中東のトイレに適応した身体で考える

人類学

 今回は、中東や、南アジア、東南アジアでも見られ、「イスラーム式」とも言われることのあるトイレについて書いていきたいと思います。和式の便器のようにしゃがむタイプですが、 和式トイレ便器の前方にあるドーム型の覆いの部分がないものだといってよいでしょう。 私が初めてこのタイプのトイレを体験したのは2009年にトルコを旅行したときでした。また、イランにおいてもたまに洋式トイレを見かけることありますが、なんといっても大半のトイレはしゃがむタイプのものでした。

2009年にトルコのカッパドキアを訪れた時のトイレ。イランとは微妙に便器の規格が微妙に異なっています。また、トルコではホースではなく、桶が多いです。

 当初、私はこのタイプのトイレに十分に適応していなかったのですが、次第に現地の人々と同じように利用できるようになりました。そうすると、日本に帰国してからもそれまでの普通であったことが別様に感じるようになります。これこそが文化人類学者がフィールドワークを通じて現地を理解するだけではなく自分の文化を反省的にとらえ直す契機となる体験です。以下では、筆者のイランでのトイレの体験から考察してみたいと思います。

お尻を水で洗う

 そして、トイレットペーパーはありません。その代わりに蛇口とジョウロ(バケツのところもありますが、使いづらいです)があるか、シャワーヘッドのつけられていないホースが設置されています。

アルメニアでのイラン国境から首都イェレヴァンに向かう途中のサービスエリアのトイレにて。イェレヴァンで見たのは洋式トイレでしたが、ここではイランと同じ形の便器でした。そしてホースにはトリガーが付けられていて、水圧も強かったです。

 横に備え付けられたホースをどのように使うのかと言えば、「大」をしたあとに尻の穴を紙で拭き取るのではなく、水をかけながら左手でこすって洗い流すわけです。そのようなわけで、手を洗うところには匂いが強めのハンドソープが備え付けられていることが多いです。日本で生まれ育った人にとってこれは耐え難いことだと思います。私自身も旅行で行ったときには常にトイレットペーパー(しかも日本製の薄く柔らかいもの)を持ち歩いていました。覚悟を決めたのは、たまたまトイレットペーパーを持ち歩いていなかったときに大をする必要に迫られたからでした。

 それまで大いに抵抗があったわけですが、一度体験するとその合理性に納得しました。例えば、最近は日本でもウォシュレット(※ちなみに「ウォシュレット」というのはTOTO社の登録商標らしく、正しくは「温水洗浄便座」と言ったほうがいいらしいのですが、現在の日本では「ウォシュレット」という言葉のほうが普及しているためこちらを使用します)のトイレが普及していますが、まだまだトイレットペーパーだけということが多いと思います。よく考えればわかりますが、トイレットペーパーで何回拭き取っても完全にきれいにすることは無理でしょう。肌にもよくないです。その点、水で洗い流すというのは端的にきれいになります。ふき取りが不十分で下着が汚れることもないわけです。

 トイレットペーパーがついていないので、どうやって乾かすのかという疑問はあるでしょう。気になるのであればティッシュを持っていくという方法がありますが、特にイランでは湿度が低いためにすぐに乾くので気にならないということもあります。

テヘランで二番目に借りた家。トイレとシャワーは別でした。

宗教とトイレの関係

 さて、こうしたトイレは地域と結びついているわけですが、宗教の教義とも関連しています。イスラームでは、義務である日々の礼拝を行う前に顔や手や足を水で洗います(ウドゥー)。そしてシーア派では、ウドゥーを行う前にお尻の穴や尿道も洗浄しておく必要があるのです。そのようなわけで、ウォシュレットの機械というよりもホースがトイレの隣に設置されていることが重要なわけです。実際これも、やってみると合理的であることがわかります。小便の切り方が甘ければ下着が汚れることになるからです。

 このような宗教的な義務は慣習とも結びついていますので、いわゆる「宗教的ではない」人も行います。イランでは、礼拝をきちんと行っていないムスリムを見つけるのは難しいことではありませんが、それでもトイレで用を足した後の洗浄は行っているでしょう。 

立小便厳禁

 最近では日本でも家のトイレで立小便を禁止するようになってきていると思います。イランでも立小便をたしなめられたことがありました。テヘランで家を借りて、友人とルームシェアをしていたときです。立小便をする際には、小便を便器の白い所に当てると跳ねてズボンにかかってしまう可能性があるので、水が流れる穴を狙っていました。しかし、そうするとジョボジョボという音が聞こえるわけです。友人はその音に、非常に不快感を感じていました。

 そしてあるとき、「立小便しているとイランの女性と結婚できないぞ」と言われたのでした。実際、ズボンを履かずに小便をするとわかりますが、立小便はしぶきが跳ね返るのがわかります。宗教的な清浄云々以前に汚いわけです。それ以来、小便のときには面倒でもしゃがんでするようになりました。

便器洗浄用の洗剤。いかにも劇薬といったふうな臭いがしました。掃除自体は便器と床自体にまるごと洗剤をまいてブラシでこすって最後に水を流すだけなので洋式の便器よりも楽です。

水洗いの不可逆性?

 一度水で洗うことの合理性を覚えてしまうと、もう以前のように紙だけで拭き取るというのには戻れなくなってしまうということがあります。日本に帰国後にはウォシュレットのある所を選ぶようになりましたし、それがない場合にはペットボトルに水を入れて代用を試みたりしています。紙だけで拭き取るというのに耐えられない感性になってしまったわけです。

 こうなると他者への想像力・共感力も働くようになります。例えば、こうしたトイレに慣れ親しんでいる人々が日本に来て、ウォシュレットのついていない便器を利用しなければならなくなったとしたら、どうでしょうか。とてもつらい経験になると思います。実際、イランでかつて日本に出稼ぎに行ったことのある人と知り合った際にその話題をしたことがありました。彼らはペットボトルなどを使って工夫して洗っていたそうです。

 近年、インバウンドへの関心から、ムスリムを対象として、ハラール認証や礼拝スペースの設置などが検討されることがあると思います。しかしながら、本気で「おもてなし」を考えるのであればトイレの設計から考える必要があるでしょう。単に便器が洋式なだけではだめなのです。例えばムスリムに使ってもらうことを考えるならば、個室でホースを付ける必要があるわけです。

 というのも、ホースで洗うということは、日本のウォシュレットとは、洗う原理が異なるからです。ウォシュレットというのは水圧で洗うものです。そして、きちんと洗えたかどうかはトイレットペーパーで拭き取るまで確認することができません。一方、ホースを用いて手洗いというのは自身の手の感覚を頼りにすることです。そのため手を洗うための石鹸は不可欠なのです。

 次回は、イランでのカウチサーフィンの思い出について書きたいと思います。

谷憲一のプロフィール

2022年に一橋大学より博士(社会学)。日本とイランを往復しながら人類学の研究に勤しんでいたが、このたび英国オックスフォードに滞在。趣味は料理と筋トレ。
単著☞『服従と反抗のアーシューラー』(近刊)
研究業績 ☞researchmap

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