東京オリンピック2020(2021)の振り返り

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オリンピックが終わって2週間が経った。パラリンピックの開幕は今日からである。

今回、すごく大きなこととして思ったのが、コロナにオリンピック強行開催が重なることで、人々の政治的対立がかなり深まったということだった。それは友人関係や家庭内でも顕在化したことだろう。もともと仲が良かった人でも、その人の発言を見て「うわ、こんなこと思ってたんだ……」とガッカリする、ちょっとキライになる、みたいな状況がかなりあったのではないか。普通に考えれば、Twitterではコロナについてもオリンピックについても、何も発言しないというのが最適解であり、多くの人たちはそうしていた。

やっぱりTwitterやSNSは、断片的な情報しか流れてこないので、ニュアンスも細かくないし誤解も生まれやすい。そもそも「書かれた言葉」というのは大変抽象的な情報であり、相当慎重に取捨選択がなされなければならないのだが、みんなそのことはほとんど意識していない……というか、それが一応は意識には上っているはずの僕ですら全然意識していない。SNSのプラットフォームの罠に、みんなが、自分も含めて、ハマってしまっている。

物事を正確に伝えるためには、ある程度のボリュームが必要になる。自分も断片的にTwitterなどで書いてきたが、今回の記事では、時系列でオリンピックのことを振り返りつつ、もう少しいろんなことを連関させながら「なぜこう思ったか」を書いておきたいと思う。

ターニングポイント①2013年の東京招致決定時

大きく見てターニングポイントは2つあると思う。

1つ目は、2020年の東京五輪招致が決まった8年前の2013年である。

この時点で「2020年の東京五輪開催に賛成か、反対か?」を問われたら、僕は反対であった。

実際、特に21世紀に入ってから、五輪は肥大化しすぎ、開催国に過度な負担を与えるということで、先進国じゅうで開催への反対運動が起こっている。

当時の自分も「ウザいな」という感覚であった。『ALWAYS 三丁目の夕日』的な「64年の東京五輪の熱狂よもう一度」「高度成長懐かしいね〜」みたいなノスタルジーのノリを感じ、そういうことをやってるからダメなんだと思っていた。日本社会の抱える課題がオリンピック招致によってかき消されるというのがイヤだなぁと感じた。一応、PLANETSにいたときに五輪特集号も作っていたが……メイン業務がメルマガ編集だったのでそっちで忙しかったのであまり興味を持っていなかった。

何より問題なのは、五輪開催に税金が投入されているということだ。

なぜ国民が「五輪に税金が使われることに同意した」ことになっているのか。このへんは2021年6月に公開された、スポーツ社会学者の坂上康博氏のインタビューに詳しく載っている。

特にこのあたりの話は参考になると思う。

「巨大な五輪が(相当程度)税金の無駄使いだという指摘は極めて正しくて、もっと大事なものがあるでしょうとなって、先進国の都市で反対運動が起きている。これは正しい常識的判断なのですが、五輪そのものは本来、金に換算できない。(中略)競技の感動やパフォーマンスもあるけれど、開会式などの儀式や国旗、国歌がうまく組み込まれ、理念を表象している。ここが力を持ち、人々が納得する部分が確かにあるので、超法規的に特別扱いされるわけです」

別の角度から見てみると、スポーツサイドの人々は、今回これだけ五輪批判が国民の間で高まったことに心を痛めた人も多かったと思う。だが、これもややネオリベ的な価値観ではあるが、文句を言われるのは当たり前なのだ。なぜなら税金が投入されているから。

「口を出されたくなかったら自分たちでやれ」ということは実はカルチャーを守る上ではけっこう大きい。現に、プロ野球やJリーグが有観客でやっててもあんまり何も言われないのは、経済的に自立し、自主運営しているからだ。商業的に自立できるものであれば政府からお金をもらわなくても運営できる。口を出されたくなかったら、自己責任で運営するしかない。

マイナースポーツの展示会? 五輪の位置づけの難しさ

一方で、「なぜオリンピックに公的な支援が行われるのか」ということに関しては、TBSラジオ「Session」で溝口紀子氏が語っている。

ここで言われていることは、要はオリンピックというものは「マイナースポーツ支援」という側面があるということだ。サッカーや野球、バスケやアメフト(これはアメリカだけだけど)は、高度に商業化されており、自主運営が可能である。つまり「選手が食える」仕組みができあがっている。しかしオリンピックの種目は、昔から花形である陸上や水泳ですら、メジャースポーツのように「選手が食える」仕組みが確立できていない。だからそういうスポーツの支援の場でもあるのだ、ということだ。

これは、「ファインアート、演劇、インディーズ映画になぜ公的支援がなされるのか」という話に近い。「スポーツと演劇を一緒にするな」と言われるかもしれないが、本当にそうなのかは個人的に大いに疑問がある。する人がいて、見る人がいて、支える人がいる。機能的には一緒じゃないか、なぜ同じだと言ってはいけないのかと。

大規模公開映画やテレビドラマ、宝塚やアイドルなどはビジネスとしてスケールしうる。しかし小劇場での舞台やインディーズ映画はなかなかそれが成り立ちにくい。だから、けっこう公的支援が入っていたりする。

アートとポップカルチャーの間にはどうしてもスケールの違いがあるし、単にマーケットに最適化したものだけが生き残る、優勝劣敗の価値観を強烈に導入してしまうというのは、文化の多様性を確保する上では問題がある。比較的、それと似たロジックがオリンピックにはあると思うのだ。

「マイナースポーツのことなんてどうでもいい」という意見もありうるだろうが、とはいえスポーツであれ他のさまざまな文化領域であれ、私たちが好きなもので「要・急」と言い切れるものはあまりない。

逆に、「不要不急」があるからこそ私たちは豊かな生を享受できるとも言える。自分がわからないもの、思い入れがないものであったとしても、「これは不要不急だよね」と簡単に断じてしまうことには、個人的には慎重でありたいと思う。それは、文化が人々の生を豊かにする可能性を信じているということでもある。

ターニングポイント②2年延期ではなく1年延期になってしまった

思うに、今回の問題を生んだのは昨年時点で「2年延期ではなく1年延期」に決定してしまったことだ。こちらも坂上氏のインタビュー記事が参考になる。

進むも退くも、五輪が陥る矛盾と危機(上):時事ドットコム

進むも退くも、五輪が陥る矛盾と危機(下):時事ドットコム

そもそもすごく原理的に考えれば、コロナ禍が2020年に始まったことを考えれば、本来は東京開催を2024年に、次のパリを2028年に順延するのが最も妥当ではあるはずだ。

実際、歴史的に見ると第一次大戦の開戦により1916年に開催予定だったベルリン大会は中止されている。このとき戦争当時国だったドイツ・ベルリン開催はスキップされ、19年に終わったばかりの第一次大戦で荒廃したアントワープで1920年大会が開催されている。ベルリンで開催されたのは結局、20年後の1936年である(もっともそれはヒトラーの五輪だったが)。

同じケースは第二次大戦のときにも起こっており、このときは1940年に東京大会が開催予定だったが、日中戦争の影響などにより東京は開催権を返上し、第二次大戦でのヨーロッパ戦線の激化により、1944年開催予定だったロンドン大会も中止となった。結局、1936年のベルリン大会から12年後の1948年、ようやくロンドン大会が行われている。

Poster Olympische Sommerspiele Tokio 1940.jpg
1940年東京五輪のポスター。Wada Sanzō – The Organizing Committee of the XIIth Olympiad, Report of the Organizing Committee on its Work for the XIIth Olympic Games of 1940 in Tokyo until the Relinquishment, Tokio 1940, p. 114.  Public domain, via Wikimedia Commons, Link

しかしアスリートのピークの問題、そしてすでに準備がかなり進んでいる24年パリ五輪の開催国フランスも大反対する。もしこれをやるとなったら、相当な政治的調整力が必要で、おそらくそんなことは初代JOC会長の嘉納治五郎ぐらいしかできなかっただろう。森喜朗や川淵三郎は調整力に限れば嘉納治五郎に匹敵するものがあったと思う(実際、ラグビーW杯招致で森が振るった調整力は豪腕というほかない)が、嘉納治五郎ほど世界のスポーツ界からの尊敬を集めているわけではない。森に関しては女性蔑視発言など論外の言動もあった。

実はこの際に一番問題だったのは、安倍晋三前首相が2年延期ではなく「1年延期」としてしまったことだ。これは普通に考えれば、

(1)中国をライバル視しているので22年北京冬季五輪(これはもう半年後に迫っている)の前に、東京で五輪を成功させたい

(2)自分の任期中に成果を出したい

の2点が大きかったのだろうと思う。だが安倍は政権を投げ出し、首相の役割は菅へと引き継がれた。菅義偉は、安倍晋三の行動の結果に引きずられた部分がかなり大きい。2021年の強行開催は、菅の責任というよりも安倍晋三の責任のほうが極めて大きい。菅は外堀がすでに埋められている状態だった。

「理念が置き去りにされた」ということの重大さ

結局、何か文化の価値を守るには、政治から距離をとった自主開催が実は最適解である。五輪はこれから、過剰な肥大化をやめ、スケールダウンするということが考えられていくことになるだろう。ただ、来た道を戻ることではなく、他の大きな力、つまり政治という「遠心力」に引っ張られないように、まずは求心力を高め直すということが必要になるはずだ。

それは五輪に込められた理想を取り戻す、ということになる。

たとえば今回の東京五輪では「バブル方式」などと言って、選手・関係者や報道機関は強い行動制限を受けた。みんな忘れているが、これは普通に人権侵害である。日本の世論では、「外国人が来ると強力な変異株が生まれる!」などと病原菌扱いすることがあたかも当たり前のように言われ、そのことに誰も抗議の声を上げなかった。これは日本人として非常に恥ずべきことだと思う(「そもそもウイルスは常に人体の内部で変異を繰り返すものだ」という基礎知識すら抑えられていない。ソース:新型コロナの変異は「当たり前」の話、騒げば騒ぐだけ損:日経ビジネス電子版 )。

外国から来日した五輪関係者で唯一、人権が認められていたのがバッハだった。バッハは広島に行ったり、銀ブラをしたりした。ここで僕はバッハを批判したいわけではない。なぜならバッハの行動は、世界人権宣言でも認められている普遍的人権だからだ(参考:世界人権宣言テキスト | 国連広報センター)。だが、バッハの行動ばかりが批判され、他の外国人への人権侵害を等閑視した日本の世論の人権意識は非常に低かった、と言わざるをえない。

もし「バブル方式も仕方ない」のであれば、もっと屈託がなければならなかったのではないか。外国人を病原菌扱いするなど、排外主義以外の何物でもない。それが世論で当たり前のようになっていたことが本当に恥ずべきことだと思う。外国からわざわざ来てくれたたくさんの人たちをもてなせないようであれば、当然、2021年に東京で五輪など開催すべきではない。そういった意味において、五輪の強行開催は批判されるべきだった。

また「選手村での交流禁止」「無観客開催」なども五輪の理念に照らせば極めて問題だ。五輪は、「出身国に関係なく若者たちが同じルールで競い合う」「それを多くの人が生で目にする」「選手たちは、競技が終わったら選手村で交流する」ということが重要なのだ。それでようやく国際交流が果たされ、「ただの運動会」に社会的意義が宿る、そういう意義がわかったら社会の側も協力してくれるのだ。坂上氏も言っていたように、「友だちのいる国にミサイルは打てないですよ」ということなのである(破壊された五輪の根幹 坂上康博氏に聞く:時事ドットコム)。

そういった正のループが、これまた屈託なく断ち切られてしまっていた。

日本の国民は税金を払っていて、その税金が投入されているのだから五輪に口を出す。それはいい。だが結局メディアも世論も、そういった五輪の理念への理解を深めた上で意見を言おうという気すらなかった。一方で、五輪開催側・選手側も、五輪にもともとあった理念を理解し実践し、どれだけ地に足をつけた発信ができていたかも問われるべきだろう。

結局、スポーツというものは長い時間をかけて社会にその価値が認めらたが、スポーツサイドの人々は先人たちが築いた足場の堅さに甘えて、スポーツの意義についての発信とコミュニケーションを怠った。

これは別にスポーツや五輪だけに言えることではない。すべての「不要不急」とされがちな文化は、もし社会のなかに足場を持とうとするならば、自らの意義について繰り返し発信し、理念に何度でも立ち返り、社会状況とあわせてアップデートしていくことが必要なのだと思う。

(了)

中野 慧 (Kei Nakano)

1986年生、ライター・編集者・ディレクター。PLANETSにてWebマガジン編集、株式会社LIGで広報/メディア事業を経験したのち現在フリーランス。過去に構成・編集を担当した書籍に『「絶望の時代」の希望の恋愛学』(宮台真司編著、KADOKAWA/中経出版)、『ナショナリズムの現在』(小林よしのり他著、朝日新書)、『現役官僚の滞英日記』(橘宏樹著、PLANETS)、『若い読者のためのサブカルチャー論講義録』(宇野常寛著、朝日新聞出版)など。現在は、PLANETSにて月イチで「文化系のための野球入門」を連載中。
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