教育ジャーナリスト・おおたとしまさ氏の『ルポ 塾歴社会 日本のエリート教育を牛耳る「鉄緑会」と「サピックス」の正体』を読んだ。この本は、「知る人ぞ知る」という状態であった日本の若年エリート社会を見事に描き出したなかなか問題提起的な著作であると思う。
おおたとしまさ『ルポ 塾歴社会 日本のエリート教育を牛耳る「鉄緑会」と「サピックス」の正体』(幻冬舎新書)
近年、辛酸なめ子氏の『女子校育ち』のような、東京の進学校に通うおぼっちゃま・お嬢様たちの生態を描いた本が立て続けに出版されている。
たとえば開成高校野球部の内幕を描きドラマ化もされた『弱くても勝てます』は「アマチュア野球の弱者の戦略論」として注目されたが、実際の内容は「野球部を通して開成高校の生徒たちの生態を描いた」という点が面白い本であった。
それは一旦おいておくとして、このおおた氏による『ルポ塾歴社会』を読み解く際には、いくつか必要な前提があるのでそれを列挙してみたい。
学歴社会批判という文脈
日本社会において「学歴社会批判」は根強くある風潮だ。
たとえば大学生の就職活動において企業が学生をふるい分ける際、大学名を裏の選考基準として用いている(いわゆる「学歴フィルター」)。その学歴フィルターにかからない大学の学生からは「学歴で人を差別するのは不公平だ」という声が上がる。企業は学歴フィルターを用いていることはおおっぴらにできないので「うちの会社は選考基準に学歴を用いていません」ということを表向きアピールしたりする。
一方でその学歴フィルターの内側にいる学生たちは、「学歴で差をつけるのは当たり前」という感覚を持っていて恩恵も受けているので、学歴差別そのものには異を唱えずむしろ「何も言わずに利用する」。日本は「学歴で差別されるのは当たり前でしょ」ということをあからさまに言えない社会であると感じているからだろう。
学歴社会批判批判という捉え返し
そもそも「学歴差別」というものには何の正当性もないわけではない。シグナリング理論など社会科学のなかではいろいろな研究があるが、企業内部の経験知としても「学歴である程度のフィルタリングを行うのは、採用活動において一定程度以上の合理性がある」ということが広く認識されている。
しかし実際に運用されていることとは別に、日本の言論空間では学歴差別はタブーである。そういう状況に対して「学歴差別は当たり前」ということをカウンター的な言説として打ち出す動きがあり、その象徴的な存在が、東大受験を描き2005年にはドラマ化もされた漫画『ドラゴン桜』だった。
『ドラゴン桜』は「戦後民主主義的な教育観に対するアンチテーゼ」という側面をもった作品だ。戦後民主主義的な教育観の現れのひとつとして「人間を学歴で差別するのは非人間的だ。学歴なんかよりも大事なこと、教育が実現すべき価値がある」という言い方がある。しかしドラゴン桜の主人公・桜木は「そんなのは綺麗事だ。実際に日本社会には厳然として学歴差別があるのだから、そのルートに乗っかった上で上手く活用すべきだ」ということを説く。この主張は、論理的には、かなりの部分で正しいのだと思う。
「さらにその先」を再考する必要性
しかし『ドラゴン桜』では描かれることのなかったのは、実際の東大受験においては漫画のように無名進学校から東大に合格するのはかなり難しい、ということだ。東大合格者のほとんどは、東京や関西の有名進学校から輩出されているという現実がある。
そして、それに大きく寄与しているのが「鉄緑会」という有名進学校在学者のみが在籍を許される東大受験専門塾の存在である。そこでは東京の進学校トップ校の生徒たちが集まり、東大に現役合格するための社交界=〈ハイ・ソサエティ〉を形成している。お互いに競い合い、「東大に行くのが当たり前」という雰囲気と、「東大に受かるためのノウハウ」を共有する。まあ悪意のある表現をすると、インサイダー情報を集めメンバー同士で儲ける投資家クラブのようなもの、と言ってしまっても言い過ぎではない。
そして鉄緑会への通塾資格のある有名進学校に通うために、子どもをエリートにしたい教育熱心な親たちは小学校高学年からSAPIXという中学受験専門塾に通わせる。
要は、私立進学校に通わせるにとどまらず小学校〜高校まで子どもを塾に通わせるなどの多大な教育投資をし、東大に送り出すというルートが、首都圏のエリート社会においてはかなり広範に、公然の秘密として存在している。
しかし、本当に親子に多大な犠牲と金銭的負担を払わせ、子どもを東大に送り出そうという今の構造は「正しい」のか? そもそもそうやって東大に入った子どもたちに、今認識されているよりも大きな犠牲を払わせてしまう可能性もあるのではないか?
『ルポ塾歴社会』は、そういった観点を丁寧に拾っていくことで、『ドラゴン桜』的な「学歴社会批判批判」の捉え直しを迫っているのだろう。
首都圏進学校エリート社会に関係した人にとっても、「こんな構造があったんだ」ということを全然知らなかった外側の人たちにとっても、今の日本エリート社会の構造を知る上で有益な本だと思う。
都心部と横浜圏における〈ハイ・ソサエティ〉の違い
以上がAmazonレビューに書いた内容だった。このブログでは自分の経験も踏まえつつもうちょっと書いてみたい。
まず、筆者は「神奈川男子御三家」と言われる中高一貫進学校(男子校)の出身であり、したがって『ルポ塾歴社会』で描かれた鉄緑会のような東京進学校カルチャーの周辺に位置していた。ただ、横浜の中心部近くにあり、特に横浜市南部や中部の生徒が多いので、鉄緑会のある代々木にわざわざ通うというのも面倒である。かつその学校は「塾には行かなくていい」ということも言っており、親と子の価値観も他の「神奈川男子御三家」2校に比べて比較的多様で、部活に力を入れていたりするので、東京進学校のメインストリーム文化にはあまり興味を示さないのがひとつの特徴になっているといえる。『ルポ塾歴社会』のなかでもこの学校について触れられていて、「あの学校の生徒はあまり通ってこない」という経営者の話が掲載されているが、そのことには上記のような背景がある。
ちなみに横浜近辺の私立進学校の人たちが通う場所は別にあって、「Z会東大マスターコース横浜校」「エデュカ」という塾である。そこでは東京の鉄緑会と同じような〈ハイ・ソサエティ〉が形成されているので、実は鉄緑会と同じような構造であるとも言える。私立進学校の生徒は駿台や河合塾・代ゼミといった一般的に有名な予備校に通う人はそれほど多数派ではない。
なお都心部でも鉄緑会に類する存在として「Z会東大マスターコース」「SEG」(横浜のエデュカはこのSEGの分校のようなものである)もあるし、本書で言及されている「平岡塾」といったものもそうである。
なぜそういうふうになるのかというと、私立進学校の「情報力ネットワーク」ともいうべきものの存在が大きい。一般の人は「大学受験なら駿台・河合塾・代ゼミに行っておけばいいんでしょ」と考えるわけだが、首都圏進学校には「進学校の生徒は鉄緑会、Z会東大マスターコース、SEGとかに行くものだ」という暗黙の規範があり、教育熱心な親のあいだで共有されている。
ただし、進学校の内部でもそういった謎の規範については多様性があり、「どうでもいい」と考える親も、周囲を見渡していたかぎりでは一定数いるようである。
自分の親は「教育熱心で子どもをどうしても東大に行かせたい」というタイプではなかった。一流企業サラリーマンや医師・官僚・弁護士などの社会的地位の高い職業に就いているわけではなかったからだ。美大卒でアーティスト/作家として生計を立てていて世俗的価値観にあまり興味を持たないタイプである。僕が中学受験をした理由は、3人兄弟の上二人が公立中学で進学の際に内申点などのことで苦労し、行きたい公立高校の受験資格を与えられなかったりしたことを経験しているのが大きい(自分は末っ子)。
横浜北部地域は特に公教育がひどい。横浜北部地域は中学受験率が全国的にもトップレベルであることはよく知られていると思うが、それは住民の学歴が高いこと、それに反して住民の求めるレベルに見合った公教育が提供されていないことに起因する(あざみ野に慶應の附属小学校「横浜初等部」ができたのにはこういう背景もある)。
〈ハイ・ソサエティ〉のもうひとつの側面
そもそもこの本であまり大きくは触れられていない要素として、〈ハイ・ソサエティ〉というもののもうひとつの特性がある。首都圏進学校の生徒たちが通う秘密結社的な塾では、そこで学校を超えて生徒同士が交流することが可能になる。そして首都圏進学校の多くは男子校・女子校である。端的に言って、塾が「出会いに飢えた男子校・女子校の生徒たちの出会いの場」になるわけだ。
多くの中高一貫男子校・女子校の生徒たちは、中3〜高1ぐらいで彼氏・彼女がほしくなり、他校の文化祭に行ったりして出会いを見つけようとしたりする。しかし「塾」であれば自然に異性と知り合いになれる。
そして親の「情報力ネットワーク」が輪をかける。塾に行きたがらない子どもに「他の名門校の生徒たちも来ているんだから、塾でお友達も作れるかもよ」とそそのかす親もいるらしい。そんな親と子の利害の一致が〈社交界〉を生んでいる。
そして、世俗的価値観にまみれた「情報力ネットワーク」の家庭の子たちと、そうでない家庭の子たちのあいだで「社交格差」も生まれる。
まあ、それは非常にミクロな視点だ。もっとマクロな視点から考えてみると「私学で高い授業料を払っているんだから、さらに塾にお金をかけるなんてとんでもない」という親のほうが、ある意味ではまともな考え方であるとも思う。
ちなみに実は、超一流の進学校は受験対策にあまり力を入れないところが多い。実は学校自体が「東大合格◯◯人」という世俗的価値観を最優先しておらず、生徒たちにはもっと多様な生き方をしてほしいと願っていたりするからだ。とはいえ親は一流大学に行ってほしいと思っているので、その隙間に塾産業が入り込むというわけである。
いい学校、いい会社」の世俗的価値観/「他人は他人、自分は自分」という独自路線の価値観
世の中には、大きく分けて2つの価値観があるように思う。
ひとつは「いい学校、いい会社」の世俗的価値観である。これは子どもを有名進学校に通わせ、鉄緑会→東大というルートを辿らせるような親にきわめて顕著に表れるものであると思う。
それと対称的なものとして、「他人は他人、自分は自分」という独自路線の価値観があると思う。自分の両親が非常に典型的だったと思うのだが、彼らは自分自身で「彫刻家になりたい」「建築家になりたい」という目標を少年少女期の早いタイミングで設定し、そこに向かって粛々と自分のキャリアを積み上げた。「誰かに褒められたい」「他人にすごいと思われたい」というよりも、あくまで内発的な動機付け(「自分の好きな彫刻を作って自分のやりたいことだけでお金を稼げたらいいし、そうやって気楽に暮らしていきたい」)に駆動されている。
よく彼らが言っていたのが「他人は他人、自分は自分」ということだった。自分が幸せかどうかは自分の判断で決める。他人の視線や、世俗的権威(ステータス)や、お金によって決められるわけではない、という考え方だ。
ちなみに、そういった独自路線の、ある種のアーティスティックな価値観を最初から盲目的によいものだと信じ込むというのも良くない気がする。基盤の基盤に、自分の内側から湧いてくる気持ちがあって初めて、この「他人は他人、自分は自分」という考え方は意味をもつように思う。
「権威主義」という問題系
『ドラゴン桜』のような再帰的保守主義は、本音ベースの語りを引き出したということには一定の価値があった。しかし実際には、首都圏進学校に在学しているような子どもにかぎっては、むしろ「東大に行くことがすべて」という思想を、さらに強化したという側面も確かにあった。
特に文系の東大卒の知り合いに強く感じることだが、彼らは世俗的価値観に強固に染まっていて、他人を見下す人がしばしば見られる。まあ僕の知り合いがたまたまそういう人が多いだけで、自分の交友関係にこそ問題があるのかもしれない。もちろん個体差がある。ただ、何となく傾向としてそういう部分を感じてしまう。
そして彼らは、「自分は頭がいい」と思っているのに「モテない」という悩みを抱えていたりする。これは別に非モテ差別で言っているのではなく、そもそも東大卒というのはプラス要素であり、かつ本当に「頭がいい」のであれば、やろうと思えば女性に好感を与えるような言動は簡単にできるはず。しかしモテない、ということには彼らのもつ「偏狭さ」が関係しているだけだと思えてしまう。
要するに「東大卒の俺はすごい」というプライドに囚われていて、非東大卒(と言ってもそういう人が世の中では99%である)の人の優秀なところから学ぶことができない。もともとの能力が高くても、プライドに囚われて柔軟な考え方ができない/世俗的価値観の外側のものの素晴らしさに対するアンテナが非常に低いというふうに思えてしまう。
彼らの特徴は「権威主義者」でもあるところだ。学歴が低くても社会的権威が高い人には簡単にひれ伏す。彼らがなぜひれ伏すのかというと、その「社会的権威の高い人」の中身を見て判断しているのではなく、「社会的権威が高い」ということだけでその人のことを判断しているからなんじゃないかと思えてくる。
権威主義に染まっていると、素晴らしいヒトやモノやコトの価値に気づけず、世界が狭く、人生のキャパシティが非常に小さいということにもつながってしまう。そしてそれは「自分と違う他者と良好な関係を取り結ぶ」という社交能力の低さにもつながりうる。結局「自分の頭で考えられない」ということに尽きる。要領の良さ、訓練による処理速度の速さだけで人生全般の問題に対処することは難しい。
権威主義的な傾向についても、「権威者にひれ伏す」というのは要するにその「スゴイ人」のどこがどうスゴイのかを自分で判断できていないから、わかりやすい権威にひれ伏すことになってしまう。その「スゴイ人」に認められたいと思っても、スゴイ人は「自分の頭で考えられているからスゴイ」だけではないか。
おわりに
以前僕が母校に教育実習に行ったとき、高1の倫理社会を担当することになって、僕が教える範囲は仏教になった。最初は「仏教とかマジでわからないんですけど……」と思ったが、とりあえずは仏教について一生懸命勉強して授業案をつくった。
で、各クラスでの授業の1時間目に「手塚治虫の『ブッダ』って読んだことある?」と聞いて回った。この高校は1学年6クラスで、中3・高1では1クラスだけ成績優秀者が集まる「選抜クラス」を設けているのだが、なんと『ブッダ』を読んだことのある生徒の割合は、その「選抜クラス」がダントツで低かった(他のクラスの読んだ割合はほぼ横並び)。
個体差はあると思うものの、高1時の成績優秀者は親が教育熱心な場合が多い。その選抜クラスで手塚治虫の『ブッダ』のようなマンガ史上に残る傑作に対してアクセスが悪く、逆に鉄緑会的な教育を「わりとどうでもいい」と思っている家庭のほうが読んでいるのだ。端的に言って『ブッダ』を読んでいる家庭が少ないというのは、「親の教育が悪い」と言わざるをえない。
『ブッダ』は、もちろん仏教の創始者ゴータマ・ブッダの伝記なのだが、様々な登場人物が出てきて冒険活劇を繰り広げる『三国志』のような内容で、めちゃくちゃ面白いので、今すぐ下のAmazonリンクでまとめ買いするか図書館で借りて読むべきである。
それと、「せっかく一橋にいるんだから」と、受験を控えた高3の国立文系クラス(東大文系クラス、国立文系クラス、私立文系クラスの3つがある)で話をしてくれないかと言われ、呼ばれて話をしてきた。このクラスでは半分ぐらいが一橋を受ける。
そこでは「一橋ってこういう大学ですよ」「田舎なので期待しないように」的なニュアンスの話と、「じゃあ楽しくするにはどうしたらいいのか?」という文系大学生が大学生活を楽しむためのコツのようなことを話した。で、「一橋とかに行くのもいいんだけど、結局どこの大学に行こうが、そこで何にどう取り組むのかのほうが大事なんじゃないかと思ってる」ということを喋った。「いい大学、いい会社」を信じているはずの生徒たちにそんなことを言うのは変かもしれないが、意外とその話も彼らはすんなりと受け止めてくれたように感じた。
まあ、権威主義や世俗的価値観から抜けだして自分の頭で考えられるようになること、そして「自分は自分」と強く思えることはふつうに大事だ。親や周囲や世間の価値観に「人生を生きさせられる」のではなく、「自分で自分の人生を生きられる」ようになることが、一番大事なことなのではないかと思う。
(おわり)
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