
2020-2021年のコロナ禍で、私たちの生活は、世界は激変したともいえるし、そんなに変わりがないとも言える。でも、どこか「行きて帰りし物語」のような安心が失われ、少し狂ってしまった世界が今ここにある。
『おかえりモネ』の面白い点としてもうひとつ、日常系の青春を送ったあとに震災を経験したモネは、「誰かの役に立ちたい」ということを言うのだ。モネの故郷である気仙沼は基本的に「海」の町だ。そしてモネが高校を卒業して就職した登米は「山」の町である。自分の愛する「海」「山」の人々の役に立てる仕事としてモネは「気象」に興味を持ち、やがて気象予報士試験に合格して東京に向かう。
モネはいわゆる「Z世代」の若者だが、「人の役に立ちたい」という気持ちを強く持っている。逆に、それまで好きでやっていたトランペットに対しては、「音楽なんて何の役にも立たないよ」と言うのだ。
僕は86年生まれで、モネよりはだいぶ年上だが、こうした考え方――「新自由主義的な価値観」と言ってしまっていいのかもしれない――を内面化した一番最初の世代のような気がしている。「役に立つ/役に立たない」で何かを判断する風潮がこの20年位でかなり強まっていったように思う。
『おかえりモネ』を観つつ自分自身で考えたこととして、僕も「役に立つ/役に立たない」で物事を判断しがちだなと思った。
というのも、いまPLANETSで連載している「文化系のための野球入門」という企画は、5〜6年前ぐらいからあったものだ。これをしっかり書ききれば著作が出せる。30代前半で著書を出していればそれなりに仕事の幅も増えただろう。ところが僕は、会社の仕事や、今のフリーランスの立場では頼まれ仕事ばかりを優先してしまい、最初のライフワークとすべき仕事をどうしても後回しにしてしまっていた。編集者からすれば「せっかくいいチャンスなのに、なんでやらないんだろう」と思っていたのではないかと思う。自分が編集者側ならそう思う。
その理由は正直に言えば、「野球について文化批評の視点を加えて書く」ということはそれなりにユニークネスが高いとは思いつつ、まさに「不要不急」的に思ってしまっていたところがあったのだ。「こんなこと書いて何の意味があるんだろう」「誰が読むん?」というモヤモヤがあり、それよりも誰かの役に立つこと、何より自分の生活の糧を得るための「ライスワーク」ばかりを無意識に優先してしまっていた。
これをモネに引きつけて考えてみると、「有用性神話」のようなものだと思う。すぐに役に立ちそうなことは価値があり、役に立たなそうなことは後回しにしていた。自分は知らず知らずのうちに新自由主義的価値観を強く内面化してしまっていた。
僕はある種、「役に立たなければならない」という呪いを社会からかけられた今の若い世代のアーリーアダプターというか、突端にいるような気がするのだ。
新自由主義的な価値観というのは、勝手に定義すれば、
- 「役に立つ/立たない」で物事を判断する
- 勝ち負けを決める
- カネを稼がなければ存在価値がない
- 有名になったやつが正しい
というような思想だと思う。
だけど、有名でなくても立派な仕事をしている人、お金は稼げていなくても楽しい人はたくさんいるし、人生は当然勝ち負けではないし、お金がその人の価値を決めるわけでもないと思う。これはある種、戦後民主主義的な世界観だと言っていいはずだ。
『おかえりモネ』でこうした戦後民主主義的な価値観を体現しているのが、モネの父親=内野聖陽だ。モネのパパは、たしかに銀行員という堅い職業に就いているが、若い頃からやっているトランペット=「何も役に立たない」音楽でモネの部活の仲間たちを盛り上げ、困っている友人に何の見返りも求めずに救いの手を差し伸べる。
そういうところを見ていて、自分はモネの側にいるけれども、モネパパに対して憧れの気持ちを抱いてしまっていることに気づいた。有用性神話から抜け出して、役に立とうが立たなかろうが、自分の信念を曲げずに、まわりを明るくするような存在になれたらいいのにな、と思うのである。音楽なんて何の役にも立たないのではなく、役に立たなさそうなものにこそ本当に大きな価値があるというところもあるように思う。
自分は一橋大学卒という有利なラベルを持っていたけれど、そういう権威にできるだけ頼らないように生きてきた。新卒採用ではなくアシスタントのようなことから仕事を始めて、ベンチャー企業しか経験がない。そうせざるを得なかったような気もするし、意図的にそうした気もする。DIYでブリコラージュなものが好きで、その信念を大事にしてきたのだが、ステータス・権威に頼らずゼロからやっていくと、年収ゼロからのスタートだったのでどうしても日々の糧を得る、誰かの役に立つことで精一杯になってしまい、とにかく余裕がない。余裕がない・時間がないとインプットもあまりできないし、次のステップに向かうための勉強などもできない。つねにOJTばかりになってしまうし、そもそもそういう働き方は業務量が多いのだ。
最近思っているのは、「生活の必要から離れるべきではないか」ということだ。当初からやっていた泥のなかを這い回るという経験はこの約10年で十分できたように思うし、最近はとにかく必要に迫られた仕事の量を減らそうとしている。
普通にいい大学を出ていい会社に就職してお金を貯めることができていれば、そういう意味での自由度もあったかもしれない。ただ、そういった人生を送っていくと、無宿渡世人になることには心理的な抵抗が大きかったと思うから、まぁ一長一短はあるかなとは思う。
誰かから求められるよりも、自分のやりたい方向のことをできるだけやるようにして、自分のことをもう少し大切にして、ライスワークではなくライフワークを重視してそれでお金を稼いでいくみたいな方向性を考えてもよいのではないか、みたいなことを今は思っている。
そのために今はとにかく仕事の量を減らすこと、それで仕事がそこまでない状態でも生きていけるような状況を創り出すことが必要で、この数ヶ月の努力でなんとなく状況は整ってきた。
「人から求められること=ライスワーク=有用性神話=新自由主義的価値観」から離れて、「人から求められてるかははっきりわからないが自分のやりたいこと=ライフワーク=アンチ不要不急=戦後民主主義的価値観のアップデート」みたいなことが必要なのかなと思う。
「人の役に立たなければいけない」という呪いから逃れること、自分の時間を作り出すこと。生活の必要から離れること。
「ライスワークでないと稼げない」と思うから業務量に圧迫されるのであって、考え方を丸ごと交換して、時間に関してもお金に関しても、条件が整うのを待つよりはすぐにその条件を整えてしまうみたいなことをやったほうがいいような気がしている。
(了)
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