みなさんはじめまして。
このたび、記事を書かせていただくことになったかしゅーむと申します。普段はサラリーマンとして働き、週末は中野さんと同じチームで草野球をしています。
好きなものは、野球・アイドル・漫画。最近はCreepy NutsにはまりうっすらとHipHopを勉強中です。今回中野さんより「何か記事書いてみる?」とお誘いをいただき、記事を書いてみることになりました。興味のあるジャンルについてゆるく書いていければと思いますので、ゆっくりとお付き合いください!
なぜ今いちご100%なのか?
いちご100%を取り上げて書いてみようと思ったきっかけは、僕が地元の友達とオンライン飲み会をしているなかで、恋愛相談を受けたことです。
その友人の相談というのが「2人の女性から好意を寄せられている」というもので、それを聞いた僕は何となくいちご100%に喩え、「お前ならどの方角にするんだよ~」と冗談っぽく答えたのでした。
しかし、ふと「なぜいちご100%なんだ?」と思うようになりました。恐らく友人の置かれた状況がラブコメっぽい⇒いちご100%という思考だとは思うのですが、ラブコメの代表がいちご100%なのでしょうか?
「あなたにとってラブコメと言えば?」と言われれば僕はいちご100%と答えます。
僕は1992年生まれで、週刊少年ジャンプを定期購読し始めたのが中学1年生の頃、2004年頃の事です。僕の周囲はジャンプ読者が非常に多く、『ONE PIECE』『NARUTO』『BLEACH』といった王道作品だけでなく、『テニスの王子様』『家庭教師ヒットマンReborn』『銀魂』など、女性からの人気の高い作品も連載されており、男女問わず非常にジャンプの人気が高い環境でした。
実際に、僕と同じ世代の20代後半のジャンプ読者はわりと高確率でラブコメ=『いちご100%』と答えそうな気がします。2000年代半ば当時の中学生にはなかなか刺激的な表現で「恥ずかしくて言えなけどいちご100%は読んでいる」みたいな中学生はたくさんいたと思います。この漫画が、エロいものへの耐性がまったくなかった少年たちに強烈な印象を与えたことは、想像にかたくありません。
ちなみに僕の通っていた中学校で、ちょいヤンキー系の男の子が「◯◯君の本が盗まれた!タイトルは『小説版・いちご100%』だ!」と全生徒の前で先生から暴露されるという、本人の中ではトップクラスのトラウマになるであろう事件が発生しました。当時は皆が「◯◯、なにエッチな本読んでるんだよ~」と言葉ではイジてっていましたが、恐らくみんな読んでいたので、それ以上強くイジることはなかった……という、遠い青春の日の思い出がよみがえります。
ラブコメとしてのいちご100%の立ち位置
前置きが長くなりましたが僕と同世代のジャンプ読者には比較的ラブコメの代表作としての地位を確立している(と思われる)いちご100%の立ち位置的なところを大まかに分析してみたいと思います。
そもそもジャンプにおいてよく話題に上がるラブコメ漫画は、
- 桂正和:『電影少女』(1989~)、『I”s』(1997~)
- 叶恭弘:『プリティフェイス』(2002~)『エム✖ゼロ』(2006~)
- 矢吹健太郎:『ToLoveる』(2006~)※作画担当
- 古味直志:『ダブルアーツ』(2008~)、『ニセコイ』(2014~)
あたりではないでしょうか。
近年では『ゆらぎ荘の幽奈さん』(2016~)、『ぼくたちは勉強ができない』(2017~)、などが人気を集め、アニメ化もされています。
桂正和の2作品は『いちご100%』よりも前の連載であり、『いちご100%』とはまた違ったラブコメの名作だと言われています。が、ここに関しては筆者の知識が薄いので詳細は書きません……。
また、ジャンプ以外でのラブコメ作品をおおまかにまとめると、
マガジン系
- 瀬尾公治:『涼夏』
- 赤松健:『ラブひな』
- 流石景:『ドメスティックな彼女』
サンデー系
- あだち充:『タッチ』など代表作多数
- 高橋留美子:『めぞん一刻』『うる星やつら』など代表作多数
- 青山剛昌:『名探偵コナン』
- 若木民喜:『神のみぞ知るセカイ』
このあたりが挙がるのではないでしょうか。
ちなみに僕より世代が上の「ジャンプ老害」は桂正和、「ラブコメ老害」はあだち充・高橋留美子あたりを「ラブコメの代表作はこれだろ!」と押し付けてくる傾向にあります。(勝手な偏見)
そんな老害たちには負けず、ここでは我ら92年世代の王道ラブコメである『いちご100%』について述べていきたいと思います。
(ちなみに叶恭弘のラブコメもまた『いちご100%』とは系統が若干違いますがこちらも名作揃いなのでぜひご一読ください。『エムゼロ』が設定・キャラともにかなりおすすめです)
個人的には、『いちご100%』以降のジャンプで連載されたラブコメは多少なりとも作品のエッセンスが含まれていると思います。
例えば、複数ハーレム状態。やたらモテる主人公。偶然(とは思えない)のアクシデントによるお色気シーンなどです。このあたりはすべて『いちご100%』に含まれている要素になります。こういった点から『いちご100%』は近年のジャンプのラブコメの王道を示した作品と言えるでしょう。設定等は多少変えながらこの『いちご100%』の要素を盛り込んだラブコメがジャンプで連載されてきているのです。
(もちろんそればかりではありませんが『クロスマネジ』とか『ダブルアーツ』とか……)
ジャンプ及び他の雑誌のラブコメと並べて見たときに、『いちご100%』が他の雑誌に大きく影響を与えた!とまでは言い切ることはできませんが、近年のジャンプのラブコメ方向性を固めた作品であるということは言えると思います。ジャンプのラブコメの独自進化(ガラパゴス化)のきっかけとなった作品かもしれません。
改めて読み返してみた。
ということで、改めていちご100%を改めて読み返してみました。
実際に1話から最終話まで通しできちんと読んだのは初めてで、若干記憶と違っている箇所もあり、とても楽しくイッキ読みすることができました。
真中のキャラについて
主人公の真中淳平に関しては、もともとは「とにかく優しいのでヒロインたちからモテまくる」という認識でした。
実際、いちご100%より後に連載が開始となった『太蔵もて王(キング)サーガ』というギャグ漫画で「とりあえずいちごの真中くらいモテたいんでよろしく!!!」というセリフが登場するくらい、ジャンプ屈指の優しいモテ男という称号をほしいままにしているキャラである、と記憶していました。
読み返して思ったのは「真中まあまあクズだなあ」ということです。わりと作中には各ヒロインが比較的わかりやすく真中への好意を表明してる描写が多いのです。唯一、東條の好意だけは最後まで気付かないという表現にはなっていますが、どちらかというと真中の悩みの中心は「ヒロインたちは俺のこと好きだけど選べないよな~」というところにあります。
一応それは「心のどこかでは初恋の相手である”いちごパンツの美少女”である東條のことを思い続けているから」という解釈もできなくはないのですが、どちらかというとその週にアプローチをされた女の子に心が揺らいでるだけに見えてしまいます。
外村をはじめ、周囲からは「はっきりしろよ!」的なことを言われ続けて最終的には西野を選ぶわけなのですが、それもおそらく西野から告白されたのが主な理由で、西野から告白されなければ大学生編に突入しても周囲に思わせぶりな態度を取り続け、さつきENDも大いにありえたと思います(後述しますが筆者はさつき推しです)。
一応最終回にかけて、さつき・東條の2人をまとめて振り、「人間的に成長しました」みたいな描写がありますが、おそらくこれは成長していません(笑)。やっと踏ん切りがついただけですし、さつき・東條にはまあまあダメージを与える振り方であることに変わりはありません。その場その場で言い寄ってくる女の子に良い顔をし続け、挙句ぶった切るという始末。見るべき人々が見たら、強烈な真中バッシングの #Metoo運動が展開されることでしょう。
『いちご100%』が連載された意義
他の雑誌の作品には、ヒロインが妊娠してしまうなど、かなり衝撃的なエンドを迎えた作品もあり、こういった作品は「教訓的(=強烈な結末を見せることで、読者に強くメッセージを伝える)」であるということが言えると思います。
しかし、そういった作品と比べると『いちご100%』の結末はかなりマイルドです。
『いちご100%』の結末は「教訓的」とまでは言えず、「ま、学生の時は色々悩むけど頑張って答え出してよ!」くらいのふんわりした強さのメッセージ性だと僕は考えます。
そもそも、「友情・努力・勝利」が信条のジャンプにおいて、この作品および真中の存在は非常に浮いているように感じてしまいます。
しかし、ふと冷静に考えると、他のジャンプの主人公は「努力」をしているでしょうか? 悟空やルフィは修行をしていますが、それは生まれつきの才能や突然得た特殊能力を伸ばすためのトレーニングみたいなもので、努力とは若干、意味合いが違う気がします。
真中も「なんかモテる」という自分の才能を少し自覚し、葛藤しつつ何となく成長している(ようであまり成長していない)という、ある意味ジャンプの主人公にありがちなパターンを歩んでいるような気がします。
ジャンプ作品の主人公はは他の雑誌の作品に比べ、「友情・努力・勝利」を隠れ蓑にして「実は成長してない、実は努力してない」というパターンが多いのではと僕は考えます。
決してジャンプを批判しているわけではありません。若い世代に対して、トラウマになり得る強烈なメッセージを伝えて教育していくことが必ずしも正しいとはかぎらず、ゆるいメッセージ性のジャンプ作品が多くの若い世代の心を掴んでいる、という見方もできるのではないでしょうか。
「あまり努力しない or 最初からそれなりの能力が高い」というジャンプの主人公像を通じて「ここまでは無理かもしれないけど、たまには努力して成長しろよ~」くらいのゆるいメッセージ性の方が、若い世代の読者には届きやすいのかもしれない、ということです。
実際に、近年の人気作である『鬼滅の刃』、『呪術廻戦』も主人公たちは成長しますが、到底我々一般人には習得できない能力を生まれながらに身に付けているのです。しかし、我々ジャンプ読者はそういった作品を愛し、なんとなく得た教訓を人生に活かすのです。(脱線しますが、僕は物事の考え方はわりと『こち亀』の影響を受けています)
そういった視点で見ると、『いちご100%』は上記のジャンプ作品の王道パターンにのっとりつつ、真中という等身大のようで等身大でない主人公を通じて「選択の難しさ」というメッセージを伝えることには成功していると言えるでしょう。
このジャンプにおける「友情・努力・勝利」問題に関してはまた別の機会で詳しく考えたいと思います。
真の主人公は?
ちなみに考察サイトなどを見ていると、「作品を通じていちばん成長した主人公は東條である」という記事もありました。実際にジャンプの巻末コメントの作品アイコンは東條だったと記憶しています。たしかに東條視点で見ると結果としては振られたものの、真中との恋愛を通じて一番成長した人物ではあるでしょう。しかし、あまりにも王道的に成長しすぎてしまったために、東條は主人公になれなかったのかもしれません(これはさすがに穿った見方かもしれませんが……)。
作品としての面白さ
さて、真中をさんざんこき下ろしてしまいましたが、真中のこの優柔不断さが作品の面白さを支えていた、というのは注目すべき点です。
本当に週単位で真中がヒロインのアプローチに揺らぐので、どのヒロインに転ぶかわからないという状態が最後まで続き、「え? 本当にどのヒロインを選ぶの!?」というハラハラドキドキを味わうことができますし、ヒロインの心情描写もかなり細かいので読み応えがあります。
真中が「まさか東條が俺の事を好きになるなんて」と思っている裏で、東條が真中への思いを強めているなど、微妙なすれ違いの甘酸っぱさも。いま改めて読んでも面白く、ドラマや映画などに再構築したとしても古さを感じさせない、作品としての強さがあるように思います。
ヒロインのなかでの推しメンを見つけよう
『いちご100%』の魅力を語るうえで外せないのが、ヒロインのキャラが非常に立っているという点です。それぞれのヒロインが魅力的に描かれているため、読み進めいくうちに「推しメン」のように感情移入してしまうのです。
真中がどのヒロインに転ぶかわからない状況の中で、リアルタイムで読んでいた読者たちは「どのヒロインが推しか」で議論していました。
筆者は何と言われようとさつき推しです。実際に掲載されていたヒロインとの相性診断では、さつきになるくらいのさつき推しです。だれが何と言おうと僕はさつき推しなのです。
仮に自分が真中と同じ立場に立ったときに、西野と東條は自分のこと好きかよくわからないし、明らかに自分のことが好きでかわいいさつきを選んで5巻くらいで単行本が終わっていると思います。そもそもさつきは(これ以上は気持ち悪いので直接聞いてください)
最後に:誰もが真中になりうる!?
話題がたびたび逸れてしまいましたが、僕は真中の優純不断さが「笑えないと」感じる瞬間がいくつかありました。
真中の結論をなかなか出せないという性格は、「クズだなあ」と見られて当然という感じがしますが、自分が同じような状況(モテるという意味ではなく複数の選択を迫られるという意味です)に陥らないともかぎりません。個人的には草野球チームの監督をやっていると選択を迫られる場面がたくさんあります。
「この人最近調子悪いから打順下げようかなあ、でも本当はすごい上手な選手なんだよなあ」とか「この人を下位打線にしたらテンション下がるなあ、遅刻してきたけど」とか色んな人に良い顔をしようとしてしまう自分がいることに気付かされます。
学生時代に読んでいたときはあまり深く考えておらず、「真中大変だなあ」くらいの感想でした。しかし、大人になって再び読んでみると、真中の煮え切らない、誰にでも良い顔をして自分の首を締めている様子はなかなか笑えないなと感じてしまったわけです。
幸い(?)、真中ほどモテた経験はありませんが、自分の中の真中を認識することは誰でもできそうです。
「同時に遊びの誘いが来たけどどっちを優先しよう?」
「推しメンを1人に絞れない・・・」
「軽い気持ちでマッチングアプリ始めたけど同時に2人とマッチングしてしまった」
……などなど、真中ほどではないにしても”自分を必要としている人間”にまつわる選択を迫られたとき、どっちにも良い顔をするという選択を絶対しないと言い切れる自信が、少なくとも僕にはありません。自分のなかに真中がいることを自覚して日々を生きていくのです。
『いちご100%』を読んで、少しでも「笑えない」と感じたら、それは真中になり得る素養を秘めているということです。
*
というわけで今回は、若干脱線しつつ『いちご100%』を通じて、「ジャンプ作品における主人公像」と「選択の難しさ』について考えてみました。
本当はここで「選択肢とは」「決断する力」的な本や論文を紹介すれば良いのでしょうが、僕にそういう素養はないので後は適当にググってください。
さて、次回はCreepy Nutsについて考えてみたいと思います。(予定)
コメント
[…] 『いちご100%』の話があったり、イラン×人類学の話があったり、Creepy Nutsの記事が出たりしており、いよいよ何のサイトかわからなくなりつつあります。ちなみに、これ自体にすごくリソースをかけているわけではないので、仕事に支障をきたすほどの時間がかかっているわけではないのです。 […]