はい、ということで『ふしぎの海のナディア』だけでなく、複数の作品を同時並行で観ていこうと思います。課題は『赤毛のアン』。
なぜ『赤毛のアン』なのか
これは単に、昔、宇野さんが「『赤毛のアン』は観ておいたほうがいいよ」と言っていたからです。
そのときは、高畑勲さんの演出についての話だったと記憶していますが、僕自身、アニメを演出面に注目して観る、という機会がこれまであまりなかったですし、そういう部分でアニメを楽しめるようになれればいいな、と最近とくに思ったことがあって、『赤毛のアン』を観よう!と。
ちなみに、dアニメストア for Amazon Primeに全話あったのでそこで観ることにします。YouTubeに全話上がってるんですが、やっぱり「不要不急」のコンテンツを観賞する際は、きちんとリーガルにお金を払って観ておきたいと思うのです。
朝ドラ的な感性
さて第1話を観て感じたのは、アンを養子に迎える老年のマシュウ・カスバートが馬車で駅に行って、帰ってくる。ただそれだけで、1話を成立させてしまっていること。
場面を転換させたり、想像力豊かなアンの目で、なんでもない日常の風景を美しく映して、飽きさせない構成になっているのかな、と思います。
もう一点、『赤毛のアン』という原作について調べてみて思ったのですが、この作品は特に戦後日本で人気だったみたいです。
そういえば、『赤毛のアン』の翻訳をした村岡花子を主人公に据えた2014年の朝の連続テレビ小説『花子とアン』という作品もありました。
僕はアラサー男性としてはそこそこ朝ドラは見ているほうだと思うのですが、NHKの朝ドラの「等身大の幸せ」に満足する感じがちょっと苦手な部分もあったりします。
たとえば、アニメ映画『この世界の片隅に』なんかも朝ドラ的な感性でつくられていて、すごい名作だとは思うのですが、あの等身大感の裏側で、日本人たちが見ないふりをしてやり過ごしてきた矛盾や欺瞞というのはあまりにも多い。
でも、同時にそれは日本人の大衆的な感覚を表しているとも思うのです。戦後日本における『赤毛のアン』人気と、『花子とアン』が朝ドラになるということには、何かしら、巨大な大衆感覚のようなものがあると思うんですね。
その日本人の「朝ドラ」的な大衆感覚がどういうものなのか、この作品はまさに淵源のひとつではあると思うので、注目して観てみたいと思います。
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