上野千鶴子・鈴木涼美の往復書簡形式の著書『限界から始まる』をやっと読み終わった。
けっこう前に買って読み始めてはいたのだが、どうしても執筆用の読書のほうが優先になるので読了するのが先延ばしになってしまう。昨日はオフに設定していたので読み終えられた。最近は3日稼働したら1日休むみたいなのを目安にしている。
内容としてはもちろん興味深い内容ばかりで面白かったのだが、読みながら気になったこと、考えたことを書いておきたい。
(知的)格差の可視化
ひとつは、著者二人ともハイクラスすぎる、これを読んで「その他」と感じてしまう人はどう思うんだろう、ということだった。階級性の残酷さをむしろ感じてしまった。本論と関係ないイチャモンかもしれない。
内容よりも「ハイクラスさに傷つく」人のことを思って何か微妙な気持ちにはなった。じゃあどうせいっちゅうねんと言われても何もないのだけど。日本社会に格差は厳然としてある、それが人間の尊厳と結びついていることの悲しさみたいなものを感じた。
本のなかで石川優実氏のKuToo運動のことが、名前は挙げずとも触れられている。ある種、そういったインテリ層から出てきようのない「ストリートの思想」のようなものへの接し方の解像度が、まだだいぶ粗いのではないかと思った。
身体の思想の欠落
上野は身体に関しても少し触れている。
加齢にしたがって、わたしは身体のままならなさを感じるようになりました。そして「観念に身体を従属させる」ことは身体に対する虐待にほかならない、と思うようになりました。観念に身体を従わせる極限は、自殺です。自殺ほど自己身体に対する虐待はありません。特攻兵の死も、自己身体に対する虐待でしょう。トップアスリートに対する賛嘆は、自己の意思のもとに身体を完全にコントロール下に置くという達成に対する賛嘆と敬意ですが、彼らは同時に身体がコントロールできない限界をも、よく知っているはずなのです。
『限界から始まる』167-168ページ
「観念に身体を従わせる極限は、自殺」というのはなるほどと思ったが、それでもやはり、このレベルの知識人ですら、身体に対する解像度が異常に低く、それはやっぱり問題だなと思った。この程度のことは、身体のことを少し知っている人には当たり前の話ではある。もっとも、アスリートの側があまり自らの行為を言語化していないということも、その原因の一端ではあると思う。
「自己の意思のもとに身体を完全にコントロール下に置くという達成に対する賛嘆と敬意」とあるが、それは間違っている。もっとも、これが一般的な理解でもあるのだろう。
正確には、「身体を完全にコントロール下に置」いているのではなく、すぐ後にあるように「身体がコントロールできない限界」をよく知った(体感した)上で、ままならぬ身体とうまく付き合う(統治する、ではない)ことが非常によくできているのだと思う。
それは脳で理解するというよりも、身体という「自然」をぼんやりと捉えて、脳と身体が一体になる(脳が身体の一部に戻る)ような感覚である。もっと言えば、これはトップアスリートしか到れない境地では全然なく、僕のレベルですらそういうことは理解している。「精神-身体」の関係については言語化の蓄積がまだほとんど、ある程度の高さとして積み重ねられていないのだと思う。
「なぜ男に絶望せずにいられるのか?」
鈴木涼美は、上野千鶴子に繰り返し「なぜ男に絶望せずにいられるのか?」と問うている。上野の答えは以下のようなものだ。
あなたは何度も「上野さんはなぜ男に絶望せずにいられるのか?」と訊ねてきましたね。ひとを信じることができると思えるのは、信じるに足ると思えるひとたちと出会うからです。そしてそういうひととの関係は、わたしのなかのもっとも無垢なもの、もっともよきものを引き出してくれます。ひとの善し悪しは関係によります。悪意は悪意を引き出しますし、善良さは善良さで報われます。権力は忖度と阿諛を生むでしょうし、無力は傲慢と横柄を呼び込むかもしれません。わたしはイヤなヤツには相手以上にイヤなヤツかもしれませんし、狡猾さも卑劣さも持ち合わせていますが、自分のなかのよきものを育てたいと思えば、ソントクのある関係からは離れていた方がよいのです。
『限界から始まる』261ページ
このあたりの記述でよくわかったのが、上野千鶴子が「男は……」と語るとき、そこには「男にもいろいろいるけれど、あえて大きいくくりで語る」というエクスキューズが含まれていたのだと思う。
鈴木涼美は、これらの返答を受けて、以下のように言語化していた。
私はAVを引退して今年で15年、クラブやキャバクラなどの水商売から完全に足を洗って5年ですが、今になって「魂に悪い」という言葉で言わんとされていたことがどういった事態なのか、少しだけわかる気がします。魂という語、あるいは悪いという語がしっくりくるかどうかはさておき、人の、特に男の、社会生活では曝されない姿ばかり間近で目撃し続け、またその情けない姿によって自分の商売が成り立つという構造を受け入れ続けることで、本来失わないでいい希望や信頼が猛スピードですり減ったような気がします。スレるとか現実を知るとか言ってしまえば単純ですが、もっと根本的な人を尊び敬う態度を放棄してしまう側面があるのかもしれません。
もしかしたらその辺りが、私が10代の頃からずっと探し続けた「売春をしてはいけない理由」を立ち上がらせるのかもしれない、という気が、最近しています。人が売春行為に対して持つ嫌悪感、親たちが娘に売春をして欲しくないと感じる拒否感を作り出しているのは、はしたないとか危ないとか自尊心が汚れるとかいう理由以上に、他者に対して持つリスペクトがねじれてしまうことへの危機意識なのかもしれません。
『限界から始まる』278ページ
「なぜ男に絶望せずにいられるのか?」というのは、僕なんかも男なので正直、この種の話をされると「なんて失礼な」「クソみたいな男ばっかり見て『男に絶望した』とはざっくりしすぎではないか?」と感じたりする。そして女性にもクソみたいなのはいるだろうとも思う。
僕自身は昔、「男に比べて女の犯罪率は顕著に低い、だから女性のほうが本質的に善」みたいなことを思っていた。今思うとかなり危険思想である。でもいろんな人と接すると、事態はそう単純ではないことに気づいた。そもそも「男はダメ、女は良い」というのも本質主義的で、差別的ですらある。「韓国人はダメ、日本人は良い」と言っているのとそこまで大きく変わるものでもない。「男はこう、女はこう」というのはあくまでもツール、概念であるということを踏まえておくことはやはり必要だ。
そもそも売春だったりAVの現場だったりは、男のクソさみたいなものが集中的に表現される場だが、そういうところに行かない、関わらない男性のほうが多いので、そこだけを見て「男は……」と語るのはフェアではないというのはやっぱりあると思う。
女性運動と男性運動
ただ、そういう反論的な言説があるだろうことを踏まえて、上野千鶴子はこういうふうにも書いている。
ところで、どうして性暴力の問題を解決しなければならないのが、被害者側である女性なのか、わたしには理解できません。男の問題は男たちが解くべきではないのか、なぜ女性からの信頼を失墜させる痴漢男性に男たちは怒らないのか、なぜ痴漢撲滅の運動を男性たちは起こさないのか、それどころか女性からの告発を不当な訴え扱いして「痴漢冤罪」説ばかり主張するのか、セクハラ男に最初に怒ってよいのはセクハラしない男たちなのに、なぜ彼らは怒る代わりにかえってセクハラ男をかばおうとするのか、風俗を利用する男たちはなぜそれを恥だと思わないのか……ほんっとに男って、謎だらけです。
たぶん、答えは決まっていて、「男ってそんなもの」だから。ほんとうにそうですか? 「男ってそんなもの」、だとしたら、そのなかには、「もしかしたらオレだって」という共感があるはずです。その「共感」と理解があれば男のなかにある加害性に向き合ってもよさそうなものですが。女性たちはその「共感」をもとに女性運動をやってきました。もし女性運動に匹敵するような男性運動がないとしたら、その理由は男性たちが自分たちの加害性に無自覚か、もしくはそこから利益を得ているから、としか考えられません。
『限界から始まる』320-321ページ
この上野千鶴子から突きつけられた問いに自分なりに答えてみたい。なんかクイズみたいなものを投げられているような気がする。
「痴漢冤罪」説ばかり主張するのは、多分、自分が冤罪にされるのが怖いからだと思う。また痴漢に対して「自分もやってしまうかもしれない」と、自分を信じられないので、「痴漢撲滅!」などと運動する勇気が持てない。あと、もし「痴漢撲滅!」などと運動を始めたら、周りの男の仲間たちから「あいつモテようとしている」と後ろ指をさされるのも怖いと思う。
そして実際に「モテたい」という気持ちから完全に自由にはなれないこともわかっているので、誰かから「モテようとしてるだろ」と言われると瞬時に心が折れてしまう、それも予想できる。
セクハラや風俗なども似ている。風俗に関しては、「男の仲間がその構造から利益を得ている(風俗を利用している)」ということはわかっているので、風俗反対運動なんかも「仲間を失う」のが怖いからできない。風俗に行くことも、価値相対主義の観点から批判することが難しい感じがある。「風俗批判するとか、まじノリ悪いな」と思われることも嫌なのだと思う。
基本的に今の男たちは「男らしくある」ことからすでに降りているのだと思う。誰がなんと言おうと、「痴漢撲滅!」「風俗反対!」と貫くことができない。それは私利私欲を優先し個人の生活を大切にする個人主義が徹底された結果でもあるのだろう。
今はフェミニズムや男性学などの分野でも「男らしさの鎧を脱ぎ去ろう(=いわゆる脱鎧論)」ということが言われている。ところが、こと痴漢やセクハラや風俗などに関しては、とっくに男らしさの鎧なんぞは脱ぎ去っているのだ。
明治大正〜昭和期の廃娼運動
最近、明治大正〜昭和期の廃娼運動のことを少し知った。安部磯雄は廃娼運動の旗振り役をやっていて満州にまでわざわざ押しかけて「からゆきさん」を連れ戻したりしているし、押川春浪も「淫売窟退治運動(今でいう風俗反対運動だろう)」などをやっている。安部磯雄はいわゆる「男らしさ」とは少し違うパーソナリティの持ち主だが、押川春浪は男らしい男だった。
ほかにも、救世軍の「男たち」が、風俗経営者たちに殴る蹴るの暴行を受けながら、娼婦を廃業したい女性を命がけで救い出したという事件もあった。
そういった話を読んで僕は「昔の人は立派だなぁ……」という感想を抱いたのだが、現代の、個人主義が個々人の心の隅まで内面化した状況ではなかなか難しいような気もする。男たちのなかで「勇気」が失われ、「カッコよくあること」への憧れのようなもの、義侠心のようなものがすっかりなくなってしまった。もしかしたら、それがなぜなくなっていったのかの経路を知るということが大事なのかもしれない。(これはやや宣伝だが)そのへんの話も「文化系のための野球入門」連載で触れていくことになると思う。
(了)
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