久しぶりになっちゃいますが、『赤毛のアン』第2話を見ました。
孤児院から、男の子を養子として迎えることになっていたマシュウ・カスバートとマリラ・カスバートの兄妹ですが、マシュウ・カスバートが駅に迎えに行ってみたら、そこにいたのはやせっぽちで赤毛の女の子アン。
まさか「男の子が来ることになってたはず」なんて言えないマシュウ・カスバートは、仕方なく女の子を馬車に乗せて家に連れ帰ります。
第2話のなんとなくのあらすじ
第2話でもまだ家に到着しておらず、馬車の道中で、アンはほんとうに自由におしゃべりしつくします。
でも、マシュウ・カスバートは「家に帰って妹にどう説明しよう…」と困り果てている様子。
家に着いてマリラに事情を説明すると、当然マリラは「なんでそんなことになってんのよ!」怒っているわけですが、このときアンは、「やっと私のことをもらってくれるおうちが現れたと思ってた……」と、自分の悲しみの感情を非常にあけっぴろげに表現します。
このあたり、マシュウ・カスバートもマリラ・カスバートもアンも、まだ微妙な距離感がありますが、それでも何か、ほんわかとした関係性が予期されるような描き方になっていました。
ひまわり動画の話
ところで昔、「ひまわり動画」という動画サービスがありました。そこでドラえもんの映画とかを観ると、ユーザーからのコメントがたくさんついてて、めっちゃ面白いんですね。のび太もドラえもんもジャイアンも、けっこう冷静に見ると奇行が多いので、そういうのに冷静に突っ込むコメントが面白いのです。
まあ違法アップロード動画なのでよくないし、僕は今はあの種の動画サービスはさすがに観ていませんが……ああいうツッコミカルチャーがあったら、『赤毛のアン』は相当面白いだろうな、なんてことを思いました。なにせアンの言動は、かなりクレイジーというか、一歩引いた目でみるとめちゃくちゃ自由なんですね。マイペースだし、急に妄想はじまるし、もうメチャクチャ。
でも、昔の少女漫画の主人公って、こういうキャラクターが多かったかもしれないですね。
児童文学や児童アニメって、なんであんなに「みなしご」の話が多かったんだろう
そういえば『赤毛のアン』はみなしごの話です。
僕が小さい頃に観たアニメで印象に残っているのは『みなしごハッチ』。これはなかなか悲しいというか怖い話だったように思います。
安達祐実主演で社会現象にもなったドラマ『家なき子』なんかもそうですよね。
児童文学においても、『赤毛のアン』以外にも、『長くつ下のピッピ』『あしながおじさん』『フランダースの犬』『アルプスの少女ハイジ』『小公女』など、孤児または親元から離れた子どもが主人公となる話が多いように思います。トム・ソーヤーやハックルベリー・フィンなどもそうですよね。
こんな記事もありました。
親がいないという境遇にいる主人公は、試練をみずから引き受け、考え、行動しなければなりません。そのため、主人公の葛藤や発見や成長が描きやすい、可哀想という思いから読者の共感を引き出しやすい、などのメリットがあるのでしょう。
またアメリカの作品が多いのは、アメリカという国がイギリスから独立した新しい国で、そういう意味ではヨーロッパの文化的な歴史と決別した、不安定さと自由さをあわせ持つ国であるということもあるかもしれません。実際、アメリカは〝孤児〟に例えられることが多いそうです。
(望林堂 書店: 児童文学と孤児の主人公 より)
日本でもアメリカ的な児童文学がよく受け入れられたのだと思いますが、これは戦後のことなんじゃないかな……という気がしますが、どうなんでしょうね。
自分がこういった児童文学に親しんでいたころの心情を思い返すと、どうだったかな。「自立したい」とまではいかないけれど、煩わしい親のいない自由な暮らしをしたいというような願望はあったかもしれません。ただ、それは果たして成長願望なのかというと微妙です。
子どものままで、もっと自由に暮らしたい、冒険したい、というような気持ちだったように思います。
それこそ、アンのように、空想をめぐらして生きるという、そういう楽しさを、僕は児童文学のなかに感じていたのではないかな、と思います。
しかし前回書いたように、戦後日本の朝ドラ的な感性と、アメリカ的な自立志向=プロテスタンティズムというのは、今も私たちの暮らしや心情のなかに深く根を下ろしているのかもしれません。
あまり書きすぎるのもあれなので、今回はこのへんで。
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