東京進学校エリートたちと〈秘密結社的ハイ・ソサエティ〉――『ルポ 塾歴社会 日本のエリート教育を牛耳る「鉄緑会」と「サピックス」の正体』から

教育ジャーナリスト・おおたとしまさ氏の『ルポ 塾歴社会 日本のエリート教育を牛耳る「鉄緑会」と「サピックス」の正体』を読んだ。この本は、「知る人ぞ知る」という状態であった日本の若年エリート社会を見事に描き出した、きわめて問題提起的な著作であると思う。

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おおたとしまさ『ルポ 塾歴社会 日本のエリート教育を牛耳る「鉄緑会」と「サピックス」の正体』(幻冬舎新書)

近年、辛酸なめ子氏の『女子校育ち』を始めとして、東京の進学校に通うおぼっちゃん・お嬢様たちの生態を描いた本が立て続けに出版されている。たとえば開成高校野球部の内幕を描きドラマ化もされた『弱くても勝てます』は当初はアマチュア野球の「弱者の戦略論」として注目されたものだが、実際の本の内容は、「野球部を通して開成高校の生徒たちの生態を描いた」という点が画期的であった。『弱くても勝てます』というタイトルとは裏腹に、「弱いと『勝てない』」「ではその『弱さ』というのはどこから来るのか?」ということが描かれていたのだ。その「弱さ」というのは端的に言うと、受験エリート特有の「ひ弱さ」でもあったと思う。

その話は一旦措くとして、このおおた氏による『ルポ塾歴社会』を読み解く際には、いくつか必要な前提があるのでそれを列挙してみようと思う。

■学歴社会批判という文脈

そもそも日本の一般社会において「学歴社会批判」というのは根強いものがある。大学生の就職活動において企業が学生をふるい分ける際に、「学歴フィルター」と言われるように大学名を裏の選考基準として用いていることは有名である。その学歴フィルターにかからない大学の学生からは「学歴で人を差別するのは不公平だ」という声が上がるわけであり、企業は学歴フィルターを用いていることはおおっぴらにできないので「うちの会社は選考基準に学歴を用いていません」ということを表向きにアピールしたりする。一方でその学歴フィルターの内側にいる学生たちは、「学歴で差をつけるのは当たり前」という感覚を持っていて恩恵も受けているので、学歴差別そのものには異を唱えずむしろ「何も言わずに利用する」。日本社会では「学歴で差別されるのは当たり前でしょ」ということをあからさまに言うことはできない、という構造はそれだけ強固なものがある。

■学歴社会批判批判という捉え返し

そもそも「学歴差別」というものには何の正当性もないわけではない。シグナリング理論など社会科学のなかではいろいろな研究があるのだが、企業内部の経験知としても「学歴である程度のフィルタリングを行うのは、採用活動において一定程度以上の合理性がある」ということが広く認識されている。
しかし実際に運用されていることとは別に、日本の言論空間では学歴差別はタブーである。そういう状況に対して「学歴差別は当たり前」ということをカウンター的な言説として打ち出す動きがあり、その象徴的な存在が、東大受験を描き2005年にはドラマ化もされた漫画『ドラゴン桜』である。

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ドラゴン桜 全21巻完結セット (モーニングKC)

『ドラゴン桜』には戦後民主主義的な教育観に対するアンチテーゼの側面がある。戦後民主主義的な教育観の現れのひとつとして「人間を学歴で差別するのは非人間的だ。学歴なんかよりも大事なこと、教育が実現すべき価値がある」という言い方がある。しかしドラゴン桜の主人公・桜木は「そんなのは綺麗事だ。実際に日本社会には厳然として学歴差別があるのだから、そのルートに乗っかった上で上手く活用すべきだ」ということを説いている。この主張には論理的にはかなりの程度の正当性が認められるだろう。

■さらにその先を「再考」する必要性

しかし『ドラゴン桜』では描かれることのなかったものがある。実際の東大受験において、漫画のように無名進学校から東大に合格するのはかなり難しい。東大合格者のほとんどは、東京や関西の有名進学校から輩出されているという現実がある。それに大きく寄与しているのが、「鉄緑会」という有名進学校在学者のみが在籍を許される東大受験専門塾の存在である。そこでは東京の進学校トップ校の生徒たちが集まり、東大に現役合格するための〈ハイ・ソサエティ〉のようなものを形成している(ハイ・ソサエティとは「上流社会」「社交界」という意味である。「ハイソ」の語源)。お互いに競い合い、「東大に行くのが当たり前」という雰囲気と、「東大に受かるためのノウハウ」を共有する。悪い言葉を使えば、インサイダー情報を集めまくり、それでメンバー同士でボロ儲けする投資家クラブのようなものである。

そして鉄緑会への通塾資格のある有名進学校に通うために、子どもをエリートにしたい教育熱心な親たちは小学校高学年からSAPIXという中学受験専門塾に通わせる。
要するに私立進学校に通わせるにとどまらず小学校〜高校まで子どもを塾に通わせるなどの多大な教育投資をし、東大に送り出すというルートが、首都圏のエリート社会においてはかなり広範に、そして「公然の秘密」として存在しているのである。

しかし、本当に親子に多大な犠牲と金銭的負担を払わせ、子どもを東大に送り出そうという今の構造は「正しい」のか? そもそもそうやって東大に入った子どもたちに、今認識されているよりも大きな犠牲を払わせてしまう可能性もあるのではないか?
『ルポ塾歴社会』は、そういった観点を丁寧に拾っていくことで、『ドラゴン桜』的な「学歴社会批判批判」の捉え直しを迫っている。

首都圏進学校エリート社会に関係した人にとっても、「こんな構造があったんだ」ということを全然知らなかった外側の人たちにとっても、今の日本エリート社会の構造を知る上で有益な本である。これを読み終わったときに、「東京のエリート校の子たちが羨ましい!」と思うか、「自分は関わりたくない、こんなことは非人間的だ」「自分の人生で関わらなくてよかった」と思うかは読者の判断に委ねられている。
なおこの本の読者は、子どもを中学受験させるべきか悩んでいる、もしくは現在子どもが進学校に在学中のご両親が多いと思うが、「こんなことには関わりたくない/非人間的だ」という感想を抱いた人は同じおおた氏による著作『追いつめる親』もぜひ併読されることをおすすめしたい。

■都心部と横浜圏における〈ハイ・ソサエティ〉の違い

以上がAmazonレビューに書いた内容である。しかし、このブログは自分でサーバー代を払っているものでもあるので、ここからは自分の経験も踏まえつつ、個人の主張を、綺麗事をいっさい抜きにして、思いつくかぎりあらゆる観点から書いてみたいと思う。

まず筆者の属性を明らかにすると、僕は「神奈川男子御三家」と言われる中高一貫進学校(男子校)の出身である。したがって『ルポ塾歴社会』で描かれた鉄緑会のような東京進学校カルチャーの周辺に位置していた。横浜の中心部近くにあり、特に横浜市南部や中部の生徒が多いので、鉄緑会のある代々木にわざわざ通うというのも面倒である。かつ僕の母校は「塾には行かなくていい」ということも言っているし親と子の価値観も他の「神奈川男子御三家」2校に比べて比較的多様で、しかも部活に力を入れていたりするので、東京進学校のメインストリーム・カルチャーに興味を示す人があまり多くないのである。『ルポ塾歴社会』のなかでもこの学校について触れられていて、「あの学校の生徒はあまり通ってこない」という経営者の話が掲載されているが、そのことには上記のような背景がある。

ちなみに横浜近辺の私立進学校の人たちが通う塾は別にあって、「Z会東大マスターコース横浜校」「エデュカ」という塾である。そこでは東京の鉄緑会と同じような〈ハイ・ソサエティ〉、辛酸なめ子氏言うところの「社交界」が形成されているので、実は鉄緑会と同じような構造であるとも言えるだろう。そう、私立進学校の生徒は駿台や河合塾・代ゼミといった一般的に有名な予備校に通う人はそれほど多数派ではないのである。なお都心部でも鉄緑会に類する存在として「Z会東大マスターコース」「SEG」(横浜のエデュカはこのSEGの分校のようなものである)もあるし、本書で言及されている「平岡塾」といったものもそうであると思う。

ここで重要なのは、私立進学校の「情報力ネットワーク」の存在である。一般の人は「大学受験なら駿台・河合塾・代ゼミに行っておけばいいんでしょ」と考えるわけだが、首都圏進学校には「進学校の生徒は鉄緑会、Z会東大マスターコース、SEGとかに行くものだ」という暗黙の規範がある。なお進学校の内部でもその規範の理解については多様性があり、教育熱心な親どうしのネットワークで「東大を目指すなら鉄緑会に通わせなきゃね」などという情報が共有されており、一方でそういった情報に興味のない親にはそういった情報は共有されない(そもそも興味がないので当たり前だが)。

自分のことを言えば、親は「教育熱心で子どもをどうしても東大に行かせたい」というタイプではなかった。なぜなら一流企業サラリーマンや医師・官僚・弁護士などの社会的地位の高い職業に就いているわけではなく、美大卒でアーティスト/作家として生計を立てていて世俗的価値観にあまり興味を持たないタイプだったからだ。僕が中学受験をした理由は、3人兄弟の上二人が公立中学で進学の際に内申点などのことで苦労し、行きたい公立高校の受験資格を与えられなかったりしたことを経験していることが大きい(自分は末っ子)。
横浜北部地域は特に公教育が壊滅的であり、お世辞にも環境が良いとは言えない。横浜北部地域は中学受験率が全国的にもトップレベルであることが知られているが、それは住民の学歴が高いこと、それに反して住民の求めるレベルに見合った公教育が提供されていないことに起因する(あざみ野に慶應の附属小学校「横浜初等部」ができたのにはこういう背景もある)。必ずしも、世俗的な「いい学校、いい会社」教に囚われている人が多いからではなく、「仕方なく」という部分がけっこうあるということは付記しておきたい。

■〈ハイ・ソサエティ〉のもうひとつの側面

さて、うちの親に関してはそういう「情報力」についてはまったく興味がないタイプであった。奴ら自身が、企業名や肩書などの権威的地位に頼らない「アーティスト」的な生き方をしていたからである。このことについてはさらに後ろで詳述する。
そもそもこの本であまり大きくは触れられていない要素として、〈ハイ・ソサエティ〉というもののもうひとつの特性がある。首都圏進学校の生徒たちが通う秘密結社的な塾では、そこで学校を超えて生徒同士が交流することが可能になる。そして首都圏進学校の多くは男子校・女子校である。

―ーそう、塾が「出会いに飢えた男子校・女子校の生徒たちの出会いの場」になるのだ。

多くの中高一貫男子校・女子校の生徒たちは、中3〜高1ぐらいで彼氏・彼女がほしくなり、他校の文化祭に行ったりして出会いを見つけようとする。しかしもっと効率的な出会い方がある。それが「塾」である。塾では文化祭のナンパやナンパ待ちではなく、自然に仲良くなることも可能になる。不思議なことのようで当然のことだが、進学校男子校の生徒は進学校女子校の子を彼女にしたがるし、逆もまたしかりである。
そんな状況に輪をかけるのが親の「情報力ネットワーク」である。塾に行きたがらない子どもに、「他の名門校の生徒たちも来ているんだから、塾でお友達も作れるかもよ」とそそのかす親もいるだろう。そんな親と子の利害の一致が、〈ハイ・ソサエティ〉を生んでいる側面も間違いなくある。

さて、翻ってそんな状況にようやく高2〜高3あたりで気づくのが、「親が世俗的価値観に興味ない層」の子どもである。僕がまさにそうで、「えっ、塾で女子と友達になれるの?」ということに驚くとともに憧れ、塾に行きたくなる。(女子に縁のない男子校生の悲しき性(さが)である。)

しかし親に「塾に行きたいんだけど…」などと言うと、「はあ? アンタ何言ってるの? 私立で高い授業料を払っているのになんで塾にお金かけなきゃいけないの!? そもそも先生も『塾には行かなくていいです』って言っているじゃない!」ということになる。
そうなると、世俗的価値観にまみれた「情報力ネットワーク」の家庭の子たちと、そうでない子たちのあいだで「社交格差」も生まれるのである。要するに、持てるもの(親が教育に惜しみなく投資する家庭)がますます富み、持たざるものとの「貧富」の格差がここにきてさらに拡大する。そしてそれは多くの場合、大学受験の結果にも影響することになる。

だが、そういったミクロ視点から離れてマクロな視点から考えてみるとどうだろう。「私学で高い授業料を払っているんだから、さらに塾にお金をかけるなんてとんでもない」――これは至極真っ当な考え方ではないだろうか。
もちろん社交格差は生まれるのだが、それはあくまでも親のお金で遊んでいるだけのお坊ちゃんお嬢ちゃんの遊びとも言える。そもそも親に私学に行かせてもらっているのにさらに塾代を出させ、そこで出会いを得て彼氏彼女をつくろうという魂胆はひじょーになんというか下品でもある(この言い方には当然ルサンチマンも込められている)。そんなもんいらない!

ちなみに実は、超一流の進学校は受験対策にあまり力を入れないところが多い。実は学校自体が「東大合格◯◯人」という世俗的価値観を最優先しておらず、生徒たちにはもっと多様な生き方をしてほしいと願っていたりするからだ。とはいえ親は一流大学に行ってほしいと思っているので、その隙間に塾産業が入り込むというわけである。

■脇道:東大と一橋の違い

少し脇道にそれよう。僕自身に関しては一橋に現役合格したわけだが、塾に行ったのは高3秋からひとコマだけ。あとは学校の授業や先生への質問、そして自分なりに勉強のやり方を考えて秋から冬にかけて半年ほど集中的に勉強して合格した。
ところがこれは東大ではそうは行かなかっただろうと思う。入試問題に明確な違いがあり、東大はどちらかというと処理速度とミスのなさを競う傾向が強く、カンタンに言えば減点方式であると僕は思った。一方、一橋の入試問題は社会と数学に特に顕著だが、はっきり言って高校生に解かせるには無理難題のような論述問題をふっかけ、ほとんどの人がぜんぜん得点できないなかで、解けるやつは大幅に他との差をつけることができる「加点方式」である。「ウィナー・テイクス・オール Winner Takes All」という言葉があるが、得意科目で圧倒的に差をつけることができるので、例えるなら「世界史は満点、数学は10点」でも合格できる。東大入試はそうではなかった。むしろ鉄緑会のような場所で日頃から鍛え上げ、基礎から積み上げる学力と処理速度の速さのようなものが必要とされるし全科目満遍なく得点しなければならない。「世界史は満点、数学は10点」というようないびつな学力では合格できない(ただしこれは文系に限った話で、理系、特に理1はそうではないようである)。

まあ、「塾には頼らず自分の頭で考えて頑張った」ということには自信を持っているしカッコイイと思うし、高校時代に部活と大学受験勉強をしっかりやった自分のエピソードは先生にも他の親御さんにも大好評だったのはいいのだが、正直、戦いに勝って勝負に負けた感はある。「大学なんてどこだっていいから、俺も高校生活で女子校の子とかと仲良くキャッキャウフフとかリア充とかしたかった…」というのも偽らざる本音である。

■「いい学校、いい会社」の世俗的価値観/「他人は他人、自分は自分」のアーティスト的価値観

さて、うちの親に関してはそういう「情報力」についてはまったく興味がないタイプであった。これは実は、大変大きい問題であるので少し詳しく書いてみようと思う。

小見出しに書いたように、世の中には大きく分けて2つの価値観があるように思う。
ひとつは「いい学校、いい会社」の世俗的価値観である。これは子どもを有名進学校に通わせ、鉄緑会→東大というルートを辿らせるような親にきわめて顕著に表れるものであると思う。
それと対称的なものとして、「他人は他人、自分は自分」のアーティスト的価値観があると思う。僕の両親がそうであったように、自身の社会的地位は必ずしも高いものではないが、自身で「彫刻家になりたい」「建築家になりたい」という目標を少年少女期の早いタイミングで設定し、そこに向かって粛々と自分のキャリアを積み上げる。そこには「誰かに褒められたい」「他人にすごいと思われたい」という自意識はほとんどなく、あくまで内発的な動機付け(「自分の好きな彫刻を作って自分のやりたいことだけでお金を稼げたらいいし、そうやって気楽に暮らしていきたい」)に駆動されている。
どちらが幸福な人生かというと、明確に「後者」であると今の僕は思う。そしてよく彼らが言っていたのがまさに「他人は他人、自分は自分」ということだった。自分が幸せかどうかは自分の判断で決める。他人の勝手な見方や、世俗的権威(ステータス)や、お金によって決められてたまるものか、というわけだ。

しかし、僕は初めから今のように割りきれていたわけではない。個人史的なことでいえば、子どもの頃に「芸術一家の息子」と周りから扱われることに反発心があった。絵や音楽の才能があるわけでもないし、両親の好むファインアート/ハイカルチャーなものと、それに関わっている人たちの安穏とした脳天気な雰囲気、そして競争とは無縁のままヌクヌクと暮らしていることも、あまり好きではなかった。

そんなことを思っていた上に、(比較的ましであるとはいえ)「いい学校、いい会社」のパラダイムのメインストリームに位置する進学校で6年間過ごしたことによって、余計にこじれていった。したがって「いい大学」には行きたいと思ってそうしたが、やはり18歳前後には苦悩が大きかったように思う。今考えると本音では両親のような自由な生き方に憧れつつも、自分にはその才能がないと思っていたこと、そして芸術家界隈の脳天気な雰囲気への反発から、一時期は『ドラゴン桜』的な再帰的保守主義/競争主義の価値観にシンパシーを抱いていた。
しかし、やがて自分のなかで矛盾が最大限に拡大していき、「世俗的価値観を征服するためには東大に行っていたほうがいい。だから一橋に通いながらも文系最高峰の東大法学部を目指そうか」と思っていた時期もあったが、そうしようと思ってみてもどうしてもやる気が出なかった。当たり前で、本音ではそういう世俗的価値観が結局あまり好きでなく、弁護士にも政治家にも官僚にも心の底では興味がなかったからである。
そこで一旦心が折れ切った後、救いになったのがすぐ目の前にありながらも視界に入っていなかった「アーティスト的価値観」である。ある意味では僕の親は非常に非協力的ではあったし、親としての教育力もまるでない不完全な親だったが(そもそも完璧な親なんていないのだが)、その生き方が身近にあったのはラッキーだった。「他人は他人、自分は自分なんだ」「親の考えや周囲の価値観に左右される必要なんてない。自分の生き方は自分で決める」――そういうふうに思えるようにだんだんなりはじめたのは、自分が昔から反発していた親の姿が身近にあったからだったというのは、けっこう皮肉なことではある。

ちなみに誤解のないよう書いておくと、「アーティスト的価値観」を最初から盲目的によいものだと信じ込むというのも良くない。基盤の基盤に、自分の内側から湧いてくる気持ちがあって初めて、この「他人は他人、自分は自分」という考え方は生きてくる。言葉を知るだけではなく、心の底から理解し本音でそう思えないかぎりは、「アーティスト的価値観で生きる」という技法は身につけられないだろう。だから表面だけの「アーティスティックな生き方の追求」(たとえば、「変てこな生活をしたりすることで他人からアーティスティックだと思われたい」、とか)は、表面的であり外発的であるという意味で鉄緑会的なパラダイムと何の違いもないことは強調しておきたい。

■「権威主義」という問題系

さて、『ドラゴン桜』のような再帰的保守主義は、本音ベースの語りを引き出したということには一定の価値があったが、実は実際に首都圏進学校に在学しているような子どもにはあまり良くない影響を与えたのではないかと思う。「学歴がすべて」「東大以外は大学ではない」という思想を、現にそういう風潮がある場所でさらに強化しただけだったのではないか。

特に文系の東大卒の知り合いに強く感じることだが、彼らは世俗的価値観に強固に染まっていて、他人を見下すことが非常に多い。もちろん個体差があるし、東大文系卒の人にもすごく好きな人はいる。しかし、何となく傾向としてそういう部分を感じてしまう。
そして彼らは、「自分は頭がいい」と思っているのに女性には全然モテなかったりする(僕には東大卒には男性の知り合いしかいません)。これは別に非モテ差別で言っているのではなく、そもそも東大卒というのは普通に考えればなかなかのモテ要素であり、かつ本当に「頭がいい」のであれば、やろうと思えば女性に好感を与えるような言動は簡単に出来るはずである。しかしモテない、ということには彼らのもつ「偏狭さ」が関係しているだけだと思うのだ。まあ、こういうことを言うのは、僕がかつて世俗的価値観に強固に染まっていたせいで、ことさら敏感になっているという部分もあるとは思うが……。

要するに「東大卒の俺はすごい」というプライドに囚われていて、非東大卒(と言ってもそういう人が世の中では99%である)の人の優秀なところとか、非東京進学校出身者のすごい人から学ぶことができない。もともとの能力が高くても、プライドに囚われて柔軟な考え方ができない/世俗的価値観の外側のものの素晴らしさに対するアンテナが非常に低いのである。

一方で彼らの特徴は「権威主義者」でもあるところだ。学歴が低くても社会的権威が高い人には簡単にひれ伏すし、崇めもする。彼らがなぜひれ伏すのかというと、その「社会的権威の高い人」の中身を見て判断しているのではなく、「社会的権威が高い」ということだけでその人のことを判断しているからである。「東大卒だからすごい」というのと同じ思考法だ。
権威主義に染まっていると、世の中そこらじゅうに転がっている素晴らしいヒトやモノやコトの価値に気づきにくい=世界が狭く、人生を楽しむためのキャパシティが非常に小さいということにもつながってしまう。そしてそれは「自分と違う他者と良好な関係を取り結ぶ」という社交能力の低さにもつながってしまう。これは現に10代〜20歳前後までの僕がそうだったので確かに言えることだ。

■まとめ:「自分は自分」と強く思えること

さて前項で述べたことは簡単だ。問題は何かというと「自分の頭で考えられない」ということに尽きる。要領の良さ、訓練による処理速度の速さだけで人生全般の問題に対処することは難しい。
権威主義的な傾向についても、「権威者にひれ伏す」というのは要するにその「スゴイ人」のどこがどうスゴイのかを自分で判断できていないから、わかりやすい権威にひれ伏すことになってしまう。その「スゴイ人」に認められたいと思っても、スゴイ人は「自分の頭で考えられているからスゴイ」のであって、そういう人は「自分の頭で考えられない人」を認めるということはまずないだろう。

最後に、以前僕が母校に教育実習に行ったときのことを少し書いてみたい。

母校は前述したように「神奈川男子御三家」の一角である。そこで高1の倫理社会を担当した。僕が教える範囲は仏教だったので仏教について一生懸命勉強して授業案をつくり……ということをやったわけだが、まず授業の1時間目に各クラスで「手塚治虫の『ブッダ』って読んだことある?」と聞いて回った。この高校は1学年6クラスで、中3・高1では1クラスだけ成績優秀者が集まる「選抜クラス」を設けているのだが、なんと『ブッダ』を読んだことのある生徒の割合は、その「選抜クラス」がダントツで低かったのである(他のクラスの読んだ割合はほぼ横並び)。
もちろん個体差はあると思うが、高1時の成績優秀者は親が教育熱心な場合が多く、それこそ鉄緑会的なものに親和性のある層なわけで、やっぱりか……と思った。

もちろん決して子どもたちが悪いわけではない。親も悪くないかもしれない。しかし、手塚治虫の『ブッダ』のようなマンガ史上に残る傑作に対してアクセスが悪いというのは象徴的なことだと思う。『ブッダ』は、もちろん仏教の創始者ゴータマ・ブッダの伝記なのだが、様々な登場人物が出てきて冒険活劇を繰り広げる『三国志』のような内容で、めちゃくちゃ面白いので、下のAmazonリンクでまとめ買いするか図書館で借りて読むべし。

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ブッダ全12巻漫画文庫 (潮ビジュアル文庫)

そしてもうひとつ。僕は一橋在学中ということで、受験を控えた高3の国立文系クラス(東大文系クラス、国立文系クラス、私立文系クラスの3つがある)で話をしてくれないかと言われ、呼ばれて話をしてきた。このクラスでは半分ぐらいが一橋を受けるからである。
そこでは「一橋ってこういう大学ですよ、みなさんあんまり期待しないように」という話と、「じゃあ楽しくするにはどうしたらいいのか?」という文系大学生が大学生活を楽しむためのコツのようなことを話した。それもとても受けがよかったと思うのだが、最後に、「でもね、一橋とかに行くのもいいんだけど、どこの大学に行ったってそこまで変わるもんじゃない。どの大学に行くかよりも、その行った大学で自分が何をするか、何にどう取り組むかのほうがよっぽど大事なんだ。だから一橋とかに落ちたっていいし、行った先の大学で自分の頭で考えて頑張るのが一番だ」という旨のことを言った。
僕を呼んでくれた担任の先生は、もちろん進学校の高3担任なので、苦笑いしていたが、なんとなく生徒たちには理解してもらえたように感じた。僕が高3の頃だったら「こいつ自分が一橋のクセに綺麗事言いやがって」と反発していたかもしれないが、予想外に素直に受け取ってくれた生徒が多かったんじゃないかと思う。だから、自分の母校って、意外と進化しているんじゃないかと感じた。

そう、鉄緑会的なパラダイム、「いい大学に行けさえすればいい」という感覚は、そういう価値観に染まっていそうな場所でさえ、少しずつ中和され始めているのかもしれない。

とはいえ首都圏進学校の出身者たちと、権威主義や世俗的価値観の結びつきはいまだにすごく強いようにも思う。権威主義や世俗的価値観から抜けだして自分の頭で考えられるようになること、そして「自分は自分」と強く思えること。そういう強さを、特に首都圏の進学校に通っている/そこを卒業したような子たちが一人でも多く身に付けて、親や周囲や世間の価値観に「人生を生きさせられる」のではなく、「自分で自分の人生を生きられる」ようになるといいなと思う。

(おわり)

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