感情のコントロール

アイデア

2週間ぐらい前に終えているはずの仕事がまだ終わっていない。早く終わらせようとデスクに座っているのだが、なかなか進まない。あまりに毎日やりすぎているのかもしれない。

ちょうど、仕事で大学の先生とやりとりしていて、「たまには休んでください」という言葉をもらった。「まったく何もやらない日」、ただ単に自分を甘やかすという時間をとっていないので、それが良くなかったかもしれない。まあ、甘やかすこともありなのかも。

ただ、ブログを書くことは(特殊かもしれないが)自分にとってはけっこう休まる時間である。なので昨日あったことを少し書いてみたい。

たまたま昨日、昔からの友達からいきなり電話がかかってきた。いつも急に電話してくる奴なのである。で、話してみると、結婚を迷っていて、いろんな人に相談しているとのこと。

結局4時間くらい話してしまい、いろんなトピックが出てきたが、そのなかで自分の口からしばしば出てきたのが「感情のコントロール」ということだった。

僕はリアルの世界では、以前に比べてかなり感情をコントロールできるようになったと思う。もともと感情が大きいタイプのようで、以前はそれをそのまま人前で出してしまい、たくさん失敗をした。

感情のコントロールというのは、練習が必要だと思う。それを僕は、その電話で「精神修養」と言っていた。想定外の事態が起こったときに、瞬間的に、動物的に反応しない。いろんな知識をつけたり、他の人の考え方を知っていく努力をしたり、経験を積むことで、「ああ、これはこのパターンに近いかな」ということがだんだん分類できるようになってくる。そうすると的外れだったり、物事を前に進めないような言動をしてしまう可能性を、少しずつ減らしていけるようになると思う。

学生時代に「就活うつ」のような状態になっていたとき、大学の学生相談室でカウンセリングを受けていた。そのカウンセリングは正直自分にとってとても前向きなものだったのだが、あれは何だったんだろうと思って後で調べてみたら、「認知行動療法(CBT)」というものだったらしい。

感情をコントロールするために、即物的には、一人で運動をする、気分転換の方法を複数持っておいてそれを予定しておく、みたいなことが有効だ。これは認知行動療法の「行動療法」という部分である。

しかし行動療法だけでは十分ではなく、「認知」も重要である。カウンセリングルームではしばしば「リフレーミング」と言って、クライアントが自分の認知を言葉にし、カウンセラーがその「認知の歪み」を補修すべく援助してくれる。前向きに人生を歩んでいくことのできるストーリーを再構築する手助けをしてくれるのだ(いわゆるナラティブ・アプローチ)。

認知をうまくできるようになるには、まさに修養が必要になる。自他が発する言葉に対してリフレーミングをしていくことがひとつ。もしくはリフレーミングができる仲間と対話していくというやり方もできる。ただ僕は、認知の部分は自分でやっていく部分もかなり大きいと感じる。

認知行動療法のベースになっているのはストア哲学だ。ソクラテスやプラトンを祖とし、ゼノンにはじまり、代表的なのはセネカ、エピクテトス、マルクス・アウレリウスなどである。まあ、正直このあたりは勉強中なので、まだ詳しい解説はできない。

さしあたって言えるのは、自分の場合、リアル世界、友達や家族関係、仕事関係などではかなり「感情のコントロール」ができるようにはなってきている……のだけれど、問題はバーチャル世界である、ということ。Twitterやブログなど、メタバース的な、リアルとは少し遊離した世界。

前に人に言われたのが、「中野くんはリアルで会うと穏やかだけど、Twitter上だと激しい人に見えるよね」ということである。他にも、「もっと恐い人だと思ってました」と言われたこともあった。

自分のなかではこれまで、「リアルとバーチャルがあったらリアルのほうが重要で、リアルでは言葉だけでなく振る舞いのレベルで、できるかぎりの配慮をする」という重み付けをしてしまっていた。しかし今のメタバース上の自分の人格は、総合性をもったリアルの人格からはなかなかに遊離してしまっているようで、それは実は問題かもしれない。なぜなら、取材記事や編集した書籍は僕の「作品」とあまり思われない一方で(その点は正直大いに異論があるのだが)、ブログやTwitterなどは僕のパーソナリティが最もよく出た「作品」だと一般に認識されてしまうからだ。本当は前者の方を注意深く見てほしい気持ちがあるが、世間一般で後者が重視されてしまうのは仕方がないところがある。

リアルとメタバース上の人格の乖離。その原因は、メタバース上での僕の言葉の使用がどうも甘いことにあるらしい。実はこの問題は、取材対象がいない(だから直接的に他人に迷惑をかけることのない)自分の連載などでもちょっと似たところがある。

仕事で文章を書くとき(特に取材対象がいるとき)は、慎重に言葉選びをしていると思う。自分の選択で相手に迷惑をかけたくないからだ。一方、Twitterやブログなどのメタバースでは、「だって無料なんだし、あんまり時間をかけてもしょうがないし、責任を取るのは自分だけで済むし、パッパと出しちゃおう」と思っていた。そうなると、どうやら「感情が乗りすぎる」ケースがあるようだ。要するにメタバース上の自分は、あまり感情のコントロールをしていないし、できていない。2ちゃんねるやmixiの時代のノリを無反省に引きずってしまっている可能性がある。

感情のコントロール――特にメタバース上での。これまでは、「仕事でもないのに面倒くさい」という思いが正直あった。まあ、それはそれで、一面の真実ではある。もっと言えば、言葉に気をつけすぎると何も出てこなくなる、ということもある。結局は、程度問題である。

言葉は、魔法をかける呪文のようなものだと思う。人を勇気づけたり元気にしたりすることもできるし、反対に人から体力的・精神的エネルギーを奪うこともできてしまう。もしくは、対話によってそのどちらでもない批評的な言葉が紡ぎ出される、ということもあるかもしれない。

思うに、「感情を乗せることに気をつけた言葉」を発することは、思ったよりもそこまで難しいことでもない。それこそ精神修養の対象とする範囲を拡大すればいい。

また、「資本主義システムに乗っているときだけ自分の言葉を大切に使う」という態度は、もしかしたら「感情の劣化(Cf.宮台真司)」に陥ってしまっていたのかもしれない。資本主義批判・消費社会批判的な観点を大切にしていると自認していながら、実は自分は深いところで資本主義的な価値観を内面化してしまっていたかもしれないのだ。

自分の課題は、リアルの場や仕事の場ではない場所、メタバース的な場所での言葉の使用である。これは、今まで気づかなかった(気づきたくなかった)ことだ。感情に乗っ取られるのではなく、感情を(ある程度は)コントロールし、言葉の社会的な性格を(メタバース的な場所であっても多少は)意識しながら言葉を用いること。このあたりのことを、今後は少し気をつけてみたいと思う。(了)

編集者、ライター。1986年生まれ。2010年からカルチャー誌「PLANETS」編集部、2018年からは株式会社LIGで広報・コンテンツ制作を担当、2021年からフリーランス。現在は「Tarzan」(マガジンハウス)をはじめ、雑誌、Webメディア、企業、NPO等で、ライティング・編集・PR企画に携わっています。
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