『天気の子』はもう3ヶ月前、7月19日に公開された。僕はその翌日の土曜日に観てきた。そのときにざっくり感想は書いていたのだが、ネット上で喧々諤々の議論が起こっていたので、そこに参加するようなことは面倒だと思い、記事を仕上げるのをほっぽっておいた。
そして3ヶ月経った現在、やっとみんながこの作品のことを忘れようとしている。それはそうと台風被害のほうが心配だ。
『天気の子』は、批評的に何か言いたくなる作品ではない。全体的に完成度が高くてガチャガチャしたものではないからだ。
以前『ポッピンQ』について書いた記事はめっちゃバズり、当時サーバーも落ちたりして、おまけにGoogle検索で上位に君臨し続け、おそらく監督以下、制作陣も読んだろうな、ぐらいのものになってしまった。
地味に話題?の爆死アニメ映画『ポッピンQ』をできるだけポジティブに評価してみる | にどね研究所
基本的に、「みんなが褒めてるもの」について何か書く気ってあんまり起きないのだ。むしろ、全体的には穴だらけだけど大いなる可能性を感じさせるものとか、まったく売れてないけど自分はいいと思ったものとか、もしくは『ジョーカー』のように賛否両論なもののほうが、書きたくなる。
まあそれはさておき、『天気の子』について書いていきます。
上映前に盛り上がっていた新海誠バッシング
『天気の子』の上映前段階では、「新海誠作品は童貞の妄想がキモい」というような批判が、ツイッター上で渦巻いていた。『君の名は。』が大ヒットしたけど、あれがどうも受け付けないという感覚を持つ人たちによる、「新海誠=国民的アニメ作家みたいに押し付けてくる同調圧力がうざい」というバッシングであった。
はっきりいってしょーもない騒動である。新海誠は別に、国民的アニメ作家の素養なんてもともとないのに、彼の才能に目をつけた大人たちが、国民的アニメ作家に祭り上げようとしているだけだ。無理して見る必要もないし、作品の良さがわからなかったからといってその人の感性が変なわけじゃない。『君の名は。』に拒絶反応を示したあなたはいたってノーマル。心配ない。
結論から言ってしまえば、新海誠は「男性の、しかもマイノリティ的感性に立脚したクリエイター」なのだ。
過去作をざっくりと振り返る
『君の名は。』だけ観てもそれはわからないので、過去作をざっくり振り返ってみよう。
『ほしのこえ』(2002年)
これが最初の劇場公開作品、映画監督としての実質的デビュー作だ。
この作品は、当時10代男性のあいだで流行していた『最終兵器彼女』と非常によく似た構造を持っている。両作とも、いわゆる「セカイ系」と言われる作品群の代表格とされている。
セカイ系というのは、『新世紀エヴァンゲリオン』の強い影響下にあって、「ポスト・エヴァンゲリオン症候群」ともされ、主人公の少年とヒロインの「キミとボク」の純愛的関係性と、世界の運命とを短絡させるような物語類型のこと。
セカイ系は、しばしば評論の世界で、「キミとボク」以外の家族や仲間、社会などの「中間」をすっ飛ばす、その淡薄なストーリーラインが批判されてきた。
『ほしのこえ』も、世界の運命を託されて闘う少女(いわゆる戦闘美少女)=キミと、その一方でなにもできない少年=ボクが対比的に描かれ、その「ボク」の「何もできなさ」が際立つ構造となっている。
つまり、『マッドマックス 怒りのデス・ロード』を待つまでもなく、2002年の時点で『ほしのこえ』は、闘う少女の能動性と、何もできない少年(=『怒りのデス・ロード』でいえば主人公マックス)の不能性が徹底して描かれていて、「少年が少女を救う」古典的なボーイ・ミーツ・ガールの構造はとっくに放棄されていた。
『彼女と彼女の猫』(2000年)
こうした男性側の「不能性」は、『ほしのこえ』以前に新海誠が自主制作したモノクロ3Dアニメ『彼女と彼女の猫』で、より徹底して描かれている。
ここでは、「男性」はもはや人間ですらない。「彼女=キミ」に拾われた猫が「ボク」であり、「彼女」がつらい目に遭っていても「猫」である「ボク」は何もできない。ただそばで見守るだけである。
『ほしのこえ』も『彼女と彼女の猫』も、ある種のオタク男性に共通する心情――「自分はなにもできない」という「不能性」を諦念とともに徹底して描いている(ちなみに、これはギャルゲというジャンルから生まれたものである)。
ここでは、フェミニズムや男性学周辺で90年代に言われ始め、2019年現在ではメディア上でもよく言われるようになった、「男らしさにこだわるのはもうやめましょう」「男らしさの鎧をもう脱ぎ捨てましょう」という「脱鎧論(だつよろいろん)」がすでに実践されている。鎧、めっちゃ脱いでる……どころか、その「男らしさ(マスキュリニティ)」の表現が、猫にまで縮退しているのだ。
ちなみに『彼女と彼女の猫』『ほしのこえ』ともに、オリジナルバージョンは新海誠と当時付き合っていた彼女が声優を担当し、そして新海誠一人で3Dアニメーションを仕上げてしまうという、作劇とは対称的な徹底的な「やったるぞ!」なDIY精神に、僕個人はとても心を打たれた。
また、新海誠作品特有のやたらと美麗な背景描写は当初からすでにあり(もちろんさらに前に新海誠がゲーム会社日本ファルコムで作っていた『イースⅡエターナル』オープニングアニメーションなどにもその特徴は出ているのだが)、旧来のファインアート的教養主義に依拠しない、「デジタル世代」ならではの感性を衒いなく表現するところに、すでに作家としての矜持が現れていたように思う。
※ちなみに脱鎧論が企業PRにまで使われるようになった良い例が、髭剃りメーカーのジレットのこのCMである。
『雲の向こう、約束の場所』(2004年)
こちらも、日本が南北に分割されるというディストピアSF的な設定が採用されている。男性主人公側の不能性は変わらず、しかし、アニメーションの美麗さがより進化してメジャー感が出てきている。
今思うと、南北分断というSF的な設定(宇宙エレベーターなどのギミックも)は料理の仕方によってはかなり面白くできたはずで、その設定的な面白さじたいはこの作品がもっとも高い。しかし「SF」「ポリティカルフィクション」好きのオタク男性的感性に立脚しているのは同時に弱点にもなっていて、作劇面でのメジャー感の後退に寄与している。
この作品はSFなので、飛行機や軍人などのミリタリーテイストなものも出てくるし、電車もやたら登場する。
ちょうど『天気の子』公開前に、ツイッターにこんなことを書いた。
新海誠が鉄道やビルのモチーフを好むのは、それが戦闘機や軍艦などの敗戦後に抑圧された「男のロマン」の代替物だからだ。であるからこそ、ある種の「男の子たち」が持っているフェティシズムを喚起させる。
— 中野 慧 (ケイ) (@yutorination) July 15, 2019
まあ本当にここに書いたとおりで、「男の子的なフェティシズム」って、戦闘機や軍艦などミリタリーなものに向けられるものなのだが、戦後日本ではそういうものを少年誌ではおおっぴらに取り上げにくくなってしまった。そこで代替物として、電車が男の子たちの憧れになっていき、さらに時代が進むと「ビル」や「新幹線」などの「人工的」で「巨大」なものも、その対象になる。
ちなみに宮崎駿は、エコロジカルで戦後民主主義的な感覚に依拠してきたのにもかかわらず、本人のプリミティブな男の子的ロマンの対象が、本当は(人を殺す道具である)戦闘機であったことを、『風立ちぬ』で臆面もなく表現してしまった。いままではなんとか隠していたのにも関わらず。
で、新海誠もそういった男の子的感性を強く持っていて、そのガチャガチャした感じがこの『雲の向こう、約束の場所』ではもっとも先鋭的に出ている。その意味でこの作品はなかなか興味深いと思うのだ。
『秒速5センチメートル』(2006年)
これが新海誠が最初に「メジャー」の階段を一歩登った作品だ。『ほしのこえ』『雲の向こう、約束の場所』にあったSF要素(大仰な「セカイ」への志向)はかなり後退し、エピソードのうちのひとつ、「種子島でのロケット打ち上げ」にわずかに残されているだけだ。
「キミとボク」の関係性=ケータイ小説的な純愛の要素が前景化したことで、オタク男性だけではなくより広範な層にリーチした。
実際、僕は当時は大学生で、この作品で初めて新海誠作品に触れたのだが、同時期の細田守監督『時をかける少女』と同じく、ちょっと文化的にアーリーアダプターな大学生のあいだで話題になるような、オシャレ感のある作品として受け取られていたように思う。
この作品では、新海誠作品のコアのひとつであった「男性主人公の不能性」が、村上春樹的な「デタッチメント」の文学性として表現されて、それがある種の「オシャレ感」に結実している。
たとえば桂正和は、『ウイングマン』『電影少女』『D・N・A2』などではSFや特撮などへのこだわりと恋愛要素を組み合わせていたが、そのフェティッシュを封印して恋愛に絞って結果大ヒットしたのが『I”s(アイズ)』だった。新海誠にとって『秒速5センチメートル』は、桂正和にとっての『I”s』のようなものだったと思う。
ちなみにYouTubeにこの作品のメイキングを新海誠が語っている動画が上がっていたのだが、その誠実な語り口に、ここでも僕はいたく感動し、「これから新海誠作品は全部追おう」と思った。インタビュー中にうっかり猫が登場して新海監督が苦笑するくだりなど、ほのぼの力が半端ない。
『星を追う子ども』(2011年)
これは「ポストジブリ」への色気を出した作品で、全編にわたってジブリ的なモチーフ――偽ムスカや偽テト等――が出てきて、派手に失敗している。
個人的には、こういった前のめりに失敗している作品は大好きである。「失敗作」「ジブリのパクリ」等、世評はさんざんであるが、こういった実験作こそ、実際に観てみる価値があると思う。失敗を重ねなければよいクリエイティブは生まれない。
信濃毎日新聞、大成建設のCM
ちなみに2007年には信濃毎日新聞のCMも制作していて、これもなかなか面白い出来である。(公式動画が上がっていないのでYouTubeリンクは貼りません)
もうひとつ、2011年からは大成建設のCMも制作している。代表的なのは、ボスポラス海峡の海底トンネルを作る女性社員の物語である。ここにも女性が「アジアとヨーロッパをつなげる」大型プロジェクトを動かして社会参加していく「能動性の快楽」が描かれている。
男性主人公のバージョンもいくつかあるのだが、どれも「能動性の発揮と社会参加の快楽」まで描かれているとは言いがたく、どこか逃避的、またはコンプレックスを抱えた男性が多い。しかし女性主人公もののボスポラス海峡編だけはそのあたりの屈託がないというのはなかなか対照的で面白いと思う。
今、大成建設の公式動画に上がっているのは「シンガポール編」だけなので、そちらを貼っておきます。これは去年公開のやつですかね。
『言の葉の庭』(2013年)
男性主人公が、圧倒的に弱い立場ながらも自ら行動し、運命を変えようとする。『ほしのこえ』『彼女と彼女の猫』あたりに比べると、かなり能動性を回復している。
昔は猫で、「僕には何もできないニャ(=^・^=)」みたいな感じだったのが、主体的・能動的に、自分と自分の大切な相手の「運命」を変えようと奮闘したわけである。だから僕は「すごい!頑張ったね!」と心の中で拍手した。
そして電車の描写、新宿のビルの描写。これらはやはり、まだ残存している男性性の追求である。
Z会「クロスロード」
これはYouTubeで観れますよね。
『君の名は。』の前段のような位置づけの作品だ。これも『君の名は。』と共通するのだが、男の子は東京で、女の子は田舎から頑張って上京する。「上京」という能動性を背負うのは常に女の子であるという点も、実は『ほしのこえ』の頃から何も変わっていない。
『君の名は。』は何がすごかったのか
これも『言の葉の庭』に引き続き、男性主人公が自分と自分の大切な人の「運命」を回復するために奮闘する、その能動性の度合いが前作よりも上がっている。
なのでやはり、「昔は猫だったのに……痛みに耐えてよく頑張った!感動した!」と思った。
電車、ビルの描写など、『言の葉の庭』ではまだ残存していた男性性は「名プロデューサー」川村元気によって見事に消去されており、キモオタ的な男性性は「口噛み酒」と三葉ちゃんのパンチラにわずかに残されているだけである。
『天気の子』の達成?
『天気の子』も引き続き、しつこいようだが『彼女と彼女の猫』に比べると「昔は猫だったのに……こんなに頑張れるようになって……!」というところがすごい。逆にそこぐらいにしかすごさがない。
思い出したのは、ちょうど約10年前、新海誠の盟友であるRADWIMPSが発表した『マニフェスト』という曲のPVだった。
当時のRADWIMPSは、「ロックバンドなのにキミとボクの関係ばっか歌っててキモい(※要約)」と批判されており、その意趣返しとして、野田洋次郎が社会主義国家の独裁者に扮して、世界をキミとボク一色にしようと宣言する、というものだ。
歌詞を要約すると、
- 僕が総理大臣になったら(以下同)国民一人ひとりから1円ずつ集めて1億円の結婚式を挙行します
- キミの家まで電車を走らせて、終点は僕の家にします
- キミの誕生日を祝日にします
- 僕らにまつわるすべてのことを教科書に載せます
- 国旗はキミのあの形にします
- キミを育てたパパとママに国民栄誉賞を贈ります
などです。で、PVのおしまいには、野田洋次郎が演説中に銃でパーン!って撃たれて暗殺されると。
まームチャクチャであるが、パフォーマンスアートとしてはわりと面白い、というのが僕の評価です。ちょうど秋元康が、欅坂46の少女たちに「大人たちに支配されるな」って歌詞を歌わせるのと似たような、「なんじゃこりゃwww ひどいwwww」という悪趣味さがまぁまぁある。やりたいことはわかるのだ。
で、『天気の子』にもそういう「セカイ系セカイ系うっせぇな!俺は自分と周りさえ幸せであればそれでいいの!世界の天気がどうなろうと、東京が水没しようと知ったことじゃないの!」という逆ギレ性があるため、「そっか……まあいいのかな……」という気がしてくる。(あと、救いたい対象が美少女だけじゃなくてショタとアメちゃん(猫)と大人たちと……というふうに増えたのも、偉いな、と思う)
ただ、上述のとおり、それはすでに盟友のRADWIMPSが「マニフェスト」で10年前にやっているので既視感があった。批評性という意味でビミョーなのだ。驚きがない。
『天気の子』以降は、もはや「外部」に手を伸ばすしかない
じゃあ次に、新海誠は何をモチーフにするのがいいのか。勝手に考えてみたい。
端的に言って、川村元気の「キモオタ的男性性を消去する」というプロデュースはもう要らないんじゃないかと思う。まあ「新海誠はビジネスになる」と思った大人たちがそれを許さない気はするが。このまま国民的アニメ作家の地位を歩むのかもしれないし、それはどう転ぶかはわからない。
で、当初にあった作家性の要素のうち、「もともと猫」という部分はもう克服されてしまったのでそこには戻れないと思う。これをもっと批評っぽい言葉に変換すると「縮退してしまった男の子的ビルドゥングスロマンの回復」ということになるだろう。一回、猫を経由しているので、「少年の成長物語を回復すればいいんでしょ!よっしゃ!」と単線的に男の子的ビルドゥングスロマンを回復するよりは強度があるので、まあここまでのプロセスでやってきたことに意義はあったのかなと思う。
であれば、大成建設のCMで描かれたような「発展途上国」、もしくは『ほしのこえ』『雲の向こう』『秒速』にかけて縮退していった「宇宙」というテーマ、そして『言の葉の庭』まではあった「巨大なもの」へのフェティシズム。このあたりだろうと思う。ちなみに大成建設CMでは、「発展途上国」「巨大なもの」の両方が描かれているので、この路線は多いにありだろうと思っている。
そして男性主人公の主体性をどう扱うか。もし大成建設の路線で行くのであれば、主人公は男性ではなく女性でなくてはいけない。もし男性主人公にしてしまったら、ただの山崎豊子か池井戸潤になってしまう。しかし、『沈まぬ太陽』的な世界観を女性が生きたらどうなるか。それは普通に気になるところである。まあ、その回路自体が差別的ではあるだろうけど。
なので「東京」「日本」以外の場所で、男性主人公の男性性を回復すること以外のテーマに挑む作品が観たいなぁと思う。
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