最近は、レギュラーの仕事をかなり絞っている(自然に減っているともいう)ので、そちらは早巻きで進められているが、肝心の「文化系のための野球入門」連載の執筆がそこまで捗々しく進められているわけではない。
最近思ったのは、「できるだけすべてのニュースを断つべきではないか」ということだった。朝はテレ朝のモーニングショーをつい見ちゃったり、コロナ関連ニュースが高揚しているときは「はてなブックマークの反応どうなってるかな〜」と見に行ってしまう。Twitterで何か炎上事件が起こっているらしいときは「何が起こってるんだろ〜」と見に行ってしまうが、それは火事場に群がる野次馬のような行為である。
そもそも、コロナもネットの炎上事件も自分には関係のない話だった。そしてはてなブックマークとTwitter炎上は、今や感情渦巻く悪い場所となっているので、それに接すると知らず知らずのうちに悪意とかいろいろな感情の噴出にあてられ、メンタルには悪影響がじわじわくるように思う。はっきりと瞬時に身体的に自覚はされないが、おそらくそれはある気がする。
一方、自分は、基本ほとんど人と会わず出歩かずに家に引きこもってリサーチ、文献調査と執筆をしているだけである。日々運動してよく食べ、よく寝て、できるだけ規則正しく生活しており、基礎疾患もない。
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そういえば最近やっと『ドライブ・マイ・カー』を観た。西島秀俊の姿に、ある知人の40代男性の姿が少し重なった。同作での西島は、寡黙で自己開示に積極的でなく、「自分は自分をコントロールできる」と思いすぎ、大切なことをを大切な人に伝えられない。確実にある大切な人の知らない姿を「知らないふり」を通してしまい、その人に近づく、関係性をゆるやかに変化させ、傷つきながらもそれを受け容れる勇気を持てない。
「自分は自分をコントロールできる」という過信はToxic Musculinityだと思うが、傷つき関係性が変化することを受け容れるというのは勇気だと思う。Musculinityの良い面としては「勇気」があると僕は思う(それはよきFeminityかもしれない)のだが、西島秀俊はその意味でのMusculinityを持てない――その男性として生きる難しさのようなものが『ドライブ・マイ・カー』では描かれていた。村上春樹の核心部分とはたしかにそういうものな気はする。
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とにかく今は明治大正期にダイブするような感じがいい気がする。世間が2022年を生きているなかで、僕は1890年代〜1910年代を生きる、みたいな。今の身体感覚はどうしても2022年であり、それはしばらく現世から離れたとしても簡単に浦島太郎のように失われるようなものではないと思われる。身体感覚を1890年代〜1910年代に慣らす。とにかく積み上げる。そんで野球のことだけを考えることに集中する。というか、そもそもそうしないと終わらない、という現実的な問題があるので……。
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