今回は、身体のトレーニングと、それに限らない「習慣化」ということについて整理してみたいと思う。
僕は最初の緊急事態宣言でジムを使えなくなったことをきっかけに、ジムを完全にやめて自重トレを始めた。やり方は、密かなベストセラーであるポール・ウェイドの『プリズナートレーニング(原題はConvict Conditioning コンヴィクト・コンディショニングなので、以下CCと表記する)』に準拠している。
取り組んでいるのは、下記の4種目。
- プッシュアップ
- スクワット
- プルアップ
- レッグレイズ
CCではこの4種目が細かく10ステップに分かれていて、最初のほうのステップはかなり簡単な「体操的」な動きだ。ステップが上がるにつれて難しくなっていく。実は上記以外に「ブリッジ」「ハンドスタンドプッシュアップ」の2種類があって、それらをあわせてCCでは「BIG6」と言っている。だがポール・ウェイド曰く、ブリッジの場合はスクワットとレッグレイズのステップ6、ハンドスタンドプッシュアップの場合はプッシュアップのステップ6に到達するまで試みてはいけないらしい。
やっぱりポール・ウェイドの言っていることが正しかった
4種目だけやるのがいいか、BIG6の6種目すべてとりあえず始めるのがいいかは、CCを始めた人の多くがちょっと悩むのではないだろうか。
結論としては、最初は上記4種目だけに集中するのがいいと思う。
2020年頃はそれを無視して、BIG6すべての種目の最初の方のステップをやっていた。でもブリッジとハンドスタンドプッシュアップのステップをなかなか進めることができず、原因は基礎筋力が足りていないからだろうと思い当たった。やっぱりポール・ウェイドは正しかったのだ。
今は、上記4種目がステップ6に到達することをひとまずの目標にしている。進捗は、プッシュアップがステップ5(フルプッシュアップ)、スクワットがステップ7(アンイーブンスクワット)、プルアップがステップ4(ハーフプルアップ)、レッグレイズがステップ5(フラットストレートレッグレイズ)である。スクワットはもともとジムでのウエイトトレーニングでも重点的にやっていたので、進捗がいいらしい。
そして、どのぐらいのペースでやるのかも重要だ。
ポール・ウェイドは「各メニューは週1回でいい」と言っている。僕の場合、ウエイトトレーニングの考え方(激しく追い込めば追い込むほどいい)に支配されていたので、「んなアホな?」と思って、最初はけっこう激しくやっていた。ジムトレの考え方では、トレーニングをやるのは週2〜3回がいいとされ、一回のトレーニングで複数のメニューを組み合わせてやることを推奨される。その思い込みからなかなか抜け出せなかったのだ。
ペースと休息の取り方、あるいは習慣化を考える
今は「1日に1メニューだけ」ということを心がけるようになった。月曜はプッシュアップ、火曜はスクワット、(1日置いて)木曜はプルアップ、金曜はレッグレイズというように。そうすると1日10〜15分、週合計でもトレーニングに要するのは1時間程度で済む。ジムの場合、服や靴の準備、移動、ロッカーでの着替え、ウォーミングアップ、トレーニング、シャワーなどで結局は合計3時間ぐらいかかる。それを週に2日としても6時間である。CCだと家にいたまま普通の服でやればいいし、汗をかくほどはやらないので着替えも必要ない。ジムでは6時間だったものが一気に1時間になるので、時短にもなる。
トレーニングには「罠」があると思う。一度やり始めるとどんどん他のメニューもやりたくなってしまうのだ。バーンアウト(燃え尽き)と言われたりするが、一度始めると燃え尽きるまでやってしまい、「できた・・・!」という達成感でしばらくやらなくなり、毎回ジムに行く前に自分を奮い立たせることが必要になってしまうのだ。もし怠けたい自分を振り切ってジムに行くことができたら自己肯定感は一時的に上がる。しかし、結局はあまり長続きしない。
おそらく、習慣化には脳のドーパミン的機能(報酬系)にあまり頼らないほうがいい、というふうに思う。
ポール・ウェイドは「筋力を貯金する」、というようなことを言っている。これは要するに「一度やり始めたら追い込みたくなる、その衝動を抑えて、やる気を貯金して継続しよう」というようなことだと思う。
いろいろな人の「習慣」に関する考え方
このあいだの記事(大変なことを先にやるのがいいか、まず気楽にできることから手を付けて着火するのがいいか)でも引用した、編集者の佐渡島庸平さんの著書『ぼくらの仮説が世界をつくる』にこんな記述がある。
人間は、どれだけ強く決意をしても大きく変わることなどできません。変わるためには、「習慣」にすることが必要です。習慣にして、少しずつ少しずつ変わらないといけない。たとえ1ミリずつでもいいから前に進んでいれば、結果として長い期間で見れば大きく前に進むことができます。油断すると、習慣というものは簡単になくなってしまって、現状維持になってしまうのです。
ミーティングをやらない理由は、今回の場合は「子どもが生まれたから」「土日仕事だったから」でしたが、その気になるといくらでも見つけられてしまいます。「日々の努力をしない理由」というのは簡単に見つかってしまうわけです。だから、あるひとつの理由でそこの習慣を変えてしまったら、簡単に他の理由でもやらなくなってしまいます。
臨機応変に、その都度変えればいい、という考え方もあるでしょうが、僕は極力ルーティンを変えません。継続してコツコツやっていくしかないからです。
(中略)
とにかく、自分を、自分の意志というものを信じないようにすることが大切です。多くの人は「自分だったらできる」とか、「自分が本気出せば不可能はない」といった自分の半分しか見ていません。いい面だけを見ようとする。「自分はサボる」「自分は集中できない」「努力が続かない」という弱い部分は見ていないものです。
よく「今回こそ生まれ変わります!」と若い社員は言っていますが、そういう気合いよりも、毎日の努力をするための時間の取り方を変える方が、ずっと楽に生まれ変われます。
僕は「自信がありそう」と言われることも多いのですが、僕ほど自分を信じてない人はいないかもしれません。意志の力を信じていないのです。「意志」ではなく「習慣」でしか人生を変えることはできない、と考えているのです。
佐渡島庸平『ぼくらの仮説が世界をつくる』ダイヤモンド社、2015年
佐渡島さんは月曜朝に社員と必ず定例ミーティングをやっていたが、あるとき、前日の土日にイベントがあったこと、子どもが生まれたことなどが重なり、「今日はなしにしよう」ということで休みにしたのだそうだ。しかし、後になってその決断が正しかったのかを反省したという。少し細かな例のように見えるが、たしかにそういった「些細なこと」から無限に「やらない理由」が生まれていくというのは、多くの人が経験的に知っていることではないかと思う(この記述の場合、むしろ「些細な例」のほうが適しているから、そういう書き方になっているのだろう)。
2015年に刊行されたこの本の少し後、2020年前後から「習慣化」は一般にも注目されるようになった。こうした習慣化への注目に関して、僕がターザンで行った取材で哲学者の千葉雅也さんは以下のような疑問を投げかけていた。
生活のすみずみに過剰な儀式性を持ち込むと仕事能力に繋がっていく、魔法のように物事がよくなるというのは、ひとつのありがちな幻想ですよ。そんな変な神経症ごっこなんか広めないでほしいと思いますよね。
――なるほど(笑)。
本当に大事なのは「ある程度の管理」「ほどほどの管理」を続けていくことです。仕事ができるというのは、適度に手を抜きながら問題のない範囲で管理をする、ということ。あらゆることがキチッとしている人は細かすぎて、むしろ「仕事ができない」と見做されるわけです。
哲学者・千葉雅也に聞く、自らの“有限性”と向き合うための方法論──完璧を求めない筋トレのあり方とは | Tarzan Web(ターザンウェブ)
たしかに過剰な儀式性、とまではいかなくてもいいかもしれない。何かを習慣化するにしても、ほどほどの管理をし、目標もほどほどのものがいい。そういった文脈を受けて、実は佐渡島さんの本では「二重目標」という考え方も紹介されている。
二重目標とは、何かを成し遂げるにあたって「毎日絶対にできる目標」と「理想的な目標」の二つを作るという方法です。
たとえば、英単語を覚えたいのであれば「一日一回、必ず英単語帳を手に取る」という目標と、「毎日10個新しい単語を覚える」という目標を立てます。目標を二つ立てるのです。後者の「10個単語を覚える」という目標を毎日達成するのは難しいでしょう。何日かやらない日が続いてしまうと、目標自体をなかったことにしたくなります。それに対して「毎日単語帳を手に取る」という目標であれば、努力がほとんどいりません。これであれば、どんな人であっても継続することができるでしょう。
佐渡島庸平『ぼくらの仮説が世界をつくる』ダイヤモンド社、2015年
僕は最近、「とにかく原稿のドキュメントを開いて、見るだけ見る」「とにかく(読む必要のある)本を開く」ということをやっている。あとはピアノでも「電源を入れて鍵盤を押して音を鳴らす」ということをやる。それで、終わったらGoogleカレンダーに記入する(後でどれぐらい継続できているかを振り返ることができるからだ)。
そういうふうにやってみると、たしかに続くし、「やらないと何か居心地が悪い」というふうにも感じてくる。
哲学者の内田樹さんが武道を文化論的に語った『修業論』という本には、こんな記述がある。
政治家たちの好きな「常在戦場」という言葉は、本来は「時間的リミットが示されないままに、身体能力を常に高い水準に保っておく」ということを意味している。それは言い換えると「戦争を生活する」ということである。「戦いを生き延びるということを、日常生活の自明の目標として、淡々と日々を暮らす」ということである。
それは科学者の日々の生活と変わらない。ほんとうに射程の長い研究を成し遂げようと望むなら、研究者たちは長期にわたって淡々と(家庭生活を営んだり、友人たちと遊んだり、小説を読んだり、音楽を聴いたり、旅行をしたり……しながら)ゆったりと継続することができるような研究スタイルを構築しようとするはずである。
寝食を忘れ、家庭を持たず、友人を遠ざけ、研究外的なすべての活動を断念して、ブレークスルーの到来を待つ「マッド・サイエンティスト」型の研究スタイルは、その際立った外見ほどには生産的ではない。少なくとも、例外的な天才以外にはお薦めできない。武道についても同じことだろう。
内田樹『修業論』光文社新書、2013年、111-112ページ
自分を振り返ると、まずは原体験として高校・大学と野球をやってきて、そこでは根性論的なカルチャーが支配的だった。働き始めてからも20代〜アラサーぐらいまでは非常にドーパミン的に「祭り」を繰り返して、なんとかやり過ごしてきた。それでなんとかなってしまうことも多かったように思う。
しかし、今取り組んでいることは、そういうやり方では何ともならない、困難なことだと感じるのだ……。
「常在戦場」というとカッコよく聞こえるが、本来の常在戦場というのはアッパーな祭り状態ではないのかもしれない。カラフルで刺激に溢れた感覚とはほど遠い、グレースケールの世界。そういうイメージなのではないかと思う。
気合いを入れて劇的にやれば一気に進捗する、ということはない。毎日一歩だけでも前に進めるように、やっていきたいなぁと思う。(了)
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