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共感力を重視せず〈同調力〉ばかり求める社会ではYUKIのような天才は生まれない | にどね研究所

共感力を重視せず〈同調力〉ばかり求める社会ではYUKIのような天才は生まれない

カルチャー

堀裕嗣『スクールカーストの正体ーーキレイゴト抜きのいじめ対応』を読んだので、今回はこの本について。

スクールカーストの正体
堀裕嗣『スクールカーストの正体ーーキレイゴト抜きのいじめ対応』(小学館新書)

ちなみにいきなり先行本をDisっておくと、スクールカーストを題材にしたものでは、鈴木翔『教室内(スクール)カースト』が一番最初に出た書籍だと思うが、この本ははっきり言ってスクールカーストに関する疑問にほとんど答えておらず、まったくといっていいほど参考にならなかった。

しかしこの『スクールカーストの正体』は、現場の中学校教師の視点から、様々な先行研究・文献を参考にしつつ、今の若い世代が抱えるコミュニケーションの問題に正面から答えようという意欲的な著作であるように感じた。

この本では、森口朗が『いじめの構造』(新潮新書)で示した、コミュニケーション能力といじめ被害者リスクを、自己主張力・共感力・同調力の3つの指標でマトリクスにしたものが紹介されている。

スクールカーストのマトリクス1

スクールカーストのマトリクス2
(同書より)

この分類では、〈共感力〉と〈同調力〉が分けられているのがミソだ。要は「共感と同調は違う」ということである。そして堀裕嗣は、現代の若者のコミュニケーション環境では〈共感力〉よりも〈同調力〉のほうが重視されているという。かなり簡単にまとめると、今は他者への深い共感ではなく、表面的にその場のノリに合わせる「同調力」のほうが生徒たちに重視されているということだ。そして重視されるのは同調力、自己主張力、共感力の順番であるという。

スクールカーストに大きな影響を及ぼすテレビバラエティ番組

堀裕嗣はその影響源としてテレビのバラエティ番組におけるひな壇芸人の存在を挙げている。その主張の社会科学的な正しさはよくわからないが、ここではひとまず堀裕嗣の論にしたがって考えてみたい。

この本で例に挙げられているのは島田紳助、浜田雅功や松本人志、明石家さんまである。この種の芸人が司会をつとめるバラエティ番組では、誰かが突拍子もない発言をすると、しばしばひな壇芸人によって「空気読めよ!」という叱責が飛ぶ。そしてこのひな壇芸人の「空気読めよ!」という発言を裏で実行させ、「空気」を支配しているのは基本的には司会者であるという。

で、たとえば僕のような「空気」の嫌いな人間は、島田紳助のような強権的に「空気」を支配している芸人司会者がいる時点でその番組を見る気が失せる。その司会者の機嫌や意向が別に「社会」ではないのに、あたかもそれがすべてであるかのような空間が公共の電波に乗って放送されていること自体に嫌悪感を感じる。

狭い「テレビ的世間」がすべてであるかのような錯覚をもとに、スクールカーストでも「空気」の支配者が自分の意に沿わない他者の多様性を抑圧し笑いものにする。そしてそれに合わせる「金魚のフン」的な同調者たちの小市民ぶりも残念である。

本来、人の意見には多様性があり、それ自体が面白いことではないのだろうか……? 誰かに合わせて、自分が言いたいことがあるのに言えない空間ほど、人間の限りある時間を浪費させるなものはない。つまりPoisonなのだ。

うん、わりと思い切って書いてしまった。ポイズンだ。

で、この本に戻ると、ここで挙げられていないのが雨上がり決死隊と「アメトーク!!」という番組の存在である。これが他のバラエティ番組と違うのは、司会の宮迫博之を、「とても了見の狭い人間である」と位置づけている点だ。

ひな壇芸人が何かのマニアックなトークに花を咲かせていると、宮迫はニヤつきながら「全然意味わからんなー」という顔をしている。そして母性的なキャラクターである蛍原が、意味がわからないながらもお母さん的に一生懸命に拾おうとする。本来マニアックなトークというものは「閉じている」ものなのだが、宮迫・蛍原が一般視聴者の代理として「意味わからん」というキャラクターとして登場することで、マニアックなトークと社会をきちんと結びつけているのだ。

同じことは「ワイドナショー」にも言える。ダウンタウンの松本人志は司会者として登場する場合には島田紳助と同じく強権的な支配者になってしまいがちだが、この番組ではパネリストの一人として登場していて、「松本の意見はあくまでも松本の意見である」ということがきちんと明示されているので、むしろ松本の意見の独自性が引き立つようになっている。

こういった現代のバラエティ番組の問題を考えるとき、僕のような90年代に子ども時代を過ごした人間が思い出すのは、「うたばん」や「HEY! HEY! HEY!」のようなかつての音楽番組の存在だ。

実はこれらの音楽番組はヴィジュアル系のようなモンスター的なキャラクターをうまく社会とつなげることに成功していたし、だからこそヴィジュアル系はあれだけのムーブメントになったと思う。

司会の中居正広や石橋貴明、そしてダウンタウンらはLUNA SEAやL’Arc~en~Cielのような野生のV系バンドマンたちの個性を抑圧したりせず、絶妙なさじ加減でイジりながら、「変なやつだけど面白い」という紹介の仕方をしていた。

今のコミュニケーション環境で生まれ得ないものは「野生動物」

テレビバラエティ方向に話がそれ過ぎたが、やはり今の若者のコミュニケーション環境にはひな壇芸人的な作法がどうしても流入してしまう。テレビ的なものを毛嫌いしているはずのオタクですらも、カジュアル層はとにかく〈同調〉を再優先し、「マニアックなオタクトークをしている自分」程度の自意識消費しかしていない。そこには、同好の士に対する深い〈共感〉や、もしくは自分とは違うジャンルだけれどもその「はみ出し方」に対する〈共感〉のようなものも生まれ得ない。そしてそれは過剰さを回避し、他人から批判されないように生きなければならないネット社会ならではのものでもあるのだろう。

まあ場の支配者による自由な言論の抑圧や、それに「金魚のフン」のごとく〈同調〉する小市民的な在り方をどうしても続けたいというのであればそれもいいが、外側の人間を巻き込むのはやめるべきだ。

一方で、僕はこういう社会で生まれ得ないもののことを考える。それは一言でいうとYUKIである。

最近、JUDY AND MARYのTV初登場時の動画がYouTubeが上がっていたので見た。

この番組でのYUKIは完全な「不思議ちゃん」である。司会者の赤坂泰彦に対するリスペクトの念は微塵も感じられないし、場の空気に〈同調〉しようとする気がゼロである。

今だったら2ちゃんねるでスレが乱立し、それがまとめサイトにまとめられて大炎上することだろう。このYouTubeのコメント欄すらも、リアルタイムの番組ではないのにプチ炎上している。
しかし幸運なことにYUKIが登場した時代にネットはまだなかったので、そのまま世界に羽ばたくことができた。その結果、我々は今でもYUKIの歌を聞くことができる。YUKIは〈同調力〉はないかもしれないが、彼女の書く歌詞には、世界に確固として存在しているわけではないふわっとした情景や心の動きに対する〈共感力〉を感じることができる。

しかしYUKIのような存在は、2010年代の若者のコミュニケーション環境で果たして生存し続けられるだろうか?

90年代の野生動物的なアイコンとして、おそらく似たような立ち位置にあるのがX JAPANのYOSHIKIであると思うが、YOSHIKIは仮にいま教室内でスクールカースト的ないじめに遭ったとしても武力で対抗することができる。しかしYUKIにその武力はなさそうだ。何となく、そのまま不登校になってしまい、その才能を開花させるには昔よりもずっと時間がかかるような気がする。

現代のコミュニケーション環境では、YUKIのような〈同調力〉と武力はないけれども〈共感力〉の高い才能が出てきにくくなる、というのが文化の問題としてあるように思う。

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