社会学者の舞田敏彦氏がプレジデントオンラインに寄せた「「東大生の親」は我が子だけに富を“密輸”する」という記事がちょっとした話題になっていたのでそれについて少し書いてみたい。
文化は親が子どもに吸収させるもの?
この記事は、かなり乱暴に要約すると、「東大生の親の多くは高所得者であり、富裕層は教育投資というかたちで子どもに自らの持つ富を贈与している。小学校時点で塾に通わせ、私立の名門中高に通わせ、さらに塾にも通わせることによって子どもを東大に入れている場合が多い」ということを述べている。
これは10年以上前からよく言われていることでもあるし、データと主張の相関関係も相当認められるので特に異論はない。ちなみにこの問題ついては前に詳しく書いているということがある。
しかし引っ掛かるのは、舞田氏がこう書いていることだ。
「たとえば、学校で教えられる(抽象的な)教科内容に親しみやすいのは、どういう家庭の子どもか。おそらく、家にたくさん本があり、幼い頃からそれに慣れ親しんできた子どもでしょう。家庭の文化的環境の影響は、芸術系の教科ではハッキリ出ると思われます」
舞田氏は、要するに「文化資本(=人が身に着けている文化的経験)」が子どもの社会的地位に影響を与えるのではないかということを言っている。そしてその裏付けとして示されるのが、「小学生の趣味としての読書・美術館賞・海外旅行経験と両親の年収がきれいに比例していること」。
しかしこれだけでは「家にたくさん本があり、幼い頃からそれに慣れ親しんできた子ども」が「学校で教えられる(抽象的な)教科内容に親しみやすい」ということの説明にはなっていないのではないか。むしろこの記事で示されているグラフからは、年収1500万以上の家庭で、「趣味としての読書」に親しむ子どもが69.8%なのに対し、年収300万以下の家庭でも「趣味としての読書」に親しむ子どもは45.6%「も」いるという解釈も可能だ。
そもそも文化資本という言葉は、フランスの社会学者ブルデューが作ったもので、階級意識の残るフランス社会の構造を描写しようとして編み出したものだ。
そしてブルデューが「文化資本」という概念を作り出した背景には、農村出身なのにお金持ちの子息ばかりの名門校(エコール・ノルマル・シュペリウール)にうっかり入ってしまったブルデュー自身の青春期の苦しみがあるという(竹内洋『教養主義の没落』より)。文化資本という言葉にはフランス人ブルデューの個人的なルサンチマンが反映されているので、本当は取扱いに注意すべき概念なのだ。
「宿命論」とは何か
ところが、『ブルデュー 闘う知識人』の著者・加藤晴久氏によれば、「ブルデューは宿命論は慎重に退けていた」のだそうだ。
……と、その前に「宿命論」とはどういうものかを説明しなければならない。
普通は、上記のような「文化資本が子供の社会的地位に影響を与える」という事実が明らかになれば「頑張っても無駄だ」「だから頑張るのはやめよう」と考える人が多くなるだろう。
そういった、「人間は自分の運命を自分で変えることはできない」という思考様式が「宿命論」である。格差に関する議論を行う際、この「宿命論」に陥ることに対しては極めて慎重にならなければいけない。
何よりも重く見るべきなのは、「文化資本」という概念を作り出したブルデュー自身が文化資本に恵まれなかったのにもかかわらず、世界的に高名な社会学者になったということだ。
ちなみに、ブルデューの子ども3人もエコール・ノルマル・シュペリウールに行っているというオチもある。ブルデュー自身はガンガン階級を再生産していたわけである。人間だもの。
格差論者の議論をざっとまとめてみると
さて、格差について発言している日本の社会学者たちは、よくこの「文化資本」が、「超業績主義」に傾きつつある社会で大きな存在感を持つようになると言っている。どういうことか。
曰く、戦後日本では「誰でも頑張って勉強すれば東大に受かる」というような「業績主義(メリトクラシー)」が社会の基調をなしていた。それが崩れて現代は格差社会化しつつあり、むしろAO入試などコミュニケーション能力などの曖昧な指標でその人の能力を測る試験が多くなっている(こういう社会を超業績主義=ハイパー・メリトクラシーと呼ぶ)。そのコミュニケーション能力には家庭の経済資本だけでなく文化資本が大きく影響する、ということだ。
ここで僕は格差系の社会学者たちの言説に違和感を持つ。彼らの言っていることを雑にまとめると、こうなる。
「経済資本を持っている家庭が文化資本も持っていて、もともと有利な人はずっと有利だよ」
「というか文化資本を持っている家庭は、経済資本を持っているから富裕層だよ」
「貧困層の家庭には、文化資本も足りていないよ。ていうか、まとめると文化資本を持ってる家庭は富裕層で敵だよ」
つまり「文化資本を持っている家庭→経済資本も持ってる→敵」というバカボンのパパのような三段論法になってしまっているのではないか。格差系論者たちには、要するに下記の2つの見落しがあるように思う。
・文化資本を持っている貧困家庭が想定されていない。
・親に文化資本がなくとも、自分で主体的に文化資本を身につける子どももいる。
文化資本を持っている貧困家庭だって当然あるだろうし、親の教育なんて関係なくどんどん本を読む子どももいる。それに対して「家の蔵書が大事だよ」「美術観賞が大事だよ」「それが超業績主義社会における社会的地位の獲得に結びつくよ」などという単純な図式を持ち込むと、「文化資本をもともと持っている家庭に生まれた奴はいいよな」などというナンセンスな宿命論的社会観を生み出してしまうだけではないのか。
そもそも経済資本は簡単に獲得できないが、文化資本は自分で図書館に行くなり、美術観賞をしたり、様々な文化的体験を自分で獲得すればいい。それがおカネ(経済資本)ではない「文化」資本の良さでもあるはずだ。
格差にまつわる議論は、格差の少ないフェアな社会を作っていくためにこそ行われるべきものだ。ところが、文化資本にまつわる議論を中途半端に展開してしまうと、人々に(本当はナンセンスな)絶望をふりまくことになる。格差の議論をしているうちに、むしろ宿命論的社会観が強化される。それがやがて社会に諦念を広げることへとつながり、かえって格差を固定化するのではないか。
だとすると、こう問われなければならない。
「そういった文化的経験は『親から与えられるべきもの』なのか?」
格差論者たちはもっと「文化」のことを考えるべきではないか
思うに、格差系の論者たちはある種、文化というものを高く見積もりすぎている。
彼らが好んで使う文化資本という言葉には「文化」という言葉が使われているが、「文化ってじゃあいったいどういうものなの?」ということを本質的に考えようという気がない、もしくは「文化」という言葉の中身をあまり吟味せず、「なんとなくオシャレでムカつくもの」ぐらいの認識にしかないようすら見受けられる。
そもそも基本的に、文化の吸収や創作というものは本人の主体的な営為によって成り立つものだ。親から押し付けられた文化や教養というものは、果たして文字通りの「文化」や「教養」としての役割を持ちうるものなのだろうか?
ブルデューが「文化資本」と言ったとき、それはクラシック音楽の知識とかテーブルマナーとかそういった階級依存型の文化を習慣(ハビトゥス)として身に着けている人々を対象にしていたのだと思う。しかしそれはあくまでもクラシック音楽などの階級依存型文化のみを指しており、それは文化と呼ばれるもののごくごく一部でしかない。
かつ、そういった習慣を身に着けていて日本社会で有利になるとはあまり思えない。そういう文化的蓄積がある人達が、日本の就活制度において「勝ち組」であると見做される、たとえば三菱商事や三井物産に入っているのだろうか?
個人的にはむしろ、日本において経済資本が豊富な人たちは、文化資本に関してはたいへん貧しいとすらいえるし、そのことのほうが問題だという印象がある。こういった点を、格差論者たちはどう考えているのだろうか。
さらにいえば、経済資本格差と宿命論は相性がいい(「お金持ちはいいよな」という思考は広く見られる)が、文化資本と宿命論は本来、相性がいいものではない。
ちなみに、経済資本が少ない子どもたちに文化資本を、家庭からではないやり方で身につけてもらおうという方向性はいいと思う。文化の豊かさは人生の豊かさに繋がると思うからだ。
では、果たしてそれをどうやってやるのか? そもそも文化というものは本人の主体性の発現があってはじめて吸収され生み出されるものだ。それを「教育」というかたちで吸収「させる」というやり方がいいのか? という議論が必要なのではないかと思う。
(おわり)
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