きょう土曜の朝8時の回で、ちょうど今週末に封切られたばかりの映画『ジョーカー』を新宿バルト9で観てきた。昨夜、キネパスで予約しておいたのだ。
前評判が非常に高かったためなのか、朝8時の回にもかかわらず劇場がほとんど埋まっていた。
わかりやすいレビュー記事としては、このへんだろうか。
【ネタバレなし最速レビュー】ホアキン・フェニックス最高傑作『ジョーカー』が描く”笑い”の深淵 | Fan’s Voice〈ファンズボイス〉
ちなみに、休日の早朝に映画を観るというのはいいな〜と改めて思った。朝8時台に見始めたら、観終わるのは10時半ぐらいになる。土曜日はだいたい疲れて昼ぐらいまで寝てしまうのだが、映画の予約を入れておくと金曜の夜も早めに帰って早めに寝ざるを得ない。生活リズムの崩れが防止できるし、良い気分転換とインプットにもなるのがとても良い。
映画『ジョーカー』の予告編はこれ。
「ジョーカーの起源」を描く、ということ
前評判が非常に高く、ベネチア国際映画祭で金獅子賞をとったというこの映画。ジョーカーを演じたホアキン・フェニックスがアカデミー主演男優賞を取るのではないかとも噂されている。
で、一言で感想を言えば、非常に痛快な映画だと思った。
とはいえこれは決して一般的な感想ではないと思う。上映終了後の劇場は、お通夜のような雰囲気に包まれた。
おそらくこの映画を手放しで褒める人は少ないと思う。あまりにも「モラル」というものの基準から逸脱している。「共感」を金科玉条のように掲げてみんなで共感しあっている今のSNS的な感性とは明らかに色合いが違う。
これは、バットマンシリーズでもっとも有名な悪役(ヴィラン)である「ジョーカー」の誕生を描くストーリーだ。ジョーカーは悪役として最も人気のあるキャラクターである。
だからこそ「悪役の起源なんか描いたらジョーカーの神秘性がなくなっちゃうじゃないか」という意見もあるし、これはおもに『ダークナイト』に登場するジョーカーのファンからの意見だと思うが「ジョーカーの行動には何の動機もない、ただ単に混沌を楽しもうとしている、その享楽的な存在感が魅力的なんだ」という意見もある。
僕も、それはそうだなと思う。しかし今回の『ジョーカー』で描かれたのは、ジョーカーの動機を暴くというようなものではなかったようだ。
悪の陳腐さ?
たとえばナチスドイツでユダヤ人虐殺を指揮したアドルフ・アイヒマンは、戦後にモサド(イスラエルの諜報組織)に捕まって取り調べを受けた際に、実はきわめて「普通」かつ「サラリーマン的」なパーソナリティであったことがわかり、世界に衝撃を与えた。とんでもない悪事は、とんでもない悪人から生まれるわけではないのだ。
じゃあ今回のジョーカーはどうかというと、はっきりいってアイヒマンのような「普通さ」はない。のちにジョーカーになる本作の主人公アーサーはコメディアンになることを夢見る一介の市民である。しかし、社会から見捨てられていたり、精神疾患をもともと抱えているという要素も持っている。
今回の『ジョーカー』が秀逸だと思うのは、それらをただのトラウマ物語に回収しないということだ。彼が持っている障害は、彼がジョーカーになっていくまでのあくまで一要素でしかない。障害があるからジョーカーになったという単純な描かれ方では決してない。
ジョーカーになる前のアーサーが抱えていた感情は、「孤独」や「怒り」だと思う。
そして、それはきわめて普遍的な感情だ。
社会派映画ではない
この映画は、一見するとアメリカの格差社会を告発する社会派映画のようにも思える。ところが、監督のトッド・フィリップスはそれを否定しているし、劇中でもジョーカー本人が「政治的なメッセージを表明したいわけではない」ということを語っている。
したがって、たとえばアーサーが持つ精神疾患(=トゥレット症候群)のことを社会にもっと知ってもらおうという気もない。そういった精神疾患は、すでに書いたようにあくまで一要素にしかすぎない。
この映画を見て僕が感じたのは、「自分がアーサーの境遇に置かれたら、こういう風になってしまうかもしれない」という意味での恐怖感であった。
「自己実現」をめぐる病
たとえばアーサーは、人を笑わせたい、コメディアンになりたいという気持ちを持っていながら、おそらく決定的にコメディアンの才能がない。それは劇中で、人気コメディアンであるマレー(ロバート・デ・ニーロ)にも突っ込まれているところだ。
むしろアーサーは、「才能とはなんだ?」「才能があるやつは何してもいいのか?」という怒りを、マリーにぶつけていく。だがアーサーとマレーのダイアローグのなかで、マレーは怯まない。アーサーに、さらに自分の才能を見せつける。それがマレーの身に悲劇を招くわけである。
つまり、ここで描かれている格差は経済的なものだけではない。「才能」の格差も描かれている。そして、才能のある人間が、才能のない人間に自分の才能を見せつけるようなことをすると、ああいうことが起こる。
現代世界は、多くの人が「自分とはなんだろう」「自分にも才能があるかもしれない」「才能がある人間だと思われたい」と考えているようなところがある。
アーサーはコメディアンになりたかった。しかしコメディアンの才能がなかった。その絶望の果てに、アーサーは「自分」を見つけてしまう。自分の天職とはなにか、才能をもっとも発揮できるものはなにか、他の人達から熱狂的に支持される自分の特性とはなにか。
辿り着いた答えが、「それ」だったわけである。
これはなかなか恐ろしい話だ。社会的な自己実現を果たしたいと思ったとき、コメディアンとかスポーツ選手とか、そういう無害なものだったらいいが、人それぞれの「天職」はそういう無害で社会性のあるものばかりとはかぎらない。
「社会をよくしたい」高潔な人間、トーマス・ウェイン
そして、のちにバットマンとなるブルース・ウェインの父、トーマス・ウェイン。彼も、アーサーとは関係のある人物ではあるが、アーサーが救いを求めても何もしてくれない。
トーマスは富豪だが、おそらく社会的正義を追求する人間なのだろう。よき社会にするために政界に進出しようとする。彼が支援したいものが何かが劇中では明確に描かれているわけではないが、おそらくアーサーはその対象にはないのだろう。
これもよく考えると恐ろしい話だ。仮に高潔な人格者が「世の中を良くしたい」という気持ちを持って活動したとしても、その「救いたい」対象は任意でしかない。「救いたい」対象として選ばれないアーサーのような人間は、じゃあどこに救いを求めればよいのか。
そしてトーマスのような社会正義を実現したいと考えるような人間は、「自分が好きではない人たちに嫌われないためには、どうすればいいか」を考えなければいけないのだろうか。
余談だが、ちょっとだけ出てくる幼きブルース・ウェインが超かわいいと思った。他に書く場所がないのでここに書いておく。
『ジョーカー』が投げかける波紋
この映画は非常に影響力が強いということで、アメリカ各地では劇場公開に合わせてテロや暴動が起こらないかが懸念され、警察が劇場周辺を警備に当たったりしているらしい。『ダークナイト・ライジング』が公開されたさいに銃乱射事件が起こった劇場では、そもそもこの作品を劇場公開をしないという決定が下されたのだそうだ。(参考:映画館が「子供に『ジョーカー』を見せないように」と警告 | ギズモード・ジャパン)
まぁ僕個人はこれを観たからといって何か影響されるとかそういうことはないが、確かに影響される人はいるかもしれないよなと思うぐらいには、共感性が高い映画である。(共感といっても「わかるわかる〜」「あるある〜」みたいなSNS的、脊髄反射的な安易な共感ではない)
この映画を通してジョーカーという人物に深く共感してしまう人はいるだろう。
ただ、そういったものをクリエイターは「倫理として作るべきではない」と判断すべきなのかどうか、僕にはわからない。というか、全然作っちゃってもいいんじゃないの、とすら思う。この映画自体が、今の(アメリカにも日本にも共通する)コンプライアンスの空気感を笑いのめす(良くも悪くも趣味の悪い)ブラックジョークであるとも思うのだ。
だから、とても痛快だと感じる。
一方で、経済的・社会的セーフティーネットの不在が生む「孤独」や「怒り」がどのようにして増幅されていくのか、そこに対して迫っていこうという極めて精緻なドキュメントであり、シミレーションのようにも思えるのだ。
映画全体の纏っている雰囲気としては、極めて不謹慎であると言わざるを得ない。
だからといってこの映画がまずいとかそういったこともあんまり思わない。非常に映画らしいというか、たとえばバットマンシリーズで生み出されたこのジョーカーというキャラクターがいかにして生まれたのかということを徹底的に考え抜く、現代のアメリカが抱える闇の部分、影の部分とうまく接続させてリアリティをもたせていくというのは、フィクションの作り方としてはきわめてオーソドックスでもある。
ちなみに『ジョーカー』を観て、たとえば『タクシードライバー』のような作品を思い浮かべる人も多いようだ。町山智浩は『キング・オブ・コメディ』を挙げていた。(参考:町山智浩『ジョーカー』を語る )
僕は、「いいやつ」がいつの間にか悪のカリスマへと成り上がっていくという意味では『オール・ザ・キングスメン』、匿名の悪意の際限なき暴走という意味では『デビルマン』にも似ているなと感じた。
というわけであんまりまとまりがないがこのへんで。
映画『ジョーカー』予告編をもう一回、貼っておきます。
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