『心が叫びたがってるんだ。』とスクールカースト

カルチャー

ヒットアニメ『あの日見た花の名前を僕達はまだ知らない』(あの花)の長井龍雪・岡田麿里・田中将賀のトリオによるアニメ映画『心が叫びたがってるんだ。』(以下ここさけ)を観てきた。

そもそも僕はに対しては『あの花』に対してはけっこうアンチである。というかそもそもアニメをそこまで好きなわけではないが、岡田麿里脚本の作品はわりと観てきたので、今回の『ここさけ』もそれなりに楽しみにしていた。

で、結論からいうと、『ここさけ』は、アニメ映画としては『コクリコ坂から』以来ぐらいに面白く観ることができた。

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http://www.kokosake.jp/

スクールカーストをめぐる状況

岡田麿里脚本作品はオタク男性視聴者の扱いが非常に上手いと感じている。

『True Tears』は主人公が無根拠にモテるというギャルゲフォーマットに従いつつも恋愛ドラマに必要なドロドロや登場人物の心情の動きを繊細に描いていた。

『とらドラ!』においては、オタク男性の抱きがちな「リア充爆発しろ!(でも本心ではリア充になりたい…)」という欲求によく応えていて、実際にはリア充男女のラブコメに過ぎない話を、オタク男性の反発を買わないかたちで上手く着地させていた。

『あの花』もリア充男女のラブコメだけど幽霊であるめんまの存在によって「アニメでやる」ということの必然性を確保していた。ただ『あの花』で気になったのは、登場人物の目的が「めんま」にまつわるトラウマ解消と小学生時代へのノスタルジーに終始していて、その先の未来が全然見えないということだった。高校生らしい進路や将来に対する葛藤もほとんど後景に退いてしまっていて、「このアニメは視聴者に何を訴えかけたいんだろう?」ということがあまり見えなかった。

ところが今回の『ここさけ』はそこが違ったと思う。

僕が小学生の頃に好んで見ていた『SLAM DUNK』や『幽☆遊☆白書』といった作品は、「どういう大人になるか」ということが深いところのテーマとして共通していて、それは「男の子が強くなる」ということに集約されていたのではないかと思う。で、2010年代にはそういうものは流行らない。そもそも少年漫画的な思想、つまり「男の子が強くなる」だけでは大人になるということの条件を満たしていないし、目指すべきオトナだと思えるはずもない。

よく色んなところで引用されるフィリップ・マーロウの名台詞で「タフでなければ生きて行けない。優しくなれなければ生きている資格がない」というものがあるが、90年代少年漫画は「タフである」ことばかり追求していて、「優しさ」をそこまで追求できていなかった。

今回の『ここさけ』でのテーマはいくつかあると思うが、メインテーマのひとつに「スクールカーストの調停」がある。

数年前、『桐島、部活やめるってよ』の映画が流行したが、この作品のメインテーマはスクールカーストだった。青春時代の鬱屈の原因を、クラス内の地位格差に求める人がそれだけ多いということなのだろう。

アメリカの映画やテレビ業界の制作者にはこの「スクールカースト」に苦しんでそのことをテーマにして作品をつくる人が少なくない。僕が印象的なのはスティーブン・キングの処女作『キャリー』で、映画もスクールカーストに対する激しい怨嗟のようなものを感じて大変面白かった。

アニメや映画のようなものを作るという意味で、アメリカと日本でも制作者側の事情はあんまり変わらないと感じる。アメリカではアメフトやチアリーダーが「ジョック」や「クイーンビー」と言われ、文化系の側からの恨みを買う。そのひとつの象徴的な事件が1999年のコロンバイン高校銃乱射事件で、このとき犯人は「All the jocks stand up!(ジョックの奴らは立て!)」と叫んで撃ち殺したとされている。

そんななかで、僕はこういうスクールカーストものをみると「すごく一方的だな」と感じる部分もある。僕自身は中高生時代は野球部にいたのでジョックとされる側だったのかもしれないが、むしろ自分がオタク系のマインドだったし、野球部内にもギャルゲオタクから文学青年までいろんな人がいたのをみてきたからだ。

スクールカーストの調停

基本的にスクールカーストというのは認識の問題でしかないと思う。「自分はスポーツ系部活に所属しているから上なんだ」「自分はオタクに勤しんでいるから下だ」と思うのは人間の認識にすぎず、現実にそんなピラミッドが存在しているわけではない。

『ここさけ』には田崎くんという野球部の子が登場する。長井・岡田・田中トリオは、田崎くんを単純に「運動部の嫌な奴」とは描かない。劇中で田崎くんは、運動部ではない生徒たちの持つそれぞれの個性に気付いていくし、自分の至らなさも反省する。これはむしろある種、オタク・文化系の人たちの写し絵なのかもしれない。それが岡田麿里脚本の「オタクに優しい」ところで、正面から「お前ら偏見持ちすぎ」とは言わないで、むしろ運動部系のキャラクターを依代にしてそれを代理体験させるという構造になっている。

おそらく『ここさけ』のメッセージのひとつは、そういう認識上の概念でしかない「スクールカースト」の解体であるのだろう。

「目的」の重要性

『ここさけ』でもうひとつ面白かったのが、主人公の所属するDTM部の他の2人である。僕は田崎くんよりも、むしろこの2人のほうが、「野球部性」を強く感じた。オタク的な細かいことをいいつつも、音楽という対象がすごく好きで、「ミュージカルの曲をつくる」という目的が発生したときにその能力が発揮される。僕がみた野球部も同じで、単に対象が好きなだけで、ふだんは自分のオタク性の実現のためにフニャフニャと動いているだけであった。それが大会のような目的が発生した瞬間にイキイキとし始める。

かつて社会学者の大澤真幸が、「共同性は目的性が生じたときに最大化される」と述べていた。どういうことかというと、人間の究極の目的は実は、他者と楽しくやることである。しかしそれは、「仲良くやる」ことそれ自体が目的になったときには最大化されない。何か別の「目標」や「目的」があって始めて、その「仲良くなる」ということが最大限に実現されるというのだ。

運動部系の人間が卒業しても仲が良いように感じられるのは「男どうしの絆が…」「ホモソーシャルが…」云々という難しいそれっぽい議論は必要ないと思う。単に「目的」をひとつにして時間を過ごしたことによって「共同性」が強化されただけにすぎない。

そして『ここさけ』では運動部や文化系に関係なく、「ミュージカルを成功させる」ということを目的に垣根を超えてクラスでまとまる姿を描こうとする。

よく「クラスでまとまって〜」という同調圧力がうざいという議論があり、僕も半分は同意するが、「目的をひとつにする」ということの効用(他者と仲良くなる)を見逃しているという点では、やや視野が狭いのではと感じる。

運動部系は「目標」を設定しやすく、文化系はそれがなかなかやりにくいというだけである。

親との関係

長井・岡田・田中トリオのインタビューも少し読んだが、『ここさけ』のテーマの一つは「言いたいことをちゃんと言う」ということだった。しかし重要なのは、「言いたいことをちゃんと言おう」というメッセージを伝えたいわけではないらしい。人間がみんな言いたいことを言っていたらとてもギスギスした世の中になってしまう。だけど言わなすぎるのもよくない、ということだと思う。

これはこれで壮大なテーマだが、むしろ「親との関係」というテーマがよく前に出ていたと感じた。ヒロインの順ちゃんは幼少期に親に見たことそのままを伝えてしまったことによって両親の関係を決定的に悪くしてしまった、そのことをトラウマとして抱えている。

結局、思春期の若者が抱える鬱屈の大きなテーマは「親との関係」がかなり大きい。アニメのテーマの真正面に据える作品はたしかにこれまでそんなになかったように思う。

これまでの多くのロボットアニメは「父との関係」を組み込んでいた。でも、今や実際の親子関係において「超えられない父」「厳格な父」というものはそんなにない。だからこそ『ここさけ』では順ちゃんの家庭関係においてお父さんは重要視されていない(浮気をして、子どもに冷たい言葉を浴びせて逃げていくようなお父さんなのだから、それは当たり前かもしれないが)。

もはや多くの親子関係において、こういうお父さんは葛藤の対象にはならない。むしろ子どもを愛しているがゆえに、上手くできない「優しい」お母さん的な親(父親も含む)と、自分とのこじれてしまった関係をどうするかがが主題になる。

少しまとめると、この『ここさけ』は、スクールカーストの調停と現代的な親子関係という2つのものを恋愛ドラマのフォーマットのなかで描いていた。これはこれで非常にモラリスティックであり、ある種の辛さもあるものの、ジュブナイルの役割をなんとか果たそうとしている点では、近年では珍しい作品だった。

しかしジュブナイルというテーマは難しい。説教臭く、モラリスティックになりすぎると、それはそれで商業作品としてのダイナミズムを欠いてしまう。ここのところの舵取りがなかなか難しいわけである。

ただ、ジュブナイルが題材にするテーマをアニメの世界で拡張しようとしているという肯定的評価は可能だと思う。『ここさけ』は意欲作ではあったが、この分野はまだまだ発展の余地があるのではないかと思えた。

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