「オタク」という言葉の意味がわからない件
最近、マーケッターの原田曜平氏による著作『新・オタク経済:3兆円市場の地殻大変動』という本が出版された。オタクといえば、80年代頃から徐々に一般に広がった言葉で、80年代末に宮崎勤による東京・埼玉連続幼女誘拐殺人事件が起こってネガティブイメージがマスコミ上で流布されたことにより、90年代にはアニメやゲーム、漫画等のサブカルチャーに没頭するオタクたちは隠れて生きなければいけない存在となった。ところが95年の『新世紀エヴァンゲリオン』ブームを契機に徐々にその存在が社会的に認められ始め、90年代末以降のインターネットの普及でそれがさらに拡大し、その後2000年代半ばには『涼宮ハルヒの憂鬱』や『けいおん!』といった京都アニメーション製作のアニメが流行したことでオタクは完全に市民権を得た。
そして2000年代後半以降、「オタク」というあり方はすっかり一般化し、今やひとつのステータスにすらなりつつある。
この『新・オタク経済』は、その状況を市場調査から克明に描こうとした試みであると思われる。
以前からクールジャパンなどと言われコンサルティング会社の調査対象となり、市場としても有望視されていた「オタク」。要するに経済を回す消費者としてオタクというマーケットが注目されており、社会情勢もそれを後押ししている。
原田曜平『新・オタク経済:3兆円市場の地殻大変動』2015年
僕が中高生時代を過ごしていた90年代末〜2000年代前半頃、「オタク8割」と言われる男子校に通っていた。
2015年現在の「オタク」という語の用法からすると「えっ、8割がアニメオタク・アイドルオタクなの?」と思われそうだが、そういうわけではない。
おそらく、90年代後半頃はまだ、オタクというものの指すイメージが広かった。ゲームオタクや鉄道オタクや歴史オタクや軍事オタクやコンピュータオタク、はたまた物理オタク、数学オタクのような奴もいた。「空想科学読本」「Newton」「大学への数学」などを教室で愛読していたりするのである。今のようにオタク=文系というイメージはなく、むしろ理系のイメージが強かったともいえる。単に高偏差値進学校だからというわけではなく、そいつらがゲームやアニメ・漫画も幅広く手を伸ばしていて、「アニメ専門」「アイドル専門」というふうな棲み分けをしていたわけではなかった。
ところが、今ではすっかり「オタクといえばギャルゲ」「オタクといえば萌えアニメ」「オタクといえばアイドル」というふうに、ある特定の、しかも性的ななんらかのコンプレックスを原動力にしたジャンルに没頭している人のことを「オタク」と言うようになった。「オタク」という言葉にもともと含まれていた「広さ」のようなものが2000年代以降に忘れ去られていったように思える。
「他人にオタクだと思われたい」という欲望?
そして『新・オタク経済』にもあるように、今の文化状況において「オタク認定されたい」という欲望は近年非常に強く、広く存在するようになった(もちろん、その反面で「オタクであるということをできるだけ周囲には隠したい」という人もまだ数多くいるようだが)。オタクというあり方はかつては「不可避になってしまうもの」だったのが、現代は「他人にアピール可能な個性として能動的に選択されるもの」へと変質している。
しかし、なぜ「オタク認定されたい」と思うのか? 彼らをそこに駆り立てている〈原動力〉は何なのか。
社会学に「存在論的不安」という言葉がある。
90年代から2000年代にかけて注目され、ブレア労働党政権のブレーンも務めたと言われるイギリスの社会学者アンソニー・ギデンズは、近代社会の特徴の一つとして「脱埋め込みメカニズム」というものを挙げた。
それまで地域・地縁共同体内で「昔からそうだから」という理由で正当化されてきた伝統的なルールは、近代社会においてより広い社会的文脈のなかに置き換えられ、その正当性を吟味されるようになる。これが「脱埋め込み」であり、このメカニズムの徹底的な浸透によって、生活世界全体に、自らの行動や社会関係を省みる態度(再帰性)が際限なく働くようになる。
このような社会において、人は一貫したアイデンティティや、自分を取り囲む環境の安定性に対して抱く「存在論的安心」を持ちにくくなるとギデンズは論じている(アンソニー・ギデンズ『近代とはいかなる時代か? ─モダニティの帰結─』(1993年)より)。
こうしたギデンズの議論を受けて、同じくイギリスの社会学者であるジョック・ヤングは、その不安定さにより引き起こされるアイデンティティの危機を「存在論的不安」と表現した(言葉のもともとの出処は違う人だと思うが)。これは近代社会の成熟によって価値観が多元化され、自己の存立基盤が脅かされることによって起こる不安である。
英米の社会の場合、その存在論的不安は「異質な他者の排除」といったかたちで表出し、それが排外主義や移民排斥運動へと(ある一定の)人々を駆り立てる。
「自分たちはもともとのイギリス人だが、そうではないあいつらは敵だ」というかたちでアイデンティティの拠り所を確保するというものだ。
ポスト近代社会へ移行する以前、人々のアイデンティティの拠り所は家族・学校・地域・職場というものだったが、それがポスト近代社会になって不確かになると、「自分たちはもともとのイギリス人である」という、〈民族〉のようなより生得的な要素へと遡っていく――以上がヤングの提起している認識枠組みである(ちなみに社会学は道徳や倫理ではないので、それをただちに「善くないことだ」と判断はしない。単に「こういうふうに機能しているんだろう」と概括的に理解するというのが、ギデンズやヤングが行っている論の主眼である(ジョック・ヤング『排除型社会―後期近代における犯罪・雇用・差異』2007年))。
日本も英米同様に近代化によって「脱埋め込みメカニズム」が働いており、個人のアイデンティティの存立基盤が家庭や学校・地域や職場といったもともとあるものから切り離され、人々が存在論的不安を感じるという流れは同じではないかと思う。
しかし英米と違って日本は移民もあまり多くなく、見かけの同質性は高い。したがって「自分たちは日本人で、あいつらは違う。だから叩いてもよい」という今でいうところ「ネトウヨ」のような排外主義はそこまで広範なポピュラリティを得ていない。
むしろ、もっとマイルドなかたちでのアイデンティティ・ポリティクスが起こっているように思う。そしてその表現のひとつとして、2000年代以降の「自分がオタクであるということをアイデンティティの拠り所とする」というあり方が一般化している、ということなのではないか……と感じている。
存在論的不安の対症療法としてのサブカルチャー
根本的に考えてみると、現代日本では「ある特定のサブカルチャーに帰属している」というものが擬似的な民族性のようなものとして機能しているからこそ、「他人にオタクだと思われたい」という欲望が生まれるのではないかという気がしてくる。
人々のアイデンティティの拠り所は、他者の権利を侵害しないかぎりは何でもよいはずである。欧米では存在論的不安の解消のためのひとつのメジャーな対症療法として排外主義が盛り上がるが、日本においては「消費」というものがアイデンティティの存立基盤として作用している。そしてそれは「自分たちはオタクだが、あいつはオタクではない」というソフトなかたちで、自他の境界線を克明にしていく。
かつて漫画家の小林よしのりは90年代半ばの著書『脱正義論』において、薬害エイズ訴訟運動に自己のアイデンティティを賭けてしまう若者たちを「オウムと同根ではないか」と評した。そして、学生のようなアマチュアのままイデオロギーや思想に殉じるのではなく、弁護士や官僚や政治家のようなプロになり、そこで職業倫理を持って世の中を変えていく動きにコミットするべきだと説いていた。この「イデオロギーや思想に殉じる」というのは60年代の学生運動の流れを汲んだ連合赤軍事件や、さらにその鬼子としてのオウム真理教にも受け継がれた態度であり、それは未だに細々と生き残っている。
小林よしのり『新ゴーマニズム宣言スペシャル脱正義論』1996年
一方で80年代のバブル期に日本では高度消費社会が形成されたと言われているが、この状況下で、人々のアイデンティティの拠り所が「消費」に向けられるようになった流れも存在する。90年代の〈渋谷系〉に代表される消費との戯れであったり、現在の「オタク」のようなサブカルチャーへの消費態度をアイデンティティの拠り所にする作法へと繋がっているという捉え方も可能だろう。
ポスト近代社会に不可避に生まれる「存在論的不安」に対処するために、プロとして職業倫理を持って世の中にコミットするという小林よしのりの提唱する「根本治療」的な方法論は、万人ができるものではない。なぜなら国家一種や司法試験のようなものに合格して職業倫理を持って自らのアイデンティティを構築するというのは、単純にいえば「大変だから」である。
一方でサブカルチャーに没頭するだけであれば努力は大して必要ではない。
そこで、あくまでも対症療法として「サブカルチャー消費を自己の存立基盤にする」というものが浮上してくる。「俺はオタクだ」「あいつらはオタクじゃない(だから自分とは違う/敵だ)」という言い方をすることで、自己と他者の境界をはっきりさせ、何も努力せずに自己のアイデンティティの確立を図ることができる。
ただし単に「消費」しているだけでは、本当に底なし沼で、ハマればハマるほど苦しみが増したりもする。「オタクであろう」とすればするほど、この情報過多の社会でさらなる情報を得るべく終わりのない(見えない敵との)戦いを繰り返さなければならない。これは大なり小なり「オタク」と言われるもの(もしくは「文化系」でも同じかもしれない)にかすっている人には共通した生きづらさであるように思う。
僕のような人間は、「どこかで止まれないものか」、と考えてしまう。
「消費」はあくまでも消費であって、自己の根本的な関与がない。自意識の無限の底なし沼にはまってしまって身動きが取れなくなる。どこまでオタク道を極めようとも満足できない場合も出てくるのではないか。
ただ、この「消費」という言葉の対義語は必ずしも「生産」ではないんだろうなと思っている。このあたりの議論は、國分功一郎氏の『暇と退屈の倫理学』で示された〈消費〉と〈浪費〉という対概念、そして〈退屈の第二形式〉という概念が参考になる。
それと、もうひとつ面白いと思ったのが、、哲学者の千葉雅也氏が『哲子の部屋 Ⅲ: “本当の自分”って何?』という本で紹介していた「中途半端の肯定」というアイデアである。
なにも、「極める」だけが人生の楽しさではないということであると思う。
ちなみに、さも他人事のように書いてきたが、カルチャーとアイデンティティの問題は、僕にとってはまったく他人事ではない。
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