少し前に予告していた『あの花が咲く丘で、君とまた出会えたら。』についてざっくり書いておきたい。この映画は、リベラルな人のあいだでは見ずに評判が悪い。なぜなら「現代の女子高生がタイムスリップして特攻隊員と恋に落ちる映画」だからだ。荒唐無稽だし、右翼的っぽいし、「日本終わった」ということを象徴するようでもある。ポスト・トゥルース、若者の右傾化、中高年の右傾化、陰謀論の蔓延……そのなかで「現代の女子高生がタイムスリップして特攻隊員と恋に落ちる映画」がヒットしているというのだから、日本人の感性の劣化、歴史意識の風化を象徴する作品で、大変けしからんわけである。しかし、「観ずに批判に晒されているもの」を僕はつい観たくなってしまう。まあ真面目に自分が研究としていろんな戦争映画を観ていることもあるので、観に行ってみた。
結論として、映画としてはそこまで面白いわけでもないが現象としては面白いし、なにより「エデュテインメント(エンタテインメント+教育)として作ってある」ということがいろいろな問題を象徴していると思った。この映画のメッセージは驚くべきことに、「挨拶をちゃんとしよう」である。ええっ!? タイムスリップとか特攻隊とかはなんなの? というぐらい拍子抜けするようなフツーーーーのメッセージである。観ればわかるのだが、この作品は特攻を美化してもいなければ戦争を賛美しているわけでもなく、「日本すごい」を確認したいわけでもなく、大して右翼的なわけでもない。タイムスリップする福原遥演じる現代の女子高生である百合は、他人を救うために川に飛び込んで命を失った父のその犠牲的精神で、自分も母も不幸になったと思っている。何なら「親ガチャを外した」ぐらいに思っており、父を失って以降はふさぎこんで、クラスの陽キャには雑に扱われてムカついている。だから教室に入ってもクラスメイトに挨拶なんてしない。そんなストレスを抱えてプチ家出のあげく、大雨に降られて近所の元防空壕らしき洞窟に逃げ込む。雨に打たれ疲れ切って寝てしまったら、気づいたら戦前にタイムスリップしていた。彼女の住む町は鹿児島の知覧のような特攻基地だったらしい。体調の悪いまま町をフラフラしていると、実在する「特攻の母」鳥濱トメをモデルにしているとおぼしき軍指定食堂のおばさんと出会い、そして水上恒司演じる佐久間をはじめとした特攻隊員たちと出会う。
百合は終始、「特攻なんて無駄死にだよ!なんでそんなことするの?」と戦後民主主義のノリで批判しまくるが、喧嘩上等でその批判をぶっ放したつもりが、トメさんや佐久間たちからは「百合ちゃんは優しい子だね」とさみしげにいわれる。ファイティングポーズばりばりで戦いに行ったのに、相手は怒るわけでもなく、むしろ諦めと赦しと感謝の入り混じったような複雑な感情を見せる。そんな経験を経て、トメさんや佐久間たちの生き方が現代とは別の真摯さを孕むものであることを感じ取っていく……みたいな話である。
劇中で、トメさんも佐久間も他の特攻兵たちも、よく挨拶する。尋常ではなく他人に気を遣い、個人主義を内に押し殺していることの表れでもある。その「挨拶をちゃんとする」という行為が、象徴的に描かれるわけである。百合はやがて悲しい出来事を経験したのち、現代に戻ってくる。あまりに悲しいことがあった、しかし自分は生きている。死んだ人たちはどれだけ無念だったことか。そのことを実感的に感じられたことで、母との関係や、学校での友人たちとの関係を、自分の力でなんとかよくしようと決意する。その象徴が「挨拶をちゃんとする」という行為として位置づけられている。
ここまで書いてみると、なんつーフツーーーーーの話なんだという感じがする。ただ、この作品の原作を書いたのはもと国語教師で、鹿児島出身の彼女が知覧の特攻平和会館を訪れた体験をきっかけに書かれているという。要するに教育的な映画なのだ。「特攻兵はテロリスト」というような認識も世の中にはある。イスラム原理主義でジハードを掲げて自爆テロをする過激派の若者と同じように、前近代的な信念で自分の命とともに他人の命まで奪うとんでもないやつだ、と。つまり「特攻なんてとんでもない、人命を粗末にするなんて」という認識で止まっていてそれ以上のことは知ろうとしない人も多いわけである。なぜ特攻作戦が生まれたのか? なぜ20歳前後の若い者たちがそんなことをしなければならなかったのか? 志願制だったということは本当か? 攻撃の効果は実際どれぐらいだったのか? 日本軍内でこの作戦に反対の声はなかったのか? 天皇は知っていたのか? 実際に特攻をした若者たちはどんな気持ちだったのか? 遺された家族の気持ちは?……僕は、「前近代的だ」「ありえない」「戦前の日本は野蛮だ」と切って捨てる前に、知るべきことがあまりにも多い出来事だと思う。だが、そういう疑問すら持たずに単に全否定しているだけの人も多いのだ。だからこの映画は、観た人に「なんで特攻なんてやったんだ?」ということを考えるきっかけ、疑問に思うきっかけを与えるものではあるだろう。そういう意味で「教育的」だとは思う。
この映画は平日昼間に観たが客席はよく埋まっていて、ギャルやヤンキーから中高年まで、「日本よ、これが日本だ」という客層だった。あまりにもバラバラすぎる。若者は「泣ける」という評判で来ていて、中高年は歴史的な関心などで来ているのかもしれない。要は、この映画は「戦後民主主義教育で教えられない大切なこと、当たり前のことをちゃんと教育しよう」という意図なわけである。特攻を肯定も否定もしていない、「なんでそんなことが起こったのか?」を考えずに全否定したり、あるいは「戦前の日本人は誇り高かった」と単純に肯定するわけでもない。「ちゃんと知って、考えようよ」という基本の学習の徹底を呼びかけているだけなのである。だがこれは、たしかに戦後民主主義教育のなかではなかなか言えないことではあった。学校教育では、特攻や戦前日本に関しては「全否定」から入ってそこで思考停止しなければいけないことまでが事実上決まっているからである。そこでは歴史を前にして謙虚になる、という当たり前のことができない。
もうひとつ、現代の教育で本当は言うべきでちゃんと言えていないのが「挨拶をちゃんとしよう」ということである。これは地方部の統制の厳しい学校や、都会でも躾の厳しい家庭であれば普通に行われていることだと思うが、自分も含めてこれができていない人は非常に多い(自分の場合は体育会系出身でありながら、そんな教育も受けておらず全然できていなかったのでここ数年で修正中である)。健全な人間関係はまず挨拶から。そんなことすらまともに教育できないぐらい戦後民主主義が液状化している現状、それに作者は危機感を持っているのだろう。それはよくわかるのである。
だから自分としては、この作品は大して映画として面白くはないが、入門編としては良いと思うし、それがギャルやヤンキーに響いているのであれば別に悪いことでもないなと思う。『ラーゲリより愛を込めて』を観てから僕はシベリア抑留に関連する資料館などにいくつか行ったが、驚くのは若い人が本当に多いことである。特に女子が多く感じる。別に自分も映画きっかけで関心を持ってそういう場に足を運ぶようになったので、彼女たちにひねくれた見方をぶつけることもできない。「いや、大事なことだよな」と、むしろ共感してしまうのである。戦争反対を叫ぶのは簡単だが、なぜ戦争に至ってしまったのか、そこでどんなことをが起きたのかを、現代に生きる人間としてちゃんと知っておきたいというのは、きわめて真っ当なことのはずである。
これを「目覚めちゃった人w」というふうにバカにすることだってできる。現に多くの「リベラル」な人たちはそうしているだろう。だが、『あの丘』『ラーゲリ』『永遠の0』といった作品で「目覚めちゃった人」は、見た目はZ世代ふう、Y2Kな感じでありながら、とてもシリアスである。そういうふうに真剣になにかに向かい合うことを、僕は同じ人間としてバカにすることはできないと思うのである。(了)
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