さて前回から毎週、固定費について考えるブログを出していますが、今回はやや箸休め的に、情報との接し方について考えてみたいと思います。(前回まではこちらへ→①生活そのものを『ファイト・クラブ』のタイラー・ダーデン的に考える、②毎月かかる固定費のうち”水道光熱費”の使い方を考える(あるいは電力自由化について))
サブスク課金で格差が拡大する?
ここまで資産運用めいたことについて考えてきていますが、投資だの資産運用だのは、『ファイト・クラブ』やタイラー・ダーデン的なものからは対極にあるように思えます。でも、むしろお金に働かせずに自分が働かされ、無駄な出費をし続けている(要らねーもんを買わされてる)ことのほうが、よほど『ファイト・クラブ』のエドワード・ノートンの初期状態だなと思うわけです。
最近自分のなかで大きかったのは、朝日新聞デジタル(ベーシックコース、月額980円)を解約したことでした。朝日新聞社には知人が何人かいるので心苦しいところもあるのですが、それよりも朝日新聞社員よりもはるかに収入の少ない自分が、なぜ彼らの高給を支えなければいけないのだろう? という違和感が膨らんできてしまったのです。ちょっとヤバい思想っぽいですね。
ただ、これって当たり前のようでいてすごい真実だなと思ったんですけど、貧乏な人が富裕な人に課金すると素朴に格差が拡大するんですよね。こういう「お金のない人が、すでにお金のある人に積極的に貢いでいる」という構図って、身の回りを見渡すとめちゃめちゃたくさんあるなと。もちろん納得感のある製品やサービス、自分が本当に好きなものだったらいいですが、そうでないものもたくさんあって、その筆頭が自分のなかでは新聞のデジタル購読だったのかなと。
「クリエイターの自意識に付き合わされて消費させられる」という構造
この種の違和感をいちばん強く感じたのが、2021年に庵野秀明監督の『シン・エヴァンゲリオン劇場版:||』を観たときでした。もちろん世評と同じく僕もすごく感動したのですが、しばらく経って「そもそもなぜ自分が、お金を払って、庵野監督の傷つきとその癒やしの過程を観させられなければならないのだろう?」と思うようになってしまったのです。
たとえば最近の『ラーゲリより愛を込めて』だったら納得感がすごくありました。シベリア抑留や戦争についてエンタメの力を形態をとって伝えたいという気持ちはわかりますし、素朴にいい作品でした。『ラーゲリ』は一言でいえば他者に向けた作品だった。だけど『シン・エヴァ』は、徹底的に矢印が「庵野さん」に向いている。僕も庵野さんのライフヒストリーはそれなりに知っているので、その場では感動しましたが、あとで冷静になって「俺は何を観させられてたんだろう?」と我に返ってしまったのです。
ちょっと前にこんなことをツイートしたのですが、これがプチバズりしていました。
「オタクコンテンツ」とされるものは、鑑賞者の才能コンプレックスを大いに刺激しているところが大いにあるように思うのです。才能があるやつは偉く、才能がない消費者は価値がないので、オタクは消費者として売れっ子クリエイターに貢がなければならないと。こう表現すると、何とも不健康な世界に思えてきてしまいます。
そういえば、よく考えると映画『ジョーカー』も、そういう感じの作品だったのかもしれません。
コメディアンを目指しているが才能のない主人公のアーサーは、才能のあるテレビ司会者のマレーに侮辱されたと感じ、番組の生放送中にマレーを殺害してしまいます。これは「消費者」「養分」として下位に置かれ続けることへの怨嗟であったのかもしれません。もちろんアーサーの行為には賛同できませんが、僕がここで書いているような考え方が先鋭化すると「ジョーカー」になってしまうかもしれない。それはそれで、非常に恐ろしいことだと感じます。
ここで言いたいのは、要するに「自分の些細な違和感でも、それをやっぱり大切にしたほうがいいのではないか」ということです。『シン・エヴァ』の事例がまさにそうなのですが、「他人の自意識の傷つきと癒やし」みたいなことに、本人の直接の友人知人でもない自分が興味を持たされ、お金を払わされる、しかもその「他人」はお金にも承認にも困っていない売れっ子クリエイターだったりするわけで、その状況って冷静に考えて意味不明でもあるなと。
最近、codoc有料マガジンを月額330円→150円に改訂しました。なぜかというと、ここで書いていることと330円という値段が矛盾しているように思ったからです。150円ならジュース1本分ぐらいの値段なので、まあギリギリありかなと思った次第です。ただ、今後もっと下げるかもしれません。
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