『心が叫びたがってるんだ。』に見る青春ドラマの次の展開について

■最初に、ライトファンの一人としてしかアニメを観れないという話

長井龍雪・岡田麿里・田中将賀のトリオによるアニメ映画『心が叫びたがってるんだ。』(以下ここさけ)を観てきた。
そもそも僕は『あの日見た花の名前を僕達はまだ知らない』に対してはけっこうアンチである。というかそもそもアニメをそこまで好きではない。

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http://www.kokosake.jp/

たとえば90年代の小学生の頃アニメはよく見ていたが、『SLAM DUNK』『幽☆遊☆白書』『ダイの大冒険』のようなジャンプ系とあと『セーラームーン』をSUPERぐらいまでを好きで観ていたぐらいで、今に続く正統オタク系の系譜のアニメでも『ふしぎの海のナディア』は好きだったが、同じチームによる『新世紀エヴァンゲリオン』はリアルタイムで数話観たもののよくわからず途中から観なくなった。まあ小学生なのでそのへんはしょうがない。
2000年代以降の京アニのアニメブームでも『ハルヒ』とか『けいおん!』は観たけど、はっきり言って好きなアニメと言えるのは『コードギアス』『ガンダムSEED』ぐらいである。あとは話題作はそこそこ観ているが、そこまで好きと言えるものもなく、たいへんライトな感じである。

ライトファン向けアニメでも、ジブリ製作のものは『もののけ姫』以降はそんなに心に響くものがないなぁというのが正直なところ。『風立ちぬ』に至っては作品としてはよく出来ているがその根底にあるマッチョな思想にたいへん抵抗感を感じた。(宮崎吾朗監督の『コクリコ坂から』はそのへんの手つきが繊細だったので、比較的面白いと思ったが。)
細田守作品もだいたい観ているが、『時をかける少女』〜『おおかみこどもの雨と雪』あたりで、特に『おおかみこどもの雨と雪』における、一般人にリーチしようと表面的にはマイルドにコーティングされていながらも、深いところにある男性性の歪んだ感じが許せなくなり、『バケモノの子』は観るまいと思った。
他に、ポストジブリを狙っているのは新海誠監督の作品だと思う。『ほしのこえ』〜『秒速5センチメートル』あたりは、非モテマインドを持つ男性ならではの村上春樹性を剥き出しにしているのでむしろ面白いと思ったが、『星を追う子ども』でポストジブリを目指してマイルドにしすぎて逆に迷走している感じが露骨に出ていて「何か違うんだよな」と思い、『言の葉の庭』なんかは観ていない。これもちなみにだが、新海誠監督によるZ会や信濃毎日新聞、大成建設のCMは大変素晴らしいと思った。短い作品だけど、後で述べる「進路や将来への葛藤」という青春時代ならではの普遍的テーマがよく現れているからだと思う。あの感じを薄めずにどう長編に生かすかが今後の新海監督作の見どころではあると思う。
で、岡田麿里脚本の作品に関しては、そこまで「観るのをやめよう」と決意させるだけのものがなかったので、今回の『ここさけ』は普通に楽しみに観に行った、というぐらいの感じである。

■スクールカースト問題をとりまく状況について

結論からいうと『ここさけ』は、アニメ映画としては『コクリコ坂から』以来ぐらいに面白く観ることができた。
岡田麿里脚本作品はオタク男性視聴者の扱いが非常に上手いと感じていて、『True Tears』は主人公が無根拠にモテるというギャルゲフォーマットに従いつつも恋愛ドラマに必要なドロドロや登場人物の心情の動きを繊細に描いていた。『とらドラ!』においては、オタク男性の抱きがちな「リア充爆発しろ!(でも本心ではリア充になりたい…)」という欲求によく応えていて、実際にはリア充男女のラブコメに過ぎない話を、オタク男性の反発を買わないかたちで上手く着地させていた。『あの花』もリア充男女のラブコメだけど幽霊であるめんまの存在によって「アニメでやる」ということの必然性を確保していた。
ただ『あの花』で気になったのは、登場人物の目的が「めんま」にまつわるトラウマ解消と小学生時代へのノスタルジーに終始していて、その先の未来が全然見えないということだった。高校生らしい進路や将来に対する葛藤もほとんど後景に退いてしまっていて、「このアニメは視聴者に何を訴えかけたいんだろう?」ということがあまり見えなかった。

ところが今回の『ここさけ』はそこが違ったと思う。
僕が小学生の頃に好んで見ていた『SLAM DUNK』や『幽☆遊☆白書』といった作品は、「どういう大人になるか」ということが深いところのテーマとして共通していて、それは「男の子が強くなる」ということに集約されていたのではないかと思う。2010年代にそういうものが流行らないのは当たり前で、「男の子が強くなる」だけでは大人になるということの条件を満たしていないからであるし、そもそも「強くなる」というのをロールモデルだと思う人が今はそんなにいないからだろう。
よく色んなところで引用されるフィリップ・マーロウの名台詞で「タフでなければ生きて行けない。優しくなれなければ生きている資格がない」というものがあるが、90年代少年漫画は「タフである」ことばかり追求していて、「優しさ」をそこまで追求できていなかったとも言えるかもしれない。

今回の『ここさけ』でのテーマはいくつかあると思うけど、メインテーマのひとつに「スクールカーストの調停」があるんじゃないだろうか。数年前、『桐島、部活やめるってよ』の映画が流行したが、この作品のメインテーマはスクールカーストだった。青春時代の鬱屈をクラス内の地位格差に原因に求める人がそれだけ多いということでもあると思う。
アメリカの映画やテレビ業界の制作者にはこの「スクールカースト」に苦しんでそのことをテーマにして作品をつくる人が少なくないと聞く。僕が印象的なのはスティーブン・キングの処女作『キャリー』で、映画もスクールカーストに対する激しい怨嗟のようなものを感じて大変面白かった。
アニメや映画のようなものを作るという意味で、アメリカと日本でも制作者側の事情はあんまり変わらないと感じる。アメリカではアメフトやチアリーダーが「ジョック」や「クイーンビー」と言われ、文化系の側からの恨みを買う。そのひとつの象徴的な事件が1999年のコロンバイン高校銃乱射事件で、このとき犯人は「All the jocks stand up!(ジョックの奴らは立て!)」と叫んで撃ち殺したとされている。

そんななかで、僕がこういうスクールカーストものに感じるのが「すごく一方的だな」ということである。僕自身は中高生時代は野球部にいたのでジョックとされる側だったのかもしれないが、むしろ自分がオタク系のマインドだったので、スポーツ系部活に入らずオタク活動に勤しむ子たちとも普通に仲良くしていた。進学校でもともとオタク比率が大変高く、また女子の目を気にしなくて済む男子校だったからという理由もあのかもしれない。

■『ここさけ』のメインテーマのひとつは「スクールカーストの調停」

この「スポーツ系」と「オタク・文化系」の問題について、嫌だなと思うことがある。ひとつは「オタク系とは付き合わん」みたいな選民意識を打ち出すスポーツ系の一部の思想。もうひとつは、オタク・文化系の側の「スポーツ系の奴らはみんなオタクを見下しているんだろ」みたいな偏見である。これは人間を一括りのブロックとして理解しているという点で非常にレイシズム的であるし、どちらも選民思想を背景にしているという点で同じ穴のムジナである。
スポーツ系部活の内部にも様々な多様性がある。特に進学校の野球部なんかはオタク系マインドを持った人間は非常に多く、本気でかめはめ波的な必殺技を編み出そうとする中二病罹患者や、落合博満の偉大さについて急に熱く語り出すようなイタい子も珍しくない。
基本的にスクールカーストというのは認識の問題でしかない。「自分はスポーツ系部活に所属しているから上なんだ」「自分はオタクに勤しんでいるから下だ」と思うのは人間の認識にすぎず、現実にそんなピラミッドが存在しているわけではない。

『ここさけ』から話がそれ過ぎたが、この作品に出てくる田崎くんという野球部の子が登場するのは、上記のような問題に対する長井・岡田・田中トリオなりのアプローチなんだと思う。田崎くんを「運動部の嫌な奴」と描くのは簡単だし、それがある種オタク系の一部の人たちの願望であるのかもしれない。しかしそれをそのまま描くのはフィリップ・マーロウ言うところの「優しさ」の実現ではない。
劇中で田崎くんも、運動部ではない生徒たちの持つそれぞれの個性に気付いていくし、自分の至らなさも反省する。これはむしろある種、オタク・文化系の人たちの写し絵なのかもしれない。それが岡田麿里脚本の「オタクに優しい」ところで、正面から「お前ら偏見持ちすぎ」とは言わないで、むしろ運動部系のキャラクターを依代にしてそれを代理体験させる。

だから『ここさけ』のメッセージのひとつは、そういう認識上の概念でしかない「スクールカースト」の解体であると言えるように思う。結局いまの青春ドラマ、とくにアニメで描かれるものの課題は「多様性への気付き」であるらしい。

■「目的」の重要性

『ここさけ』でもうひとつ面白かったのが、主人公の所属するDTM部の他の2人である。僕の個人的な感覚だと思うが、むしろこの2人に「野球部性」を強く感じた。オタク的にグチグチと言いながら音楽という対象がすごく好きで、「ミュージカルの曲をつくる」という目的が発生したときにその能力が発揮される。野球部も結局同じで、単に対象が好きなだけで、ふだんは自分のオタク性の実現のためにフニャフニャと動いているが、大会のような目的が発生した瞬間にイキイキとし始める。
かつて社会学者の大澤真幸が、「共同性は目的性が生じたときに最大化される」と述べていた。どういうことかというと、人間の究極の目的は実は、他者と楽しくやることである。しかしそれは、「仲良くやる」ことそれ自体が目的になったときには最大化されない。何か別の「目標」や「目的」があって始めて、その「仲良くなる」ということが最大限に実現されるということだ。
運動部系の人間が卒業しても仲が良いように感じられるのは「男どうしの絆が…」「ホモソーシャルが…」云々という難しいそれっぽい議論など必要なく、単に「目的」をひとつにして時間を過ごしたことによって「共同性」が強化されただけにすぎない。
そして『ここさけ』では運動部や文化系に関係なく、「ミュージカルを成功させる」ということを目的に垣根を超えてクラスでまとまったからこそ、「他者との協調」が実現しただけということができると思う。よく「クラスでまとまって〜」みたいな同調圧力がうざいという議論があり、僕も半分は同意するが、「目的をひとつにする」ということの効用(他者と仲良くなる)を見逃しているという点ではもったいない話だと思う。で、運動部系は「目標」を設定しやすく、文化系はそれがなかなかやりにくいというだけである。

■親との関係

長井・岡田・田中トリオのインタビューも少し読んだが、『ここさけ』のテーマの一つは「言いたいことをちゃんと言う」ということだった。しかし重要なのは、「言いたいことをちゃんと言おう」というメッセージを伝えたいわけではないらしい。人間がみんな言いたいことを言っていたらとてもギスギスした世の中になってしまう。だけど言わなすぎるのもよくない、ということだと思うのだが、正直このテーマについてはまだまだ突き詰めていかないといけないんだろうなと感じた。
これはこれで壮大なテーマだと思うが、むしろ「親との関係」というテーマがよく前に出ていたと感じた。ヒロインの順ちゃんは幼少期に親に見たことそのままを伝えてしまったことによって両親の関係を決定的に悪くしてしまった、そのことをトラウマとして抱えているわけである。
結局、思春期の若者が抱える鬱屈の大きなテーマは「親との関係」がかなり大きい。それを青春ドラマの正面に据えるという作品はたしかにこれまでそんなになかったように思う。これまでの多くのロボットアニメは「父との関係」を組み込んでいたけれど、今や実際の親子関係において「超えられない父」「厳格な父」というものはそんなにない。だからこそ『ここさけ』では順ちゃんの家庭関係においてお父さんは重要視されていない(浮気をして、子どもに冷たい言葉を浴びせて逃げていくようなお父さんなのだから、それは当たり前だと思う。)
多くの親子関係において、こういうお父さんは葛藤の対象にはならない。むしろ子どもを愛しているがゆえに、上手くできない「優しい」お母さん的な親と、自分とのこじれてしまった関係をどうするかがが主題になる。そういう意味で、この『ここさけ』は青春の葛藤としての親子関係を現代的に描けていたように思う。

少しまとめると、この『ここさけ』は、スクールカーストの調停と現代的な親子関係という2つのものを恋愛ドラマのフォーマットのなかで描いていた。これからの青春ドラマの担うテーマをしっかり示した作品として、とてもよく出来ていたし、行き詰まりを見せていた青春ドラマの突破口を開いていくものになっていくんじゃないかと思った。
『ここさけ』でそこまで前面化していないテーマとしては「進路や将来に対する葛藤」があるが、このあたりは最近の『君に届け』がかなり頑張って描いているので、こういうテーマで青春ドラマをやるものもこれからどんどん出てくるんじゃないかと思う。

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