もう会社員をやめて1年10ヶ月になるが、ちょくちょく会社員だったときのことが思い出される。
会社は辞めてよかったけど、楽しかったなぁとも思う。いろんな人と関わることができて、「はぇ〜」と思うことも多かった。基本的に「資本主義に貢献しなければいけないと思い込んでいる主体」しかいないのだが、それでもそれなりの多様性があった。
かつてはMTGが多すぎた
しかし当時のカレンダーはMTGだらけだった。30分刻みでMTGが入っていた。その時期は、社員ブログ(+記事広告)の編集と広報をメインでやっていたが、採用とマーケティングもやっていたのでいろんな部署との折衝があり、加えてチームメンバーの仕事面でのトレーニング、部署の業務フロー改善などがあって、社内MTGだらけ。しかもだいたい自分で入れたわけではないMTGで、色んな人にどんどんMTGを入れられてしまう。断る力がなかったともいえる。アウトプットを出すというよりコミュニケーションが主の仕事であった。
フリーランスになってから最近は、1日でMTGは1件以上は入れていない。事前にきちんと議事録を作っていって、リマインドをし、気持ちよくMTGを終わらせて参加者のモチベーションを高めるみたいなファシリテーション役をやり、最後にフィニッシングの連絡を改めてやる、などをすると、なかなか疲れるが、ここまでやると「やった意味のある会議」になるなとは思う。
会社員のときみたいにMTGまみれというのは自分のキャパシティを超えていた。今のほうが身の丈には合っている。もちろん身の丈に合わないことをするから毎月何十万という給料が振り込まれる、というのはあったと思うのだけど。
メリトクラシーからケアはこぼれ落ちる
NewsPicksに與那覇潤さんの取材記事が載っていた。(リンク先有料)
メリトクラシー(能力主義)の陥穽についての話はとても示唆的である。
僕は最近、家族のケアがけっこうできるようになった。住んでいるマンションと実家が近いので、それに割く時間も少し多くなった。とはいえ介護とかではないので大変というわけでもない。
なんでできるようになったかというと、思い当たるのは東京で7年間一人暮らししたこと、それと会社での失敗経験かなと思う。
会社での失敗経験はいろいろあるが、集団内で利害が対立するときのマネジメント(のようなもの)である。自分の失敗もあるし、他人の失敗もあるし、「こういうときにこういうふうに物事を進めようとすると、うまくいかなくなる」という失敗ケースを多く目にして、なんとなく理路はわかってきたように思う。
安部磯雄が「民主主義は、民主的な家庭生活から始まる」というようなことを言っていた。あー、なるほどなと思って、今はそういうふうに事に当たるようにしている。ただ、僕がケアをできるようになったからといって、今の社会における能力主義的な物差しで評価されるということはまずない。資本主義のメリトクラシー(能力主義)においてそんな尺度はないだろう。
もし会社員に戻ろうと思ったとき、転職活動をするとして「メンバーのケアがわりとできます」と言ったところで、それがアピールポイントになるのかはよくわからない。
おそらく與那覇さんが指摘していることも、そういうことなのではないかと思う。数字や実績で可視化できることに比べて、ケアのスキルというのは不可視的である。やってることでいえば、単に話を聞くことだったり、ちょっとした声がけや方向づけ・勇気づけだったり、気分転換やちょっとしたアクティビティ、散歩とかランチのさりげない企画とか、そういうことが大事だったりする。
『秘密の森の、その向こう』を観た
昨日、セリーヌ・シアマ監督の新作『秘密の森の、その向こう』を観てきた。新作映画を観るのは久しぶりだったが、『燃ゆる女の肖像』が面白かったので行くことにした。
宇多丸氏が、セリーヌ・シアマ監督のことを「フェミニズム的な感性で…」と言っていたが(参考:宇多丸『秘密の森の、その向こう』を語る!(追記あり)【映画評書き起こし 2022.10.7放送】 | トピックス | TBSラジオ FM90.5 AM954~何かが始まる音がする~)、そういうまとめ方は必要なことなのかもしれないけど、ちょっと違う気がした。普遍的なテーマのある作品だと思うし。この作品で描かれているのは、ある種、母性神話への批評的な目線であって、堀越英美さんの名著『不道徳お母さん講座』にも通じるところがある。
たとえば前述の批評には「子供ながらにして、その母というか、親の心を気遣うケアラー」という表現が出てくる。いわゆるヤングケアラーという見方である。
だが、僕自身ヤングケアラーという言葉は少し微妙な気がしている。ここにはいわゆる童心主義が、言語化されていないままに強固に前提とされている。ネリーはたしかに母を気遣う子であるが、これは僕が8歳の姪を見ていても感じることだ。その気遣いを見ていて、「自分は、8歳のときにこれほど母を、父を、気遣ったことがあっただろうか?」と思ってしまう。
それは、自分の幼年時代に父母が童心主義を内面化していて、「子供は何もやらなくていい」というふうに育てられてしまっていたからではないかと思う。もちろん父母を責めるつもりはなく、90年代はそれが当たり前だったと思うのだ。
「ヤングケアラー(をさせる親や社会)批判」というのは、やはり童心主義を前提としている。だが童心主義というのは、近代以前の過酷な児童労働への反動から生まれたものだろう。その童心主義が徹底されると、「児童労働」と「子供が親を気遣う」ということが同じ平面に並べられてしまう。
少し飛躍があるかもしれないが、子どもは親のことを気遣う観点があっても、僕はいいと思う。むしろ、あるべきだ、と言うべきなのかもしれない。まるで儒教的価値観のようではあるが「父母を敬え」というのは、「父母を自分と同じ一人の人間として扱いなさい」という意味だったのかもしれない。そしてケアというのは相互的なものであって、そこに「母」「父」「子」という役割を相互に背負わせすぎると、非常に息苦しい空間になるような気もするし、これまでの現代社会というのはそういうものであったとも思うのだ。
あと、もうひとつ。『秘密の森の、その向こう』は、女の子二人がほんとかわいくて、なんかこう男の子でもめっちゃかわいい~ってなる表象がほしいなと思ってしまった。僕もリアルで姪やその友達を見ていると、「少女しかかわいくねぇな〜」と思ってしまう。どうも男子は乱暴であるように感じるのだ。
思うのは、「女の子らしい」というジェンダー規範は文化的なものであって、「男の子らしい」というジェンダー規範は社会的な気がする。
男子は乱暴というのは、僕が見ているかぎりでは、先天的というよりは、どうも社会的なものである。周囲からの「男の子ならわんぱくであるべきだ」というような目線、と言うのがいいだろうか。フィリップ・マーロウが言う「男は強くなければ生きていけない。優しくなければ生きている資格がない」というのは、それはそうなのだが、これはちょっとハードボイルドでカッコよすぎる。もう少しキュートな表象がありうるのではないかと思う。
◇
うーん、サラッと書こうと思ったらけっこうな文字数を書いてしまった。まあブログなのであんまり校正はせず一筆書きなのだが、やりすぎな気もする……。
今日は取材原稿の2稿の仕上げをやって連絡するのと、そうじをやる、それと執筆原稿、インプット、企画書にそれぞれ少しでも手を付ける、をやっていこうと思う。
(了)
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