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プーチンとSDGs | にどね研究所

プーチンとSDGs

雑記

日本のニュースはウクライナでもちきりになっている。こういう報道にどうも違和感を感じる。イラクやアフガン、チェチェンやアブハジア、ウイグル、香港に関してはここまでやっていなかった。「ウクライナは戦争だから当然だろ」と言われるかもしれないが、他の紛争とどう違うのかが僕にはよくわからない。……いや、違いはわかる。「ヨーロッパ人が戦争に巻き込まれている」という点だ。

ウクライナがこれだけ報道されるのは、日本人がそもそもアジアではなくヨーロッパのムードに影響されるということの現れなのかなと思う。アジアの紛争はどうでもよく、ヨーロッパ人が巻き込まれたら大騒ぎになる……今回の件で、自分にもそういう部分があったことに改めて気づいた。明治の「脱亜入欧」のノリが潜在意識のレベルで根付いてしまっている、ということではないか。

SDGsの眼目は”No one will be left behind”

近年話題のSDGsでは“No one will be left behind”というのがキーフレーズになっている。

直訳すると「誰一人取り残されない」(直訳だと日本語のキャッチーさが減るからなのか、政府文書やメディアでは「誰一人取り残さない」と紹介される。受動態と能動態ではけっこうニュアンスが変わってしまう気がするのだが)。

“No one will be left behind”は、けっこう難しいことを要求している。

要は、プーチンですら、森喜朗ですら、京王線ジョーカーですら「誰一人取り残されない」……これはなかなか難しい。しかし、SDGs的な発想でロシアに対処しようという動きはほとんどないなぁと思う。

「ロシア擁護」の文脈

報道を見ていると「プーチンの精神状態がおかしい」というような予測が出ていたりする。これにも違和感がある。「プーチンはメンタルがやられているからこんな野蛮な行動に出ているのだ」というニュアンスが感じられる。プーチンの本質化だ。本質主義的な思考や理解はいつも危うい。

「プーチンが狂気に陥っている」というのは、あくまでも米欧中心主義的なパラダイムな気がする。プーチンが正気で冷静にこの戦争を仕掛けているとしたら、どうするんだろう?

最近では、鈴木宗男や佐藤優が「ロシア擁護」ということで批判されている。

僕は学生時代に鈴木宗男や佐藤優関係の本はけっこう読んでいて、そのときに思ったのは、彼らは少なくとも「日ロ友好」をめちゃくちゃ本気で考えてきた人たちだということだった。一般的な日本人にとって「日ロ友好」なんていうのは関心の埒外だろう。

ロシアの思考を理解しようと努めてきた彼らの言動は、結果的に「ロシア擁護」に見えるという側面があると思う。でもそれは、一概に断罪すべきことなのだろうか? と思ってしまう。

鈴木宗男や佐藤優の考え方は、米欧中心主義とは全然違う。私たちに馴染みのない思考法なので、彼らに対してはすぐに「悪人」というレッテル貼りがされてしまう。でも僕は、彼らのロシア理解とそれに即した考え方に、今まで出会わなかった何らかの魅力――いわば「ロシア的魅力」というものがあるようにも感じた。ネットではよく「おそロシア」とか言われるが、そこまで他者化しているわけではないものの、ヨーロッパとアジアが混淆した何物かがある感じがするのだ。

独ソ戦、ロシアとウクライナ、ユーラシア主義

ところで、今般の戦争を考えるうえで、第二次大戦時の独ソ戦の影響はしっかりと見積もらないといけないと思う。ソ連は2700万人もの国民を殺された。日本が太平洋戦争で失った国民の数は(兵士も市民も全部あわせて)300万人だ。その約10倍もの人を失ったロシアの人々の「西ヨーロッパが攻め込んでくる」ことへの恐怖の強さはなかなか想像しがたいが、ロシアでは独ソ戦のことを「大祖国戦争」と言っているらしい。そういえばスターリンは衛星国を西欧との間に挟むことにものすごくこだわったが、それはスターリンの被害妄想だけでなくロシアの民衆に共通したものであったかもしれない。

ロシアとウクライナの関係は、「実家みたいなもの」とよく言われる。ロシアにとってウクライナは京都とか奈良みたいなものだ、と。それと、ウクライナからみたロシアは「野蛮な国」という感覚がある、ともいわれる。というのも、ロシアは中世にモンゴルの侵略・支配を受けて――歴史の授業で習う「タタールのくびき」というやつだ――「半分アジア化した」「だから野蛮だ」という感覚を、ウクライナの人たちが持っている部分がある、とのことだ。

プーチンはユーラシア主義を掲げているが、それは米欧中心主義に挑戦するという意味合いがある。ユーラシア主義というのは「ロシアは半分ヨーロッパで、半分アジア」という発想だ。

日本は「名誉米欧」でアメリカの核の傘のもとにいるので、こうしたユーラシア主義に近づくことは考えづらい。しかし、ロシアが半分アジアなら、それはそれで日本が仲良くできる可能性もないとはいえないので、その可能性をまるまる潰してしまうことに多少の躊躇があってもいいのではないか、と感じる。

戦争の英雄的な語り

ゼレンスキー大統領やウクライナ兵士・国民の英雄視に関しても違和感がある。戦争に行く奴が偉くて、行かない奴は非国民というのは、戦前の日本とどう違うのだろう。

毎日新聞で柳原伸洋氏が以下のように語っていた。

 愛国心から国防に参加するといった物語が多く出回っているが、それは一面的であることを忘れてはいけない。もちろん愛国心から参加する人もいるが、乗り気でなくても必要に迫られて参加する人もいるだろう。常に戦争は個人の個性をはぎとろうとしてくる。

 それは、女性に対しても始まっている。ウクライナ女性に対して「勇敢な女性」などといったまとめた語りが生まれている。ウクライナ人女性も多様な考えを持ち、多様な状況にある。戦下にいる人は悲惨な姿ばかり語られるが、冗談や愚痴だって言う。

 避難民も私たちが思う「避難民らしくない」行動をとる人だっている。私たちが勝手にイメージを押し付け、そのイメージを強化している側面があることを忘れてはいけない。一面的な見方というのは、戦争の本質を見失わせるからだ。

声をつないで:戦争は「男の顔」をしているか ウクライナ女性兵が注目される背景は | 毎日新聞

個人的には、ゼレンスキーも、ウクライナ兵士や国民も、本当に大変なところを頑張っているということは思う。でも、英雄視をするというのは同時に「好戦的になる」ということも意味するんじゃないか?

「逆張り」と「両論併記厨」という言葉

ちなみに、こういう話を仲良い人とリアルでしたところ、「それって逆張りではないの?」と言われた。自分としては逆張りしているつもりは全然なく、自分なりに色々情報を見て勉強した上で、単に「物事にはいろんな側面がある」ということを言っているだけのつもりだと説明した。

最近、Twitter上で「両論併記厨」という言葉を、ある知識人が使っているのを見かけた。ウクライナ戦争に関して、「プーチンやロシアの言い分をフラットに伝えるな」ということが言いたいようだった。

これはコロナの報道でも見られる。「ワクチンは本当に安全性は大丈夫なのか? 多くの人が熱が出るワクチンって健康被害ではないのか?」などと疑義を挟むことは、特にマスメディア上では長らく許されない状況が続いてきた。ワクチンに少しでも疑義を呈すると「反ワクチンだ!」とレッテル貼りされてしまう。少しの疑問もさしはさんではいけないらしい。

ウクライナ戦争に関して「ロシアの言い分は何なんだ? ちゃんと聞いてみたほうがいいのでは?」ということも非常に言いづらい。コロナやロシアに関して「両論併記」は許してはならないって変じゃないの? と、そんなことを言うと、すぐに「表現の自由戦士」というレッテル貼りの言葉が飛んでくるようだ。

戦前の日本も特高警察と治安維持法と憲兵によって言論の自由が制限されていて、「日本は負けるかも」「戦争に行きたくない」などと言ったら「非国民!」という言葉が飛んできたらしいが、「両論併記厨」「表現の自由戦士」といった言葉は、どうも、そういうものとして使用されがちなところが気になる。それにしても、両論併記「厨」とは、なかなか強い言葉であると思う。

バイデンとトランプ

ついでにもうひとつ「逆張り」的なことを書いておくと、トランプが大統領だったら今回の戦争は起こったのだろうか? とも思ってしまう。トランプはプーチンと個人的な関係を築いており、こんなことになりそうになったら事前に直通電話で「もしもしプーチン? ウクライナのことなんだけど…」とトップ外交ができたんじゃないか? とも思う。

しかしバイデンは、就任当初からずっとプーチンに対して挑発的、挑戦的で、ネオコンも真っ青という感じだったのだが、誰も注意しなかった。

トランプがいい大統領だったかどうかはわからないが、バイデンは戦争抑止が“結果として”できなかった。そのリーダーとしての責任を追求しなくていいのだろうか? トランプ在任中にアメリカは戦争を起こさなかった。政治は結果責任を問うことが重要だと思うが、どうなのだろう。民主党の大統領であれば無謬、という感じになっていないだろうか? そんなわけはないと思うのだが。

ところで、桑田佳祐の「Soulコブラツイスト~魂の悶絶」という曲がとてもいいなと思った。

この曲はユニクロのCMで流れているが、「命がけで今日も生きてるんだぜ〜」というシリアスなフレースが非常に明るい曲調で流れてくるのが印象的だ。疫病や戦争のある世の中で、それでも生きていく、そういう感覚をよく表わしている感じがする。

この曲を聴くと、『いだてん』の満洲でのシーンを思い出す。

そんなわけで、桑田佳祐のこの曲は、いまの世相をよく表わしているいい曲だな、と思う。

編集者、ライター。1986年生まれ。2010年からカルチャー誌「PLANETS」編集部、2018年からは株式会社LIGで広報・コンテンツ制作を担当、2021年からフリーランス。現在は「Tarzan」(マガジンハウス)をはじめ、雑誌、Webメディア、企業、NPO等で、ライティング・編集・PR企画に携わっています。
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